第五十三話 老夫婦の家
「おめらぁ、ここで何しょんな?」
六がすぐに立ち上がり、穏やかな声で答える。
「私たちは……旅をしている者なのですが……宿を探す前に日が暮れてしまいまして。無礼ながら、こちらのお社で休ませていただきました」
老人は「ふむ」と顎をさすりながら一歩前に出た。
「こんな村まで来たっちゅうことは……お松さんに会いに来たんかの?」
「あ、はい。手を合わせに……」
六が少し緊張した面持ちで返す。
「そうかいそうかい。ワシも今、手ぇ合わせに来たとこじゃ」
老人は目尻に皺を寄せ、素朴な笑みを見せた。
「申し訳ございません。私たちはすぐに発ちますので……」
六が軽く頭を下げながら、伽耶たちに目で合図を送る。
全員が立ち上がろうとした、その瞬間——。
ぐうぅぅぅ……。
社の中に、腹の鳴る音が重なって響いた。
伽耶は顔を赤らめ、ロッテは小さく俯き、六は気まずそうに視線を逸らす。
「ははぁ……おめらぁ、飯食っとらんのか」
老人が笑う。
「お恥ずかしながら、寝床を見つけるのに精一杯で……」
六が苦笑しながら答えた。
「ほんなら、ワシについてきんさい。なんぞ食わしたるけん」
老人は軽く手を振り、ゆっくりと歩き出した。
六たちは深々と頭を下げ、その背を追った。
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朝靄が村を包み、田の端には霜が残っていた。
老人の背を追いながら、六人はゆるやかな坂を下る。
伽耶とロッテがコマに肩を貸して歩いていた。
袈裟懸けに斬られた道着は破れ、六が応急で巻いた麻布が白く揺れる。
「おめらぁ、ずいぶん苦しそうじゃが」
老人が振り向きざまに言う。
「ええ……少し、長い道のりでして」
六がやんわりと誤魔化した。
「そりゃあ難儀したなぁ。うちはすぐそこじゃ。すぐになんか食わしたるけん」
「恩に着ます」
六が深く頭を下げた。
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ほどなくして、彼らは一軒の農家に辿り着いた。
茅葺き屋根に白い朝煙がゆらめき、板戸には煤が残る。
囲いの外では、鶏が二羽、餌をついばんでいた。
「おおい、お客じゃ!」
老人が戸を開けると、中から小柄な老婆が顔を出した。
その目が、ずらりと並ぶ六人を見て見開かれる。
「おやまぁ……どちらさんじゃろ」
「旅の方よ。お松さんのお社で寝とったんで、連れてきたんじゃ」
「お松さんの所で?」
老婆は目を丸くした。
「……あんたら、悪い夢でも見とらんかえ?」
「いいえ。ただ……囲炉裏もないのに、不思議と暖かい社でした」
六が穏やかに答える。
「あらまぁ……そりゃお松さんが怒っとらんのやねぇ」
老婆は安心したように笑い、台所へ向かった。
「ほんなら、すぐ飯の支度するけん。ゆっくりしときなされ」
「ワシは川で魚でも釣ってくるわい」
老人は竹の釣竿と魚籠を手に取り、のんびりと外へ出て行った。
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囲炉裏の前に並んだ六人。火は少し落ちていたが、室内は人の温もりで満ちていた。
伽耶が少し身を縮めると、六が静かに笑った。
その隣で、コマが口を開く。
「夢うつつですが……六さんが、私の傷を癒してくれたのですよね」
「はい。ただ、私の力だけでは足りませんでした。……幾人かの力を借りました」
六の声は穏やかだが、どこか含みを帯びていた。
「これが六さんの力……。見事なものです」
コマが胸に手を当てる。
「ところで、“幾人”とは、どなたのことです?」
六はわずかに言葉を詰まらせた。
「おもとさんと、ハクさんと……。ロッテさんは気を失っていましたし、伽耶さんは妖ではないので……」
そこで、おもとがあっけらかんと言った。
「ワシとハクと、あの猫神じゃろ? まぁ、ほとんどあの猫神の力じゃな。妖力も桁違いじゃったわ」
「ちょ、ちょっと! なんでそういうこと言うの!」
伽耶が焦って声を上げる。
そして、ハクの方を見て必死に戸口を指差して合図する。
「ハッちゃん!」
おもとの隣に座っていたハクは、伽耶の仕草を見て首を傾げた。
おもとがぼそりと呟く。
「何やっとるんじゃ、あいつ」
「んー……多分、“お前がいると余計なこと喋るから、あたしに外に出せ”って言ってるんだと思う」
ハクはぼそりと答える。
「なんだと貴様!」
おもとが怒鳴る。
「ああ、ハッちゃんも普通に余計なこと言うのね……」
伽耶が肩を落とした。
「まぁ。あたしらも川に行こうかい」
ハクは鼻息を荒くするおもとを掴んで外へ引きずっていった。
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囲炉裏の火がぱちりと鳴る。
コマは静かながらも困惑した表情で下を見る。
「……ミケが」
「それが、私にも分からないのです。
そも、殺す気がなかったのなら、あれほどの深手を与えてはいない筈」
六の言葉に、コマは目を伏せた。
「どうあれ、私は敵に救われた……ということですね」
「どうか心を鎮めてください。あれは決して、龍造寺の家名を背負った一騎打ちではありません」
「……私の覚悟を踏みにじり、生き恥を晒せということでしょうか。 ふふ……皮肉なものですね」
コマは微笑のような影を浮かべた。
伽耶がその言葉を遮るように口を開いた。
「それって、違うと思う」
「違う?」
六が伽耶を見る。
「矢を射った時、ミケさんが私を見て“なるほど”って言った。それからは、誰にも攻撃しなかったよね。……まるで何かを悟ったみたいにさ」
「確かに聞きました。その言葉を。
しかも伽耶さんは、その時まるで別人のような目をしていました」
六の声は慎重だった。
「その後も、伽耶さんだけに声が聞こえたとも。……何か、ありそうです」
「うん。何回も聞こえたし、寝てた時にも同じ声の人が夢に出てきたの」
伽耶が必死に話す。
「待ってください。矢? 声? ……私は何も覚えていません」
コマの顔に戸惑いが浮かぶ。
「そうですね。まずは伽耶さん、順を追って話してください」
六が静かに促す。
コマもその横顔を見つめた。
その時——。
ガラリ、と戸口が開く。
冷たい空気と共に、ハクが顔を出した。
「……ねぇ、“ハッちゃん”って……何?」
「……」
一行は固まる。
ハクは四人の表情を見て、頬を赤らめる。
「……なんでもない」
静かに戸を閉め、外へ去っていった。
伽耶が呟く。
「……ハッちゃんって、もしかして……間が悪いタイプ?」
室内には、笑いとも溜息ともつかぬ、あたたかな空気が流れた。
囲炉裏の火が再び小さくはぜ、朝の光が障子を照らしていた。




