第六話 常世の理
朝餉を終えると、説子は台所に下がり、忙しげに立ち働いていた。
ここは伽耶の目から見ても一目でわかるくらい繁盛している旅籠。お客がいっぱいだ。
二階の部屋に戻った私は、畳に腰を下ろすなり六に問いかけた。
「ねぇ、六さん。さっき説子さんが言ってた“現世”って、なんなんですか」
六は少し間を置き、障子越しの光を眺めながら答えた。
「伽耶さん。あなたが昨日まで暮らしていた世界、それを現世と呼びます。そして、ここは《《常世》》(とこよ)と申します」
「……常世」
声に出すと、口の中で転がるその響きは、不思議と重みを持っていた。
六は静かに続けた。
「現世と常世は、ひとつの世界の表と裏のようなもの。人が“昔話”や“妖怪譚”として語り継いできた存在――鬼や妖などが実際に暮らしているのが、この常世です」
私は思わず苦笑した。
「ちょっと待って……妖怪が“実際に”いる世界? それって、ゲームとかアニメとかの話じゃなくて?」
「現世では、誰も妖を“現実”として認めていませんよね。だからこそ、人々はそれらを伝説や迷信として残してきた。常世は、あなた方の世界の影に潜むもう一つの現実なのです」
頭がぐらぐらした。理解したくても、拒否したい気持ちが勝つ。
「じゃあ……私、もう戻れないんですか? ずっとここで……」
自分でも気づかぬうちに、声が震えていた。胸が締めつけられる。家族の顔が浮かび、突然涙がにじむ。
六はそっと私の前に膝をつき、落ち着いた声で告げた。
「大丈夫です。帰る道はあります」
「……えっ?」
涙が一瞬で止まる。六は淡々とした調子を崩さずに言葉を重ねた。
「かつて、酒呑童子という鬼がいました。彼は常世と現世を繋ぐ“渡し”の力を持ち、現世から迷い込んだ者を帰していたのです。私も長く彼と共に旅をし、その手伝いをしていました」
「酒呑童子……」
歴史の授業か何かで聞いたことのある名。でも目の前の六の口から出ると、まるで史実じゃなく目の前に“いる”ように響いてきた。
「ただし――酒呑童子の居場所は今はわかりません。探し出さなければなりませんが、その旅がすぐに終わるのか、長い時間がかかるのか、私にも読めないのです」
六の声が静かに響く。私は黙って唇を噛んだ。
本当に、家族に会える……? その希望と同時に、底知れない不安が胸に押し寄せてきた。
「六さん、あなたは……一体何者なんですか……?」
私は一番気になっていたことを聞いた。目が覚めた時からずっと傍にいてくれる。でも、酒呑童子なんて名前の鬼と一緒にいたとか……彼女の存在自体が私にとって不思議でたまらなかった。
「私は……妖です」
「えぇ?!」
六は、これまでの自分のこと、この常世では人間と動物だけでなく、妖やもののけなどが存在していること、伽耶のようにふらりと常世へ迷い込んでくる人がいることなど、たくさんの話をしてくれた。
そして、ふいに口調を改める。
「今は、天保の世です」
「……てんぽう?」
聞き慣れない響きに、私は首をかしげる。
「天保ってたしか元号のことだったような……」
胸の奥が冷たくなる。六の言葉と、昨日から見てきた銭や着物、荷車の光景が頭の中でつながっていく。
「まさか……私、過去にいるの……?」
声はかすれ、手は震えていた。
六はふっと柔らかく笑った。
「伽耶さん、怖がるのは当然です。でも大丈夫。私が共にいます」
その言葉に、張りつめていたものが緩んだ。涙がぽろぽろとこぼれ、私は子どものように顔を覆った。
「……家族に、会いたい」
「必ず、道を見つけましょう」
六の声は淡々としていたが、不思議なほど心に沁みた。
涙が落ち着くと、六は火鉢に薪をくべて静かに言った。
「今は考え込むより、体を休めることです。答えを急くと、心が壊れてしまいます」
私はこくりとうなずき、鼻をすすった。
六と話しているうちに、窓の外では、夕暮れが町を朱に染めていた。
その夜、夕食を終えて部屋に戻ったところで、障子が軽く叩かれる音がした。
「失礼するよ」
入ってきたのは説子だった。昼間とは違い、彼女の顔には少し影が差している。
六が座を正し、静かに頭を下げた。
「伽耶ちゃん、少し話があるんだ」
説子の声音には、どこか迷いがあった。
私は思わず背筋を伸ばした。
説子の瞳が、遠い昔を懐かしむように細められる。
「二十年前、私がこの世界に来たとき……“ある子”に助けられたの」
六が小さく眉を上げる。
説子は続けようとしたが、一度言葉を飲み込み、やがて決意したように口を開いた。
「その子はね――“おもと”っていう妖だったの」
私の胸がどくんと鳴る。
昼間から何度も耳にしてきた“妖”という言葉。
説子はそんな私を見て、少し寂しげに笑った。
「今でも、会いたいと思っているの。あの子がいなければ、私はここで生きてこれなかったから」
障子越しに風が吹き、部屋の灯が小さく揺れた。
六の瞳が、深い闇の奥で微かに光る。
――この夜の会話が、私たちをある山へ導く最初の一歩になることを、この時の私はまだ知らなかった。




