第五十七話 静かな覚悟 後編
お松さんの社の前で一人立つコマ。
朝の気配はもう薄くなり、太陽が真上に近づきつつある。
社の前には、先ほど老人が供えたばかりの花があった。
瑞々しい色を残す花。そのすぐ隣には、少しだけ色を失い始めた花。さらにその横には、すっかり枯れてしまった花が並んでいる。
誰かが、何度も、何度も、この社に詣でていた痕だった。
コマはその花々を見つめ、静かに息を吐いた。
「ミケ……」
名を呼ぶ声は、風に溶けるほど小さい。
「私はどうしても……百年以上、考えあぐねてきたこの思いを、たった一日で変えることは……できない」
コマは社の前にしゃがみ込み、花の列を目の高さで見つめた。
「しかし、私の考えに抗ってくる者がいる。私の考えは間違っていると、そう言う者がいる」
供えられた花に、そっと指先が触れる。
「必要のなくなった者は消える。それが定め。だからこそ新たな者が生まれ、新たな時代が拓かれる……私は、そう思っていた」
少し枯れ始めた花を、そっと手に取る。
「その流れの中で、あなたも、私も……もう必要ではない。そう思っていたのに」
「けれど……私たちに飯を与えてくれた老夫婦は、あなたやお松さんのことを“見守る神”として崇めていた……」
花を見つめたまま、コマは言葉を続ける。
「少なくとも、あの老夫婦にとって、あなたは必要とされている存在なのだね。話しぶりから察するに……そう思っているのは、あの老夫婦だけではない。この村の人々は皆、同じ思いを抱いているみたい」
枯れてしまった花を、そっと手に取る。
「私の最期の義として考えた策だったけれど……この地に暮らす人々は、どうやら私とは反対の思いを胸に、慎ましく生きているみたいね」
花に顔を近づけ、かすかな匂いを確かめる。
「つまり……不必要なのは、あなたと私ではなく……私だけだった、ということなのかな」
小さく、息を吐いた。
「あなたに抗い、一太刀でも浴びせ、心揺れぬまま、あなたに斬り殺される……それこそが本懐だったのだけれど……今となってはその心さえ、揺れ始めている」
枯れた花を、元の場所へと戻す。
「私は彼女らを利用し、ここまで連れてきた。それなのに……彼女は、私を受け入れると言う」
決めていたはずの心が、静かに軋む。
そのときだった。
「だからあの女子の願いも、叶えてやりたいのであろう?」
背後から声が落ちる。
「——っ」
コマは思わず顔を上げた。
社の物陰に、胸を押さえた女が立っていた。
肩の上ほどまでの髪、着崩した着物。冷たさと温度を同時に宿す瞳。
「ミケ……」
「あの娘の矢傷がな。思うたより深くての」
ミケは、どこか愉しげに口元を緩める。
「一騎討ちであったはずなのに……ごめんなさいね」
「元より、一騎討ちなどなかったがのう」
コマは苦笑し、キセルを咥えた。
「まずは、あの赤毛じゃ。妾を止めるのに、難儀しておったわ」
「ロッテの事は……色々と、事情があって」
「それに、隠れて見ていた者らよ。あやつらも、なかなかに勇ましい殺気であったぞ?」
「……隠れて見ていた者……六さんたちか」
コマの声が、わずかに揺れる。
「どうやら今日は、片をつけるために参じた、というわけではなさそうじゃのう」
ミケは社の裏手、木々の方へ視線を向けた。
「ええ。今は……心が、揺れているから」
コマが答えると、ミケは怪しげな笑みを浮かべる。
「その割には、随分と嬉しそうな顔をしておる」
「……嬉しそう? まさか」
コマは俯いた。
「過去に囚われ、身辺を失ったお前にさえ、手を伸ばしてくれる者がいるのであろう?」
ミケの言葉に、コマは何も言えない。
「その手は、神の手でも、亡き主の手でもない。……それは、良い事よ」
コマは沈黙のまま。
「コマさーん!」
背後から、伽耶の明るい声が飛ぶ。
振り向くと、伽耶、六、おもと、ハク、ロッテが並んで立っていた。
「やはり、こちらでしたね」
六が、柔らかく笑う。
「ふふ、身辺を無くした者よ。次は、何処へ行く?」
ミケが、かすかに口元を上げる。
伽耶「コマさーん! 誰かと話してるのー?」
おもと「何も見えんが……猫神じゃないか?」
ハク「また、戦うつもりかな」
ロッテ「そんなの、許さない!」
ロッテが前へ出ようとした瞬間、六が静かに手を伸ばした。
「コマさんの目を見てください。……もう、争いは起きませんよ」
その声に、ロッテは足を止めた。
「コマさん! 聞いて! すごいお知らせがあるから!」
「……お知らせ?」
「ほら、六さん! 言ったげて!」
伽耶に急かされた六は、懐から一枚の紙を取り出す。
「赤松から頂いた覚書です。ここには、女子一人、従者五人と記されています」
六は赤松の番所で役人から渡された覚書を見せた。
「今後の番所でも、これを用います」
コマは、黙って紙を見たまま動かない。
「……いや! わかんないかな! 人数合わなかったら面倒って事!」
伽耶がそう言うと、六が覚書を懐に入れ、恥ずかしそうに笑いながら話し始める。
「ここへ来る道すがら、この覚書を思い出しまして。そこまで大変という話ではないのですが……」
「コマ……大変だぞ。私たち、逃げれん」
ロッテは大変な事と受け止めている。
「逃げれんとか言わないでよ! 一人でも欠けたら進めなくなるって事!」
伽耶がロッテを止めていると、ハクが呟く。
「要は、この紙がある限り、抜けられない」
「……言い方!」
伽耶が声を張る。
「抜けられない……という大袈裟な事ではありませんが……ただ、多少の面倒がある。ということで……」
六の小さな声は、他の大声にかき消される。
「そんな事よりこのちんちくりんを残されても困る」
おもとがロッテを指差す。
「ちんちくりんってなんだ?」
ロッテがおもとに尋ねると、ハクが呟く。
「嘲ってるんだと思う」
「何!?」
ロッテがおもとに近づいて行くのを、ハクが抑えながらなだめる。
「落ち着いて。気にする事ない」
「おぉ、はっちゃん!」
いつも傍観しているハクが珍しく、諍いを止めているのを見て、伽耶が感動した表情をする中、ハクが更に続ける。
「たぶん、お前を仲間にするのに何日もかかったわりには、大して役にも立たないし、泣いたり怒ったり忙しないから罵られたんだと思う。だから落ち着いて」
「いや……そこまで明確に言われて落ち着けるわけなくね」
賑やかな声が、境内に満ちる。
「……伽耶さん、そろそろ、収めましょうか」
六が苦笑した。
「えーっと……要するに……」
伽耶が下を向いた。
(どうしよう。また「一緒に行こう!」みたいな少年マンガっぽい事言って恥かきたくないんだけど……。 あー仕方ない!)
伽耶が顔を上げて息を吸った瞬間、コマが社に顔を向け直す。
「……あれ?」
伽耶がきょとんとしている。
社を目に焼き付けるように眺め、言葉を探すコマ。
「心はすぐに変わらずとも、どうやら成すべき事はあるようじゃな」
ミケは、ふっと笑った。
「……成すべき事……」
コマの呟きを聞くと、ミケは笑みを浮かべたまま、風の中へと溶けるように姿を消す。
少しの間、目を瞑り、大きく深呼吸をしたコマは、ゆっくりと懐から小石を出す。
百余年前、この村で死んでいた童が握っていたものだ。コマはその小石を、供えられた花の隣りにそっと置き、小さく微笑むと、仲間の元へ戻り、静かに言った。
「では、参りましょうか」
コマがもう一度、社へ体を向け一礼する。
それに続き、六が一礼。
つられるように、伽耶、おもと、ハク、ロッテも頭を下げる。
すると、それに応えるように、優しい風が吹いた。
「ではこれより、魚津へ向かいます」
六のその一言で、張りつめていた空気が、ゆっくりとほどけていった。
誰かが何かを決断した、というよりも――
皆が、同じ方向を向いた。
ただそれだけのことだった。
六は歩き出しながら、ふと胸の奥で思う。
人は、何かを「終わらせる」ために旅をするのではない。
多くの場合、終わらせられなかったものを抱えたまま、それでも歩き続けるために、次の道を選ぶのだ。
下関を越え、佐賀へ。
そこで出会ったのは、化猫と呼ばれた武家の愛猫――コマ。
己の役目と、死に場所を探し続けていた存在だった。
さらには、異国から来た化猫ロッテと巡り会い、
阿波国では、猫神と呼ばれたミケと対峙することになる。
それは戦いであり、問いであり、
そして、答えを出さぬまま持ち帰る選択でもあった。
すべてを解決したわけではない。
何一つ、片がついたわけでもない。
それでも――
彼女たちは、ここに立ち止まらなかった。
天音の待つ魚津へ。
まだ何も終わっていない場所へ。
一行は、再び歩き出す。
先頭を歩く六は、仲間たちの存在を背で感じながら、静かに息を整えた。
(良かった……少年マンガっぽいこと言わなくても、ついてきてくれた)
伽耶は、胸の奥でそっと息を吐く。
「時に、伽耶さん」
歩き出した六が、ふと振り返った。
「先程は、何を言おうとしていたのですか?」
背後で、社の屋根に陽の光が当たり、桜の花びらが一枚、風に舞った。
——それは、まるで、お松さんの微笑のようだった。




