第七話 旅立ちの草履
朝の光が障子を透かして、部屋を白く染めていた。
膳に並んだ味噌汁と焼き魚の匂いに、胃袋が勝手に反応する。昨夜あれほど泣いたのに、食欲はちゃんと戻っている自分が少し情けない。
六は黙って箸を進め、説子は忙しそうに客室を見回していた。旅籠は相変わらずの賑わいだ。
朝食を終えると、六に促されて表口へ向かう。外はすでに通りの人波でいっぱいだった。
玄関先に来た時、説子が現れ、布巾で手を拭きながらこちらを見やる。
「あら、お出かけかい? いつ頃戻るの?」
「二、三日で戻ります」
六が迷いなく答える。そのあまりに簡潔な返事に、私は思わず目を剥いた。
「に、二、三日!?」
思わず声が上ずったが、説子は特に追及せずに微笑み、帳場へ戻ろうとした。
――が、すぐに思い出したように足を止め、小さな包みを取り出して私に差し出す。
「そうだ、これを持って行きなさい」
手渡されたのは、細長い紙を丁寧に折り畳んだ札。掌にすっぽり収まる大きさで、不思議と手にするとひんやりと落ち着く感触があった。
「道中は何があるかわからないからね。これはお守り代わりだよ」
「……お守り?」
私はきょとんと首を傾げる。六は札を受け取り、深々と頭を下げた。
「ありがたくお預かりいたします」
説子は微笑んで帳場へと戻っていった。
足元を見れば、私はまだローファーのまま。どう考えても長旅には不向きだ。
慌てて六に訴えると、彼女は背負い袋から布で包んだ何かを取り出した。
「ご安心を。伽耶さんのために、これを用意しました」
布を解くと、中には藁で編まれた履き物が収まっていた。
「……なにこれ?」
「草鞋と申します。旅をする者の足を守る履物です」
初めて見る形に戸惑いながらも、ローファーを脱ぎ、恐る恐る足を差し込んでみる。
六が履き方を丁寧に教えてくれた。
思ったより柔らかく、藁の感触が足裏に馴染んでいく。
「……意外と悪くないかも」
「歩き慣れれば、頼もしい相棒となりますよ」
六がわずかに微笑んだ。
そのまま二人で旅籠を後にし、通りを抜ける。人波が遠ざかり、やがて土の道が山の方へと続いていく。
私はようやく胸の奥の疑問を口にした。
「で、今日はどこに行くんですか?」
六は道の先に視線を向けた。
「猫又山へ参ります」
「……ね、猫又山? なにそれ」
頭の中に「???」が並ぶ。六は静かに続けた。
「昨夜、説子さんのお話に“おもと”という名が出たのを覚えていますか」
「あー……なんか言ってた気がします」
適当に答える私に、六は淡々とした口調で告げた。
「その“おもと”という方は、この辺りの妖の中では名の知れた存在です。かつて酒呑童子と共に旅をしていた時にも、その名を何度か耳にしました。非常に強い猫又だと」
「……猫又? って、化け猫ってこと!?」
「そういうことです」
「えぇぇ!? 無理無理無理! 絶対怖いやつじゃん!」
腰が抜けそうになった私をよそに、六は歩みを止めない。
「伽耶さん、これから私たちは、あなたが現世へ帰るための旅に出ます。その道のりは決して平坦ではありません。妖や賊に襲われることもあるでしょう。その時必要なのは“力”のみです」
私は情けない声で問い返した。
「だからって、よりによって化け猫を仲間にしようなんて……!」
「説子さんが告げた通り、“おもとさん”は猫又山に住まうはず。行って話をする価値は十分にあります」
六の横顔は揺るぎなく、まるで未来を見据えているようだった。
私は草鞋の紐と、懐に忍ばせた札をぎゅっと握りしめ、心の中で小さく叫ぶ。
――化け猫とか、お守りで足りるわけないってば!




