決断と勘違いの代償
時計の音と先生の寝息を聞きながら、私は静かに布団の抜け出した。
時間はよく見えないけれど、たぶん日付は変わっている頃だろう。
布団を抜け出し、それから私は隣で寝ている先生の側に膝を抱えて座る。
こうして眺める先生の寝顔は、私の宝物だった。
もちろん暗くてよくは見えない。でもこうして先生の寝息を聞きながら、おぼろげな輪郭を眺めるのが好きだった。
けれどそうして彼の寝顔を眺める資格は、私にはもう無い。
いや、もうずっと前から資格など無かったのだ。
『残念だけど、君の恋人はもう君を好きじゃない』
タカシ君の言葉を思い出しながら、私は先生の寝顔から目を背けた。
言われてみれば今までのどの人生よりも、先生は私に冷たかった。
けれど私はその意味をちゃんと考えたことがなかった。
今回だけでなく、私はもうずっと前から、彼の言葉と心を蔑ろにしてきたのかもしれない。
普通よりも何倍も辛い恋に何度も何度も付き合わせてしまったのに、いつしかそれを当たり前の事のように思っていたのだ。
嫌われて当然だ。好きと言いながら、私は先生の気持ちをちゃんと考えたことがなかったのだから。
泣きそうになるのをぐっとこらえて、私は前に自分で書いた絵本を棚から抜き出す。
先生に無理を言ってひもで閉じてもらったそれを静かにばらし、その中の一枚を私は先生の枕元に置いた。
『私のことは忘れてください。そしてあなたは幸せになって下さい』
そこに書かれている台詞は、かつて私が彼に言った物だ。
あのときはあんなにも簡単に言えたのに、それを今一度口に出すのは酷く辛い。だから私はそれを枕元に置いたのだ。
今思えば、本当はもっと早くに言うべきだったのだろう。
むしろ出会うたびに言うべきだったのだ。
彼を愛しているなら、彼の幸せを願うなら、いつでも辞めて良いのだと言うべきだったのだ。
けれどわかっていてもそれを言うのは辛くて、それがきっと彼を苦しめたのだろう。
私は涙をこらえながら、もう一度先生の側に戻る。
言うべき言葉を告げられぬなら、私がすべき事はひとつだ。
先生は私が子供らしく在ることを望んでいる。恋人のように接する態度を嫌っている。そして何より、私との愛に疲れ果てている。
ならば私がすべき事は、自分もまた呪いに負けを認め、今度こそ本当に彼を解放することだ。
そうすれば先生が嫌いな私は消え、彼の望むただの4歳児になることが出来る。
「先生ごめんね」
嫌いだと言われた言葉をちゃんと真に受けなくて。
無いはずの愛に縋り付いて。
その上一人死を繰り返した私の面倒までみさせて。
「行くとこないからもう少し迷惑かけちゃうけど、先生が嫌いな私はちゃんといなくなるから」
そうすればきっと、先生は楽になれる。
だから私は必死に念じた。自分は負けたのだと。
私は呪いに必死に語りかけた。もう開放して欲しいと。
けれど、いつまでたっても忘却は訪れなかった。
先生を見ないように目を閉じて、泣きながら何度も何度も負けを宣言したのに、膨大な記憶も数え切れないほどの愛も上手く消えてくれない。
この方法ではないのだろうか。何かすべき事があるのだろうか。
そう必死に考えて、ありとあらゆる言葉で負けを宣言したのに、やっぱり終わりは訪れなかった。
「いつまで、泣いてるつもりだ」
その代わり、静かに降りてきたのは先生の声だ。
涙を拭きながら目を開けると、先生が困った顔でこっちを見ている。
「先生……わた…し…」
「やっぱりチーズが良くなったのか?」
全然違う。そんなことどうでも良い。そう思いつつ、私は目玉焼きで良いと答えていた。
場違いなその言葉で、私は今更のように気付く。
諦めると良いながら、私は何一つ手放していないのだと。
「先生、今すぐ大嫌いって言ってください」
「どうした突然」
「いいから!」
私の泣き声に、先生は静かに告げた。
「大嫌いだ」
口で言われたのに、そして諦めると心の中で叫んだのに、私の想いは消えなかった。
「もう一回」
「大嫌いだ」
「もっと憎しみを込めて」
「大嫌いだ」
「もっと心の底から」
「お前の事なんて、大嫌いだ」
嫌いだと先生は何度も繰り返した。
でもどういうわけだか「好きだ」と言われているような気までしてきた。
たぶん、長い間先生の罵声を聞き続けた弊害だろう。
そしてそれを、愛の言葉だの照れ隠しだのと勘違いしすぎたのもいけなかったのだろう。
「お前が大嫌いだ」
言って、先生がゆっくりと起きあがった。
そして彼は腕を伸ばし、私を抱き寄せた。
優しくされたらまた期待してしまう。忘れられなくなってしまう。
泣きながら必死に抵抗しようとしたが、先生の腕に4歳児が叶うわけがない。
「チカ」
その上耳元で名前を呼ばれ、私のなかで、彼への愛しさが高まってしまった。
「私、明日も先生のご飯が食べたい……」
諦めるのは困難なのに、好きな気持ちはいとも簡単に歯止めを失う。
「目玉焼きが好きな私のまま……、大好きな先生の朝ご飯が食べたい…」
気がつけば、先生の胸に縋り付いてわんわん泣いてしまっていた。
その上、何があったのかと尋ねる先生に、今日あったことを洗いざらい打ち明けてしまっていた。
本当に彼を思うなら言うべきではない。そうしなければ先に進もうとした彼の足かせになってしまう。
それがわかっていたのに、卑しい私は自分の言葉で先生が罪悪感を感じればいいと一瞬思ったのだ。
その罪悪感が絆に変わればいいと。
歪な形でもいいから、私と彼を繋いで欲しいと思ってしまったのだ。
「…ごめんなさい」
最後の理性で涙の間に謝罪を挟むと、先生が優しく私を抱きしめてくれた。
「謝らなくて良い」
その口調は大嫌いと言われたときと同じ物なのに、まるで大切な人に語りかけるような暖かさに満ちていた。
※11/18誤字修正しました(ご指摘ありがとうございます)