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第五十五話 小川


 百年ほど前、コマが立ち寄った小川は、今も変わらぬ静けさで流れていた。

 違うのは、景色の端に伸びた若い木々と、あの時そこにいた父子の姿がないことだけだった。


 コマは先頭を歩き、川縁へ向かう細道を黙って進んでいく。

 その背中は、何も語らないが、何かを待っているようにも見えた。


 まだ回復し切っていないコマの足元がおぼつかない。ロッテは肩を貸そうと隣に近づく。

「大丈夫」

 コマは微笑み、首を振った。


 その後ろで、おもととハクが小声で言葉を交わす。

「魚はおるかの」

「まだ食う気か」

「腹は正直じゃからな」

「さっき食ったばっかだろ」


 川に出ると、水は澄み切り、桜の花びらがいくつも流れに乗っていた。

 コマはその流れを見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「……この辺りです」

「綺麗な場所ですね」

 六が小川を眺めながら微笑む。


 風に揺れる水面を見つめながら、コマの視線は百年前へと遡る。


——お松さんか、猫神さんが助けてくれたら。

——そうしたら、母ちゃんは死ななかったのに。


 童の掠れた声。


 コマは拳を握りしめた。

「……あの時の私は、何もせぬ神を“偽り”だと思ったのです」


「それが、コマさんの本心ですか?」

 川辺でしゃがみ込んだ六が、水面を見つめたまま言った。

「ええ」

 コマは即座に答えた。

「苦しむ民を救わぬ神など、神ではない。そう思っていました」


 六はしばらく黙り、足元の石を一つ拾い上げる。

 それを、ぽつりと水へ投げ入れた。


「神が人を助けぬのではなく、人が神の声を、聞かなくなったのかもしれない。そう思ったことはありませんか」

 六は水紋を見つめながら続けた。


「そうなったのは神が人の苦しみを見ても黙しているからではないでしょうか」

 コマが川を見ながら答える。


「老夫婦は言っていましたね。黙しているのではなく、“見守っている”のだと」

 六は立ち上がり、川を見渡す。

「流れは濁り、澄み、また濁ります。しかし川そのものは止まらない。神とは、その流れを止めぬ“意思”のようなものかもしれません」


「……」

 コマは答えない。


 伽耶がそっと口を開いた。

「……お松さんも、猫神さんも、ずっと見守っていたのかもしれない……よね」


 コマはゆっくりと膝を折った。

「八百万の神が、すべて黙しているとは思っていません。ただ……苦しむ民を救うのが、神の役目ではないのですか」


「誰を助け、誰を助けないのか。それは神ではなく、人が決めた“始末”ではないでしょうか」

 六が静かに返す。


 ロッテが後ろで小さく息を呑んだ。


「……なぜ、そこまで私の考えを否定するのです」

 コマが不満げに話す。

「否定などしていません。ただ、あなたの心根を知りたいだけです」

 六が穏やかな顔つきで返す。


「心根、ですか」

 コマは自嘲気味に笑った。

「それは私ではなく、ミケ——神に聞くべきでしょう」


「少なくとも猫神様は、あなたの命に対して黙してはいませんでした。私に力を貸してくれましたよ」


「それは……私に、生き恥を与えるためです」


「皆さんの目を見てください」

 六は川から視線を離し、コマを見据えた。

「ここに、あなたを蔑む者が一人でもいますか」

 六の声からいつもの柔らかさが消える。


 皆、コマを見つめた。


「あなたは、赤松で仇討ち騒動を起こし、この地へ逃れるように辿り着き、不作と疫病に苦しむ村で、父子と出会い、神に直談判した。そして門前払いを受け、神に疑念を抱いたのですよね」

 六がコマの元へ近づいて行く。


「神に疑念を持った妖が、苦しむ民のために神に挑む。その覚悟を、誰が嘲れますか。あなたは並の武士よりずっと勇ましい」

 六はコマの前にしゃがみ込んだ。


「何言ってるかわかるか?」

「ん、よくわからない」

 おもととハクが小声で話す。


「……助けてもらった皆さんには、感謝しています」

 コマは小さく呟いた。

「それでも……私は、あの場で果てたかった」


「助けてもらったのに、そんなこと……!」

 伽耶が言いかけた瞬間、乾いた音が川辺に響いた。


 ロッテの手が、コマの頬を打っていた。

「そんなこと言うな!!」

 ロッテは涙を浮かべて叫ぶ。

 伽耶たちは驚いて目を見開いた。


「私だけ残して、勝手にいなくなろうとして!」


「ごめんなさいね……でも、こうするしかなかったんだよ……」

 コマが力無い言葉をロッテに返す。

「それは私をひとりぼっちにすることか!?」

「違う……」

「違うもんか!コマが死んだら私はひとりぼっちじゃないか!こんなとこまで連れてきて、私を置いていく算段じゃないか!」

「違うの……ロッテ……」

 コマはどんどん俯いていく。

「違うことなんて何もないぞ!コマは、ついこの前会ったばかりの連中に私を預けて一人でいなくなろうとしたんだ!人と妖が共に生きる世なんて……ただの詭弁だ!!」


(あるじ)の元へ行きたいんだよ!!!」

 コマが叫んだ。



「……あ、あるじ?」

 伽耶が呟く。


「もう……主の元へ、行きたい」

 コマの声は震えていた。

「愛してくれた主のもとへ……」


「主とは……鍋島に斬られたと言われる龍造寺の……?」

 六が静かに問う。

「前に六さんが鍋島の騒動とか言ってたやつ?」

 伽耶が六を見る。



「主だけじゃない」

 コマは涙を流しながら続ける。

「主の死を苦に自害した母様……皆、もういない。仇を祟る役目は終わったのに、私だけ死ねない……」


「なるほど」

 六は小さく息を吐いた。

「それが、あなたの心根なのですね」


「その大層な太刀で、胸でも突けばよいではないか」

 おもとが軽口を言う。

「おもとちゃん!」

 伽耶が咄嗟に声を荒げる。


「武家であった以上、勝手な自刃は許されません」

 六は冷静に続けた。

「コマさんは、ただ死にたかったのではなく、武士として“何かのために死にたかった”のですね」


「己の命を、人のため最大限に活かし尽くす。並大抵の覚悟ではできぬこと。やはりコマさんは聡明な方です」

 六は静かに言った。


「聡明などと言わないでください。私は……ロッテの言う通り、愚かな生き物です。主の元へ行けたとしても……妖になってしまった私なんてきっと受け入れてもらえさえしないのに……」

 コマは俯く。



 少しの沈黙の後。伽耶がそっと手を上げた。

「あの、私は……受け入れるよ」


 皆が振り向く。


「だってコマさん、優しいじゃん」

 伽耶はまっすぐ言った。

「優しくて、強くて……そんな人、受け入れないわけないよ」


 コマは、ゆっくりと顔を上げた。

 川の流れが、静かにその背後を通り過ぎていった。







「ワシ、なんで怒鳴られた?」

「ん、よくわからない」

 おもととハクが小声で話す。





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