6話
二章 再会と青春
【夢原颯太視点】
カラオケを終えて田崎と別れた後、俺は自宅へと帰宅した。
家は都心部にある二階建てのアパート。階段の手すりは寂れており、壁も黒ずんでいて、いかにもボロい。
ただ、その分家賃は安いので、貧しい我が家の家計事情を考えれば、これが妥当の物件である。むしろ、住処があるだけでもありがたい限りだ。
我が家の部屋は一階の一番端。
ドアの前で、学校指定のカバンから鍵を取り出し、鍵を開ける。
「ただいま」
相変わらず玄関は靴で散らかっている。サンダルや昔の靴など、母さんが、捨てるのは勿体無いからという理由で、使わない靴までをも玄関に放置している結果だ。
家は母と妹と俺の三人暮らしなのに、この玄関を見ると、一体我が家は何人家族だよ、と毎回思う。かといって整理するのも面倒なので、このまま放置となる。この雑な性格は、非常によろしくない。ちなみに、我が家の家の中は狭く、手狭な1Kである。
「おかえり颯太。思っていたより遅かったわね」
部屋の中から母さんの声。いつものように小さくて、どこか儚げな声だ。けれど、毎回その声色には、夕凪のように穏やかな人柄を感じさせる。
そして今の時刻は、午後九時。
「うん、ちょっと盛り上がっちゃって」
部活の集まりで遅くなることは、携帯で連絡済みだった。
「晩御飯のカレー、ラップして置いてあるから、食べちゃいなさい」
「ありがとう」
手を洗い、学校の荷物を置いた後、俺は小さな和テーブルにあったカレーに手をつけた。
「……颯太。まだ入学して一ヶ月だけれど、学校は楽しい? お友達はできそう?」
母さんは、俺がテーブルでカレーを食べているのを眺めながら、訊いてきた。頬杖をついて、穏やかな顔と口調で。
「……うん。できそうだよ」
……嘘は言っていない。現に今日は新しく仲良くなれそう人たちと出会えたし。ただ、過去の経験上、本当に友達ができるのか心配に思う部分はあるため、内心素直にはうなづけない。もちろん、母さんには心配をかけないよう、取り繕ったけれど。
「そう。……ならよかったわ」
これ以上、母さんを心配させるわけにはいかない。父さんと離婚して以降、母さんには負担をかけてしまっているから。
そう思える分、俺はたぶん、母さんのことを大切に思えていると思う。それはきっと母さんもそうだ。小学生の頃、父さんと離婚してから、女で一つで、俺と妹を育ててくれたのだから。
ただ、母さんが俺のことを真に愛してくれているのかどうかは、俺にはわからない。
というのも、父と家族四人で一緒に住んでいた頃、父と母さんが言い争っている最中、母さんは、ぽろりとこぼしたのだ。「私だって、もう子供を育てるのうんざりなのよ!」と。
妹もそれを聞いていたが、妹はまだ幼かったのも手伝い、もうその言葉を今では忘れているようだけれど、俺はずっと、その言葉に引っかかっていた。
小さな湯船に浸かった後、風呂から上がってパジャマに着替えた。その後、俺はバスタオルで髪を洗いながら、風呂場を出た。
「お兄ちゃーん。メールきてるよー」
すると、妹の美月が、寝転んだ体勢でテレビを観ながら、俺のスマホを掲げて言う。
「美月、勝手に人のスマホ見んなよ」
「だってたまたま視界に入っちゃったんだもん」
「貸して」
「ほい」
美月は俺のスマホを軽く投げて渡した。
「あっ! ちょちょちょちょいっ!」
慌てて俺は、スマホを落とさんと反射的に反応し、キャッチする。
俺が十分に近づいて、確実にキャッチできるのを見計らっての動作だったのもあり、揶揄の気持ちで投げたのだということはわかった。
それでも、現代の若者の命だと言っても過言ではない精密機器を雑に扱われたことには、多少なりともイラッとした。
「おい、危ないだろ、投げんな」
「ギャハハッ。ごめんごめん」
相変わらず生意気な妹だ。小さい頃はあんなに素直でかわいかったのに。時の流れとは残酷だということを、身に染みて理解させられた。
「ったく」
お互い軽口を叩い後、俺はスマホの画面に視線を下ろす。
そこには、美月が言っていたように、一通のメールが来ていた。孤山からだ。
「何なに、彼女?」
「断じて違うっ!」
美月の軽口を流し、美月を追い払った。
そして携帯のメールアプリを開き、メッセージの内容を拝見する。
『今日、夢原君の元同級生の人から、夢原君と久々に会いたいとの相談を受けました。なので明日、お昼休みに中庭に来てください。お名前は影山日和って人です』
メールの中身はそんな感じだった。
「……影山日和」
その名前を見た時、俺は少し驚いた。影山日和って、まさか。
俺は、その名前をはっきりと覚えている。随分と久々に聞いた名前だったので、懐かしい響きを感じた。
影山日和。幼稚園からの俺の幼馴染だ。
うーむ。どうしたものか。正直、影山のことは嫌っているわけではないのだけれど、久しぶりすぎて少し会うのに抵抗がある。
適当な理由をつけて断ってしまおうかと考えたけれど、せっかく久々に会いたいといわれている以上、断るのも罪悪感を感じる。
そうして、俺はメールで、『わかった』と孤山に短く返信をした。
「……はぁ」
俺はため息をつき、壁の隅にもたれかかる。たぶんこのため息は、懐かしいなぁ、という感情に浸ったものと、あの頃の楽しかった日々を思い出し、切ない現状と比較して、落胆したものだと思う。
影山が俺のことを覚えてくれていて、その上、わざわざ呼び出してくれたことは、素直に嬉しい。けれどそのまま、また仲良くなれるのかと考えれば、難しい気がしてならない。だってもう何年も話していないし。今更なにを話せば良いのかよくわからない。
それに、おそらく影山も久々で少し顔を見たいというだけだろうし。だから、影山とはたぶん、明日少し話せば、それっきりだろうな。
「……」
……ふと俺は思った。いや、わりといつも考えることなのだけれど。
……もしも、もしも俺がこの世からいなくなった時、心の底から悲しんでくれる人はいるのだろうか。
母さんや美月は、俺が死んだら、泣いてくれるのだろうか。本当にわからない。いくら家族でも、結局は他人なのだ。心の奥底まで理解し合えるはずもない。それこそ超能力でもない限り。
母さんは、悲しんでくれるかもしれないけれど、どれくらい悲しんでくれるのかな。美月もいるし、わりと一日経てば切り替えるのだろうか。
美月はどうだろう。美月はたぶん泣かないだろうな。一日経てばケロッとしていそうだ。
田崎は? たぶん泣かない、たぶん俺たちは、そこまで仲は良くない。良いやつだけど、葬式には来ないかもしれないな。
……じゃあ、孤山は? ……いや、考えるまでもないか。所詮俺たちは友達保険に過ぎないのだから。
……俺が死んでも、誰も悲しまない。
テレビの雑音と、それを観ている美月の笑い声が聞こえる。小さな部屋の中の低い天井を意味もなく見上げていると、その声は次第に遠くなっていき、やがてその音が遮断されたかのような錯覚を感じた。その錯覚はまるで、世界から俺だけが遮断されたかのようだった。
*
翌日。一年A組の教室にて、四限目となる数学の授業を受けていた。高校に入ってから一ヶ月以上が経ち、少しずつ新しい授業の環境にも慣れてきた。それも手伝ってか、少し眠い。早く終わらないだろうか。
というか、なんなら前に立つ先生も眠そうにしている。疲れが溜まっているのかもしれないな。教師という仕事はストレスが溜まりそうな職だから。
思えば学校という場所は、ほかの職場と比べても、比較的幅広い年齢層の人間が集まる場所ではなかろうか。
生徒や教師、保護者も含めればそう感じる。おっさんや同僚やら若い生徒やら、多様な年齢とのコミュニケーションを図るのは、なかなかしんどそう。俺なら絶対お断り。
俺の中で教師という職は、世の中で一番なりたくない職業ランキング一位だ。日頃から教師を見ていてそう思う。なんだか色々と大変そうだし。
そんな他愛もないことを考えていると、チャイムが鳴った。授業終了の合図。それは同時に、昼休みの合図でもある。そのまま日直の号令を受けて授業終了の挨拶をし、俺は少しばかり背伸びをした後、教室を後にした。孤山たちと待ち合わせの約束があるのだ。
教室を出て、階段を使い一階へと降りる。昇降口の下駄箱で外履へと履き替え、中庭に出る。
とりあえず中庭には出たが、まだ孤山と影山らしき姿は見当たらない。まだ来ていないようだ。ひとまず、近くのベンチに座って待つとしよう。
そうして俺は、近くに設置されてある適当なベンチに腰掛け、空を見上げながら待つ。空は青く晴れ渡っており、太陽が眩しかった。
……正直、影山とはもう会わないだろうと思っていた。
幼稚園から小学校低学年までは一緒にいたけれど、小四あたりからは、話す機会も減っていった。仲が悪くなったわけではなかったけれど、高学年になっていくにつれ、自然となんとなく距離ができ始めた。お互い成長していくにつれ、同性と絡むことが増えたためだ。男女の幼馴染あるある。そうやって気づけば、少し疎遠になっていた。
そしてそのまま、小五のあたりで影山は引っ越してしまい、それっきりだ。
だからいまさら話すことなんて特にない。ましてや、わざわざ待ち合わせしてまでだなんて。
「あっ!」
そんなことを考えていた矢先。後ろから声がした。
その声に反応して、俺は反射的に後ろを見る。
そこには孤山と、もう一人。髪を三つ編みにした女子生徒がいた。おそらく先ほど声を上げたのは後者だ。
……あぁ、たしかに覚えている。……彼女だ、影山日和だ。久しぶりに彼女の顔を見た。もうかれこれ五年ぶりの再会になる。その分、背丈も少し伸びているし、髪型も変わっていた。彼女は昔、ボブヘアだったはず。
ただ、背丈や髪型こそ違えど、顔立ちやオーラから、昔の彼女の面影は今でも感じる。小さな童顔フェイスに、パッチリとした大きな目、同世代の女子と比較しても、整った顔立ちをしていた。そう。今目の前に映る彼女が、あの小学時代を共にした影山日和本人なのだと、俺の魂がそう告げていた。
「颯太!」
影山はにこやかに手を振りながら、俺のところまで走り向かってきた。
「ひ、久しぶりね、颯太! ……覚えてる? 私のこと……」
「……うん。まあ、一応……」
覚えているとも。というか、ちょっとドキッとした。久しぶりの再会の上に、一応影山は女子だし。
「そう、良かった」
「……」
しばらく沈黙が流れた。少しばかり気まずい! あっ、そういえば孤山。この場に関係ない孤山を待たすのは悪いし、彼女には先に帰ってもらおう。
「あっ、孤山ありがとう。もう戻ってもらってもいいよ」
「いえ、私もここにいます」
「え、何で?」
「……あの、颯太。元気してた?」
「えっ、あっ、うん。まあね。影山は? 元気だった?」
「うん、まあね」
「っていうか同じ高校だったんだ。びっくりしたよ」
「ね! 私も颯太を見かけた時はびっくりしたわよ!」
「……うん、だよね。あっ、そういえば、漫画家の方はどうなの? 上手くいってる?」
「えっ、覚えていてくれたの!?」
「うん。まあ」
「えっ、なんか嬉しい! あっ、漫画の方はうまくいっているかどうかと言われれば、ぼちぼちって感じかな。あっ、でもね!? 漫画は今でも描き続けているの。ただ、何度か応募もしたんだけど、あまりうまくはいかなくて、まあ、当然なんだけどね」
「そ、そうなんだ……」
というか、影山ってこんなだったっけ? なんというか、元気いっぱいというか、口数が多い気がする。昔はもっと大人しい感じだったと思うけれど。
だけどまあ、数年のブランクあるし、そりゃあ少しは性格も変わるものかもしれない。
「影山も頑張っているんだね」
「まあね。颯太はどんな感じ? あっ、上原君たちとは今でも仲良いの?」
「……あっ」
……。……あぁ、そうだ。そうだった。影山とあいつらは、接点があった。
「……いや、……えっと」
……思い出させるな。もうこれ以上、あいつらのことを。
「……どうしたの? 颯太?」
「……いや、ごめん。ちょっと今日は、もう、教室に戻るよ」
「……え?」
ダメだ。影山の顔を見ただけで、あいつらのことを、上原たちのことを、嫌でも思い出してしまう。
「……いや、その、ご、ごめん。とにかくもう、行く」
俺は影山から離れるように、中庭を後にした。とにかく今は、一刻も早く、ただただ影山から離れたかった。影山が嫌なわけではない。影山と上原たちに接点があったことを思い出した瞬間から、影山の顔を見ると、嫌な過去がフラッシュバックしてしまう。
「えっ、ちょっと!? 急にどうしたの!? せめて連絡先くらい交換しようよ!」
影山の声はもう聞こえない。影山には悪いが、もう影山には会いたくない。もう、昔を思い出したくない。
「……夢原君?」
昇降口前で見ていた孤山を通り過ぎて、靴箱で上履きに履き替え、校舎へと入る。そのまま階段を登って教室へと向かう。
「……夢原君、大丈夫ですか? 息が荒いですが」
その道中、階段を登りながら一緒についてきた孤山に声をかけられた。彼女に言われてやっと気づいた。たしかに息切れがひどい。無意識だった。
「……う、うん。大丈夫。……ちょっと休むよ」
俺は無意識に過呼吸になりながらも、階段の踊り場で一旦足を停止し、近くの手すりにすがりながら、ゆっくり息を整えた。気づけば、孤山が背中をさすってくれていて、少し落ち着けた。
「……ふぅ。……ごめん、もう大丈夫だよ」
「……また、思い出しちゃったんですか? 昔のこと」
「……うん、ちょっとだけ。……でももう大丈夫だよ」
俺は手すりにつかまりながら、ゆっくりと顔を上げる。すると目の前に、孤山が何かを見せてきた。
「……よければ、これ、貸してあげます」
それは、ハンカチだった。すみっこに小さな桜の刺繍がしてある、白くてシンプルなハンカチ。それを見て初めて、俺は額に汗をかいていることに気づいた。
「……ありがとう。洗って返す」
「いえ、ちょっとくらいなら大丈夫です」
お言葉に甘えてハンカチを借り、額の汗を軽く拭う。すると、孤山が小さく口を開いた。
「……あの、少しお聞きしたいことがあるのですが。さっきの影山さんって人、夢原君のお友達ですか? 新しくできたお友達ならともかく、私と出会う前からのお友達なら、私と友達保険を結んだことと矛盾してしまいます」
なるほど。孤山は俺たちが昔からの友人なのだと感じて、それを確かめるべくあの場に残ったわけか。
「……すみません。あまり彼女のことを考えたくないのなら、無理に話さなくてもいいですけれど」
別に影山に恨みがあるわけではないのだ。ただ、影山も上原たちと少なからず面識があって。そのため影山を見ると、その影山を通して無意識に過去の記憶が蘇ってきてしまうというだけなのだ。
けれどそれはさておき、たしかに、孤山の懸念点はもっともだ。俺たちの友達保険は、お互い心底信じ合える人、友人ができるまでの孤独を解消するためのもの。保険関係を結ぶ前に、元より友人がいたとすれば、それは騙したということに他ならない。なんなら、裏切りと言い換えてもいい。それは俺たちの友達保険上、許されざる行いになる。
けれど孤山、それは完全に杞憂だよ。
「……影山とはただの幼馴染だよ。たしかに昔は仲が良かったけれど、時が経つにつれ、徐々に話さなくなったし。……ちょっとひどいかもしれないけれど、正直、今も友達と思っているかっていうと、……素直に頷けない」
つまり、別に孤山を騙したわけではない。それを訊いて孤山も納得してくれたようで、頷いてくれた。
「……そうですか。それなら、別にいいです」
「ごめんね。余計な心配させちゃって」
「いえ。私の方こそごめんなさい。余計なことを訊いてしまって……」
あぁ、にしても影山には悪いことをしてしまったな。急に逃げて彼女をびっくりさせてしまったかもしれない。謝らないとだけれど、やっぱりもう顔を見れる気がしない。見ると、また過去がフラッシュバックしそうだ。
とにもかくにも、今は昼飯時。影山には申し訳ないけれど、とりあえず今は教室に戻って昼食を食べよう。
マシにはなったけれど、まだ安定しない気持ちを昼休みの間に整えなければならない。そのせいで、午後の授業に支障をきたしてはいけないから。
*
【孤山凪視点】
影山日和さんと夢原君が再開した昼休みを終え、私は午後の授業を受けていた。今は六時限目。教室の黒板前で、白紙の紙を顔に貼り付けた英語教師が、つらつらと単語を書いている。相変わらず、白紙の大人は何を考えているのかがわからない。
夢原君と私はクラスが違うので、彼の今の様子がわからない。少し、心配。お昼は気分を悪くしていたから、倒れていなければいいのだけれど。
「えーっとですねぇ! この時の発音は舌をよく使ってー……!」
教卓でやたらと声の大きい教師が、どうちゃらこうちゃらと喋っている。
そういえば、私はまだ気に掛かっている。夢原君が、保険関係を裏切っていないということは確認できた。だからそれはもう大丈夫。
しかし、それとはまた別に、ずっと頭の中で引っ掛かっていることがある。まるで、脳みそにガムでもくっついていて、なかなか取れないみたいに。ずっと煩わしい思いをしている。
それは、影山さんはたぶん、夢原君のことが好きだということ。
夢原君と私は、ずっとひとりぼっちだった。言い換えれば、二人ぼっち。
だからこそ、私たちは友達保険を交わした。いつか本当に信じ合え、その友達がピンチの時には、我が身をも投げ捨てられるような、そんな最高の友達ができるまでの保険関係を。
けれどもしかしたら、その関係も終わりに近づいてきているのかもしれない。
影山さんが、夢原君のことが好きなのだと仮定すれば、それはもうすでに、夢原君には自分のことを愛してくれる人がいるも同然。
というのも、なにも私たちが欲しているのは、友達に限ったことではない。厳密にいうと、お互いのことを心底愛し合えて、心底信じ合える人を欲しているのだ。いってしまえば、別に恋人とかでもいい。
そして現に、夢原君は影山さんという他者に愛されている。そう考えると、彼女の夢原君に対する愛情が、本物かどうかはさておくも、多少なりとも愛されているというだけで、なんだか先を越された気分になる。なんというか、モヤモヤする。正直いうと、ちょっと嫌だ。
同士の夢が叶いそうならば、喜んであげるのが筋だということは、私だってわかっている。けれど、私はそれほどできた人間ではないし、まともな方でもない。というか、まともならこんな意味のわからない保険関係を結んだりしない。
そういえば、もしも仮に、今の夢原君と私の立場が逆だったら、夢原君は喜んでくれるのでしょうか。
……いや、たぶん彼のことだから、喜んでくれるのだろう。かれこれ夢原君とは、出会ってからそれほど短くはない。彼がこういう時には、ちゃんと喜んでくれるような優しい人なのだということを、私は知っている。
だからこそ、それとは対照的な自分を顧みて、嫌気がさすし、自己嫌悪に陥る。そりゃ、私だって、夢原君が目的を達成してくれたら嬉しいけれど、素直に喜べきれない自分がいる。
百も承知している。私は、他人の幸せを素直に喜べない、最低な人間なのだと。
あぁ、なんだか落ち着かない。影山さんに愛されている夢原君が羨ましくてならない。なんなら、だんだんとあの影山という女に対して、憎悪すら湧いてきた。ムカついてきた。
理不尽なのはわかっている。けれど、考えれば考えるほど、あの女への、上手く言い表せない黒い感情が溢れてくる。それはまるで、透明な水が入ったバケツの中に、ドス黒い墨汁が徐々に垂らされ、バケツの中が次第に黒く染まっていくかのような感覚だった。まあそもそも、私自身が元から透明な水であったかどうかすらも、私にはわからないけれど。
でも、少しずつ自分の心が歪んでくるのを感じる。まるで、自分が自分じゃなくなってしまうかのような、そんな錯覚を覚えた。
夢原君は私と同類なんだ。あんな女が愛していい人じゃない。
というか、あんな陽気な女は、夢原君とは釣り合わない。それならまだ、私の方が夢原君とお似合いだ。
誰にも愛されない私たちだからこそ、お似合いの私たちなのに。
……あぁ、なんならもういっそのこと、あの女を殺してしまおうか。
「はいっ! それじゃあ私の発音に続いて、皆さんも単語をリピートしましょう!」
「っ……!」
声の大きな教師の言葉に、私の渦巻いていた黒い思考は、ストップすることができた。
……あぁ、危なかった。もう少しで、私が私じゃなくなってしまいそうだった。
教師の言葉に従い、生徒たちも、教師が言った単語を繰り返すように、単語を発声する。単語は十個ほどあったので、それを順に繰り返す。
私はこういう時、いつも発声しない。周りの人達の声に紛れて、私は適当に口をパクパクしている。正直に言って、面倒臭いから。
私はその間、たいてい別のことを考えている。今読んでいる小説の結末を考察してみたり、私自身が書いている小説の内容を考えたり、あとは時々、周りを見て人間観察をしている。
周りを見渡すと、真面目に復唱している人や、私と同じく明らかに口パクしている人、中には開き直って口すら開かずに眠っている人ともいる。強い。
他にも適当に復唱しながらシャーペンで遊んでいる人や、絵を描いている人など、いろんな人の光景が窺えて、これが見ていて案外面白い。
でもやっぱり、皆、顔に薄葉紙を貼り付けていた。
そうやって一人ぼーっとしながら、時間も過ぎていく。そしてややあって、チャイムが鳴り、授業も終了した。
さっきは教師のデカい声に一旦思考は遮られたけれど、私はまた、夢原君と影山さんのことを思い返す。さっきは物騒なことを考えてしまっていたけれど、考えを改め直す。
そうだ。私も早く、夢原君に先起こされないように、友達を作らなければ。夢原君と影山さんのことで、私はより一層、心にそう決めた。




