クリスマスの朝に
翌朝、相変わらず元気な千佳をつれ居間に降りると、そこはお通夜のような有様だった。
部屋の隅に折れたクリスマスツリーがなければ、クリスマスの朝だと言われても信じられないような、痛いほどの沈黙が居間には漂っている。
「昨日の残り物があるから、食べましょうか」
と疲れた表情でお袋が取り出したのはこれまたクリスマスのケーキやごちそうだったが、電子レンジで再加熱されたそれらは、ご馳走としての自覚をなくし酷くくたびれている。
ちなみにお袋が言うには、このご馳走はすべて久方ぶりに帰ってきた兄貴の為に用意したらしい。
けれど兄貴の失態と父の怒りでごちそうを食べる余裕はなくなり、こうしてお通夜の添え物となった次第である。
唯一クリスマスらしさを誇示しているのは冷蔵庫の中で一夜を過ごしたケーキだけだが、お通夜状態故誰も手をつける様子がない。
チカだけは物欲しそうにケーキをじっと見つめていたが、それに気付く者もいないので、柄にもないとわかっていたが、俺がケーキを切り分けることにした。
千佳の目の前にケーキを起き、それから俺は向かいの席に座った親父の様子をうかがう。
その顔は所々赤く腫れ上がっており、口の端も酷くきれている。それでもサラダを器用に食べているが、痛みをやせ我慢しているのは間違いない。ケーキは俺達で始末した方が賢明だろう。
「お父さん、チキン食べます?」
しかしこう言うときは特に空気の読めないお袋は、顔の腫れた父に一番食べにくいもも肉を差し出している。むろん親父は絶句である。
「あの、私ほしいです」
代わりにあの空気の読めない千佳が空気を読み始める始末だ。多分彼女もこの重い空気に何かしらの責任を感じているに違いない。
というか実際原因は千佳である。
「兄貴は?」
仕方なく多少でも流れを変えようと声をかければ、突然親父の手の中で箸が粉砕した。そしてその表情は鬼のように険しい。
ちなみにこう見えて、親父は一般商社につとめるサラリーマンである。俺もたまに信じられないが。
「……出て行った」
静かに言いつつ、親父は二つに折れた箸を机に叩き付ける。
「この子を置いてか?」
「そうだ」
「あいつが貰ってきたのに?」
「そうだ」
「行き先は?」
「誰も知らん」
今度は湯飲み茶碗を粉砕し、親父は肩を怒らせている。
俺も人のことは言えないが、兄貴は前々から父を怒らせる天才だった。特に成人してからはそれが顕著で、俺が奇跡の更正を果たした一方兄貴は堕落の道を猛スピードで転がり落ちている。
だから兄貴が千佳を置いて逃げるのは何となく予想がついていた。
というか実は家を出て行くところを窓から見ていたが、あえて止めなかった。ここに残っても兄貴が大人の決断をすることは絶対にないだろう。むしろいらんことを言って親父と二日連続で殴り合いをするのは目に見えている。
だからむしろ俺はホッとしているが、両親はさすがに我慢の限界に来ているらしい。
なにせ中身は千佳とはいえ、子供の前で父親候補が消えたと暴露している位である。これはかなり頭に血が上っている。
「……博文、お前施設にアテはないか? そう言うところから通ってる子もお前の学校にいるだろう」
こぼれたその一言を俺は予想していた。けれどやはり、口に出されると胃が冷たくなる。
「この子を預けるのか?」
「可哀想だがウチで預かる義理もない。それに正樹を呼び戻しても、あいつのトコじゃ幸せにはなれないだろう」
そこには同意する。けれどだからといって、早々に施設送りを決断した親父に、俺は酷く腹が立っていた。
親父にここまで腹が立ったのは本当に久しぶりだった。たぶん千佳がお気に入りの、あの学ランを着ていた頃以来だろう。
「じゃあ、俺が引き取る」
今度は味噌汁のお椀がひっくり返る音がした。
けれどそれは意外にも、隣に座る千佳の物だった。
彼女には赤の他人のふりをしろと言いくるめていたが、思わず俺の方がいつもの調子で声をかけてしまう。
「嫌なのか?」
「あの、えっと、出会えただけで胸がいっぱいで同棲とか出来ると思ってなくて」
千佳の流暢なしゃべりに親父と母が一瞬眉をひそめた。けれどこういう時の千佳は聡い、すぐさま子供らしい仕草で「こぼしてごめんなさい」と殊勝な顔をする。
「俺なら兄貴と違って収入もあるし、独り身で金もそれなりに貯まってる」
「子供よりまず結婚だろう!」
「する予定はないし、家や車を買うつもりも今はない。丁度良いだろう」
言いながら、俺は反射的に体を斜めに傾けた。
直後、先ほどまで俺の鼻があった位置に親父が拳を突き出している。
「そんな勝手なことが許されると思うな!」
「そもそも最初に勝手なことをしでかしたのは兄貴だろ。家族の尻ぬぐいくらい、俺はするべきだと思うが」
「きれい事だけで子供が養えるか! それに母親だって死んだ訳じゃない、養う前に母親を捜すなりすべきだろう!」
確かに正論だ。それに正直、俺だって千佳でなければこんな事を言い出していたとは思えない。クリスマスを理由に聖人になれるほど、俺だって善人ではない。
「わかった、きれい事はもういわない。俺はこいつが欲しい、だから連れて帰りたい」
今度は横で千佳がお茶をこぼした。
「それはお前、子供が欲しいって事か?」
「そうだ。新しい親がこいつにとって良い親になる保証はないし、俺だったらこいつを不幸にはしない」
「子育てもしたこともないくせに、何考えてる!」
「俺はもう、こいつをこんな痣だらけにしたくない。がりがりになるまで飯を食わせないようなやつの手にも渡したくない」
両親の顔が今更のように千佳に注がれる。驚くその顔に、俺は二人がこの時はじめて千佳をちゃんと見たのだと気付いた。
「こいつは俺が育てる。なんと言われようと」
俺へと視線を戻した親父は酷く怒っていた。けれどそれは、自分への怒りのようにも思えた。
「この分からず屋が」
生まれて初めて、生のちゃぶ台返しを見たのだろう。まあ正確にはテーブル返しだが、宙を舞う茶碗に千佳が目を見開いている。
「お袋の側にいろ、近づいたら怪我するからな」
椅子を蹴り飛ばしながら親父を睨めば、彼は鬼の形相で俺に腕を振り上げていた。