22話
【夢原颯太視点】
月明かりが照らす夜の街。タクシーに揺られること、約二十分。車は、八神道高の裏山近くにある商店街前で停車した。裏山のあたりだと車を止められる場所がないため、ひとまずはここに止めてもらった次第だ。
俺は大急ぎでお金を支払い、車を出た。そして間をおくことなく、走って裏山へと向かった。
建物が立ち並んだ傍らにある歩道に沿って、とにかく走る。走る、走る、とにかく走る。途中転けそうになったけれど、実際に転倒することなく走り続ける。
走りながら今気づいたのだけれど、急いで家を飛び出したため、服は長袖長ズボンの青パジャマのままだった。冬の時期の夜な上、薄着だから寒いはずなのに、不思議と今は気にならなかった。というか、そんなこと考えている余裕はない。今脳内を占めるのは、孤山の安否のみ。
嫌な汗が額から頰へと流れた。俺だって、考えすぎだろうとは思っている。きっと俺の早とちりだ。孤山はきっと、一人で喫茶店かどこかでいつものように小説を読んでいるのだろう。親御さんと何があったのかは知らないけれど、自殺なんてそんな大層なこと、するわけない。
これは、小説や映画の世界とは違って、現実なのだ。いくらなんでも、知り合いが自殺しようだなんて、そんなドラマみたいなことあってたまるものか!
…………いや、そんなこと関係ないか。
フィクションだろうが、現実だろうが、人の心はいつだって、脆いものなのだ。
というか、現実なんてなおさらそうだろう。創作の世界じゃないからこそ、実際に人が生きている世界だからこそ、人の心は脆いのだ。
現実の世界だって、何が起きるかわからない。時には、小説や映画みたいな信じられないことが起きることだってあるだろう。
…………でも。でも、でも、でも、せめて今だけは、俺の勘違いであってくれ!
裏山へと入り、俺は一筋に伸びた人口道の階段を登っていく。いつだったか、相棒と二人で同じ道を登ったのを思い出した。
それと同時に、鮮明に蘇ってくる記憶。
『もし自分が死にたくなったら、私はここで死にます』
目の前で滝が流れる橋の上。上を見ながらそう呟いた相棒の横顔が、神様の嫌がらせのようによぎりだす。いや、神様なんているわけないけれど。
今は思い出したくないその記憶を追い払うために、頭を振った。すると、山を登り続ける中で、微かに滝の音が聞こえ始めてきた。
この山を登ったのは、孤山がここで死にます宣言をした日以来だから、あの橋の場所は忘れかけていたけれど、だんだんと思い出してきた。たしか、もっとし先を登ったところに。
俺は階段を二段飛ばしで駆け上がり、先を急いだ。夜の暗がりで周りが見ずらいけれど、今日は雲一つなくやけに綺麗な月明かりのおかげで、かろうじて足元はある程度視認できた。大変ありがたい。
途中、小さい蚊か何かが顔にまとわりついてきたけれど、それはもうしょうがない。虫だけに無視して突き進む。
すると徐々に、滝の音が強くなってきた。これは、近い。というか、音が聞こえる方を目を細めてよく見ると、滝が見えた。
それを確認したと同時に、俺はすぐに滝の方へと向かった。
やがて草木を抜け、視界が広くなる。そして目の前には、赤い橋があった。間違いない。ここだ。中学の頃、孤山とやってきたあの場所だ。
草木が開け、夜空に浮かんだ月の明かりがより一層輝いて見えて、目の前の橋と滝を合わせた一連の景色が、神秘的に映った。
そして、俺は急いで橋へと向かう。すると、鉄でできた橋の柵寄りに、小さな人影があった。長袖長ズボンの、桃色のパジャマを着用している。俺の今の服装の色違いみたいな感じ。
俺が近づいていくと、だんだんその人影の正体がわかってきた。小柄で、ポニーテールの髪型をした女の子。あぁ、間違いない。俺がずっと、探し求めていた人。
「孤山!」
孤山凪だ。俺は、思わず叫ぶように彼女の名前を呼んだ。森中に響いた。
その声をきっかけとして俺に気づいた孤山は、驚いた表情でこちらを見た。まさか俺がここにくるとは思っていなかったのだろう。
「孤山! 孤山!」
俺はさらに速度を上げ、橋を全速力で走って彼女の元へと向かった。
けれど―。
「っ……!」
孤山はまるで、悪魔にでも迫られたれたかのような怯えた表情を浮かべた。すると、慌てて柵の鉄骨に足を置き、身を外へと投げ出した。
「孤山っ!!!!」
その瞬間。俺はまるで、心臓を直接わし掴みにされたかのように、体全身が震え立った。そして、思考が働くよりも先に、気づけば足が前へと動いていた。
間に合え、間に合え! 俺は、無我夢中に足を動かした。気が動転しているようで、意識ははっきりしているような、不思議な感覚だった。
そして、世界が急にスローモーションになった。滝の音をはじめとして、音という音がなくなったような感覚を覚える。
そんな中、俺は心の底から、強く願った。
神様なんていない。神様なんて信じてない。でも、……お願いします、神様。
……どうか、どうか今だけ。ほんの少しでいいから、今だけ時間を止めてください。
大切な人なんです。そりゃあ、俺と同じでインキャだし、コミュ障だし、たまに怒りっぽいとこあるし、ダメなところもあるかもしれないけれど、悪いやつじゃないんです。
だから、助けてください。もうちょっとで手が届きそうなんです。
ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから。彼女を助けさせてください!
「ぐっ……!」
柵である鉄骨の隙間から咄嗟に伸ばした俺の右手に、何かを掴んだ手応えを感じた。その掴んだ手の先を見ると、そこには、孤山の右手があった。孤山を、掴んだ。
それと同時に、自身の額にじんわりと熱を帯びたような深い痛みを感じた。額からつたって視界へと僅かに入り込んだ赤い液体。血液だ。どうやら勢いよく走り込んだのと同時に、鉄柵に額を強くぶつけてしまったようだ。たぶん、額にはかなり大きな切れ傷がついている。
「ぐっ……ううっ……!」
「……夢原君、……血が」
踏ん張っているせいもあり、額から出た血が目元までつたって、目が自然と細める形になってしまう。それでも、橋の下から俺に掴まれてぶら下がった孤山の表情は、よく視認できた。
彼女は、涙を浮かべていた。まるで澄んだガラスのように透き通った綺麗な雫が、目元から小さく浮かんでおり、やがて頰をつたって、滝に混じるように雫が下へと落ちていった。
「……何っ、……やってんだよっ…………」
ただ、その一言しかなかった。なんで、なんで。何もお前が死ぬことないだろう。
「……離してください、夢原君」
孤山の掠れた声が、耳に届く。顔が、涙でくしゃくしゃに滲んでいた。
「……私、いらなかったみたいです。お母さんもお父さんも、私のこと、産みたくて産んだわけじゃなかったんです」
「ぐっ……うっ」
徐々に俺も含めて、身体が下へと下がってきた。腕が痛くて千切れそうだ。腕の血管が、破裂しそう。額の出血がひどくて、徐々に力が入らなくなってきた。
「今まで、自分がどうして生きているのかがわからなかったんです。……でもそれはきっと、お母さんやお父さんのために生きているんだって、心のどこかでそう思っていました。いつも仕事ばかりだけど、本当はわたしのことを愛してくれているんだって、そう思っていました。……でも、違ったみたいです。……私は、全然必要とされていなかった。むしろ、邪魔だったんです」
孤山の目から、さらに雫が溢れていった。
そして、俺の手もそろそろ限界に近い。もう片方の手も加えて、両手で掴んだ。
「ぐっ……うっ。……だからなんだよ。……小説家になるんじゃなかったのかよ」
「……もう、いいんです。……どうせ、……無理ですよ。誰にも愛されない私が、……なれるわけないです。……だからもう、手を離してください。このままじゃ、夢原君まで落ちてしまいます」
「……何、言ってんだよ。……俺は本当にすげぇと思ったよ!? 孤山言ってたじゃん! いつか自分の書いた物語で、誰かを救いたいんだって。あれは全部嘘だったのかよ!」
「……嘘じゃないです。……本当にそう思ってますよ! 私は本当に物語に救われたんです! だから私もいつか、誰かを助けたいって。嘘なわけないじゃないですか!」
「じゃあ生きろって! 生きてりゃいつか、いいこともあるから!」
「……なんですかそれ。……そんなの、完全に綺麗事じゃないですか。前に、どんな言葉も自分で良いふうに捉えられれば、きっとその言葉はプラスになるとは言いましたが、生きてればいつか良いこともあるだなんて、そんな誰でも思いつくような無責任で単純な言葉なんか、そんな都合よく捉えられませんよ!」
「……ぐっ、……うっ」
腕が、千切れるっ……! 腕がもう、限界だっ……!
……その通りだ。なんで俺は、こんな目の前の人が生きるか死ぬかの時に、そんな簡単で薄っぺらいことしか言えないんだろう。
何が、生きてればいつか良いこともある、だ。そんなこと、みんな知ってる。みんなわかってる。きっと俺や孤山が抱えている苦しみなんて、他の誰かから見たら、小さいことなのかもしれない。世の中には、もっとどす黒くて、辛いものを抱えている人もいるんだ。
……でも、結局それも綺麗事。他の人のことなんて知らない。他の誰かが辛かろうがなかろうが、自分だって辛いんだよ。
やっぱり俺は、綺麗事が嫌いだ。結局そんなものは、自分を慰めるための緩和剤に過ぎないんだから。
「……昔から、ずっと考えていました。私って、ほんとに一人だなぁって。親からも、誰からも必要とされてないのに。誰にも望まれてないのに、死にたくないからという理由で生きることが、とてつもなく自分勝手な気がして……。だからもう、いいんですよ、……私は」
……俺も思うよ。自分の生きる意味ってなんなのかを。自分が誰からも必要とされてないんじゃないかと感じると、まるで人類全員から囲まれたて銃口を向けられているかのように、いつも体全身が震えた。
俺には居場所がある。学校にも、家にも。ただそこは、どこも居心地が悪かった。
今でも時々思い出す、父親に殴られた時の頬の痛み、両親の離婚や上原たちとのこと。いい加減もう立ち直らなきゃいけないのはわかってる。でも、俺はそんなに強い人間じゃない。もう過去のことだけれど、それらは俺にとって、人への信頼を失うには十分すぎる出来事だったんだよ。
孤山の気持ちがわかるだなんて、そんな偉そうなことは言えないけれど、それでもわかる。俺も、死にたいって今までに何度も思ってた。今は辛くても、死んだらきっと、辛くも悲しくもなくるから、って。
だから、いざとなったら死ねばいいんだって、心のどこかでそう思ってたから、気持ちはわかる。
……わかるからこそ、孤山に生きろだなんて言えない。……それでも―
「……望むよ、……俺は」
俺が孤山に言いたいことは、綺麗事なんかじゃない。伝えたい。伝えなきゃならない。ただの、純粋な俺の本心を。
「……俺は、孤山に死んでほしくない」
「…………」
今まで、孤山とは友達保険として、ただの利用し合う関係としか思っていなかった。でも、ごめん。やっぱり本当は、それでも―
「……やっぱり、孤山がいないと寂しいよ。孤山がいないと、俺が寂しい。孤山がいなくなったら、きっと毎日、本当に一人になって死にそうになる。だから、俺のために生きてくれ! 俺が、孤山のそばにずっといる! 孤山が、自分で自分を生きててよかったって思えるように、これからも俺が一緒にいる! だから!」
だから神様。どうか、俺に力をください。
これからはもっと、自分のことを大切にします。母さんとも、もっとちゃんと話します。もっと周りの人たちとも、ちゃんと話します。だから―
「だから、俺のために生きてくれ! 孤山! 俺にはお前が必要なんだ!!!!」
「…………」
もう、手に力が入らなくなり、孤山の腕がとうとう俺の手からすり抜けるかと思ったその時。孤山が橋の鉄骨を、ぶら下げていた片方の手を伸ばして、しっかりと掴んだ。
それを見た俺は、今まで生きてきた中で一番の力を振り絞り、無我夢中で孤山を引き上げようとした。そしてその瞬間―
「ぐっ!」
俺の顔の横からイカつい手がぱっと伸びてきて、孤山の手を掴んだ。
「っ、田崎!?」
田崎だった。田崎は何も言わずに、俺と一緒に必死に腕を引っ張り、孤山を引き上げた。
「ぐはぁっ! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
無事に、なんとか孤山を橋の上へと引き上げることができた。俺は息切れが絶えなかったけれど、今はそれどころじゃない。孤山だ。
「はぁっ、っ孤山、孤山! はぁっ、大丈夫? どこも痛いとこない?」
俺は必死に孤山に様子を確認した。見たところ、着用していた桃色のパジャマにはところどころ土埃が付いていて、彼女自身も息切れをしていたが、特に目立った怪我はなさそうだった。
引き上げた時に髪を結んでいたゴムが切れたのか、いつのまにかポニーテールからストレートヘアに変わっていた。
「はぁ、はぁ、……だ、大丈夫です」
「……よ、良かったぁ」
孤山本人から大丈夫だという言葉を聞けて、俺は心底安堵した。そして、体全体の力が抜け落ち、橋の上でぐったりと横になった。
全身から出てきた汗が服に染み込む。パジャマで薄着ということもあり、なおのことベタベタする。
冬の夜のため、風が吹いてとても寒いけれど、今はそれが不思議と気持ちよく感じた。
「あっ! っていうか田崎、なんでここに?」
安心して忘れかけたが、俺はすぐに思い出して飛び起き、膝をついた状態で田崎を見つめた。すると、孤山を引き上げる際に力を踏ん張ってくれたのもあり、田崎も疲れ果てた様子だったが、淡々と答えてくれた。
「桜田たちに呼ばれて急いで来たんだよ。夢原と孤山が大変だっつって」
「……ちーちゃんが?」
孤山が驚いたように田崎を見つめた。すると、俺がやってきた方向から、「なぎりん!」と叫ぶように呼ぶ、二名くらいの高い声が聞こえてきた。
「おっ、噂をすれば」
田崎がその方向に尻をついたまま目をやると、俺と孤山もその方向へと顔を向けた。するとそこには、ちーちゃんさんとカナっちさんが猛ダッシュで、こちらへと向かってくる様子があった。そして―
「なぎりんぁぁぁぁっ!!!!」
こちらへ来るやいなや、二人して真っ先に、座り込んだままの孤山に抱きつくように飛びかかった。「うわっ! ちょっちょっ!」と、二人の勢いが凄過ぎて、孤山も慌てていた。
「ああああぁぁぁぁっ!!!! ごめんなぎりん! ごめん! うちが悪かったよおぉ!」
ちーちゃんさんが孤山に抱きつきながら、泣き叫ぶように謝り続けた。
「うわぁぁぁぁん!!!! 私も、私もごめんなさい!」
カナっちさんも、ちーちゃんさんの上から孤山を抱く形で、同じように謝り続ける。
二人とも、学校の制服を着用していた。おそらく学校帰りに孤山の家へと向かってから今まで、一度も自宅には帰らず孤山を探してくれていたのだろう。
孤山もそれに気づいたのか、動揺しながら二人に問うた。
「……なんで、……なんで。……私のこと、探してくれてたんですか?」
「っ……!」
それを聞いたちーちゃんさんは顔を顰め、泣きながら、まるで鬼のように孤山を睨む。そして、耳の鼓膜が破れそうになるくらいに叫んだ。
「当たり前でしょっ! 友達なんだから! もうっ、本当に怖かったんだからっ!」
そう言って、ちーちゃんさんはさらに強く、それでいて、優しく包むように孤山を抱きしめた。もう、二度と離さないというように。
カナっちさんも、同様に孤山を抱きしめた。
今思えば、二人が連絡をくれたおかげで、こうして孤山の一命を取り留めることができたんだ。二人には感謝しかない。
すると、二人に抱きつかれた孤山の目にも、だんだん涙が溢れていくのがわかった。
「……ぐすっ、……私、私。……二人にあんな酷いこと言ったのに、……それなのにまだ、……友達でいてくれるんですか…………?」
「……当然だよ! ……だって、うちが悪かったんじゃん…………。なぎりんのことなんも考えないで、うちがお母さんの話しちゃったから怒っちゃったんでしょ……? ……マジ、ごめんなさいっ。……ごめんなさいっ! だから、お願いだからもうどこにも行かないで! 何があっても、なぎりんには生きててほしいの!」
「なぎりんっ! 私もごめんなさい! なぎりんの家のこと、もっとちゃんと知ってれば良かったのに!」
孤山の顔が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに歪んでいく。
「……違うっ、違うんです。……私が、全部私が悪いんです。……せっかく、せっかく心配して家に来てくれたのに。……私っ、私! ……ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
孤山も、二人を抱きしめた。その傍らで、そんな三人を見ていた俺は、真底安心した。
孤山はもう、一人じゃない―
「……おいっ、夢原!」
……田崎の声が聞こえる。気づけば、俺は横に倒れていた。……なんだろう、頭がぼーっとして、視界もぼやけてきた。額にできた傷のあたりが、じんわりと熱い。
「夢原君!」
「夢原!」
「夢原さん!」
孤山や、ちーちゃんさん、カナっちさんの声も聞こえる。けれど、その声がだんだん遠のいてきた。まるで、ぶ厚いガラス瓶の外から、必死に声をかけられているかのように。みんなの声が、だんだん薄れていく。
そして、俺の記憶はここで途絶えた―。




