第五十二話 社の朝
夜が明けた。
淡い光が障子の隙間から射し込み、畳の上を静かに照らしている。
伽耶はひとり、目を覚ました。
外では鳥の声。夜の気配はもうない。
ふと隣を見ると、コマが安らかな寝息を立てていた。
昨日の戦いでできた大きな傷は、まるで時間を巻き戻したように塞がっている。
伽耶はそっと息をつく。
胸の奥に張りつめていた何かが、ようやくほどけていった。
壁にもたれ、ぼんやりと天井を見上げる。
夢の中で見たあの女性のことを思い出した。
白い霞の中、優しく語りかけてくれた声。
頬に触れたあのぬくもりを、伽耶は指先でなぞった。
(あの人……誰だったんだろう……)
そう思いながらも、なぜか怖さはなかった。
むしろ、そっと包まれるような安心感が残っていた。
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「……おはようございます」
柔らかい声がして、伽耶が顔を上げる。六がゆっくりと体を起こしていた。
「六さん、もう起きて大丈夫なの?」
「ええ。まだ少し体は重いですが、問題ありません」
六は微笑みながら、コマの方へ目をやった。
呼吸は安定し、血色も悪くない。六はそっとコマの腕に手をかざし、残った擦り傷へ癒しの力を流す。
「六さん、無理しないでよ……」
「小さな傷ばかりですから、大丈夫ですよ」
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六はしばし無言で手を当てたあと、ぽつりとつぶやいた。
「……それにしても、コマさんが、あのような覚悟をしていたとは思いませんでした」
「ここを、自分の最期の場所にするって話?」
「ええ。まったく気付きませんでした。あの方は聡明です。すべて計算の上だったのでしょう」
「でも……死のうとしてたのが“聡明”って言えるのかな」
伽耶は俯いたまま小さく言う。
「百年という歳月を生きた者が、何も考えずにそんな選択をするでしょうか。
——きっと、深く考えた末に辿り着いた“答え”だったのでしょう。
そして、生き証人として私たちを使った。誰にも気づかれずに」
「もしかして……私たちが来るのを、知ってたのかな」
「流石にそれはないと思います。しかし、突然現れた私たちを正しく“利用”できるあたり……見事なものです。
ロッテさんを仲間にしたのも、彼女がひとりにならぬように考えてのことでしょう」
「……そうかもだけど、神様に挑むなんて、極端すぎるよ」
「そう見る方がいても当然でしょう。でもね——」
六は眠るコマの顔を見つめた。
「多くを経験し、多くを考えた末に偏る者と、何も知らずに偏る者とは、天と地ほどの違いがあるのです」
その言葉に、伽耶は何も返せなかった。
ただ、静かにうなずくことしかできなかった。
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そのとき、背後から声がした。
「ロッテは納得しないだろうね。大事なやつを、目の前で失いかけたんだ」
ハクだった。すでに目を覚まし、壁にもたれて外を眺めている。
「……あら、起きていたのですね」
「少し前にな。……おい、朝だぞ」
ハクが隣の小柄な影を揺らす。
「んん……腹減った……」
おもとが寝ぼけ眼で伸びをした。
「相変わらずなやつめ」
そう言うハクの腹もぐぅ、と鳴る。
六は苦笑し、コマへの手当てを続ける。
「もう少し休んでからにしましょう。皆、まだ疲れが残っています」
「いや、ワシはちょっと獲ってくるぞ」
おもとが立ち上がろうとして、よろけた。
「おっと」
ハクが支える。
「ちょっと待って!」
伽耶が声を上げた。
「ここ、村だからさ! 少し休んでから村に行こうよ。分けてもらえるかもしれないし!」
「分けてもらうったって、どうせ汁とか野菜じゃろ。ワシは肉が食いたい」
「いや、だからその光景を見たくないんだって……」
伽耶の悲鳴まじりの声に、六はくすりと笑った。
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「うわぁぁぁぁ!」
突然、甲高い声が社に響いた。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
伽耶もつられて叫ぶ。
「コマは!? コマはどこ!?」
飛び起きたロッテが、隣で眠るコマを見つけるなり泣き崩れた。
「ロッテさん、大丈夫。コマさんは生きていますよ。眠っているだけです」
「えっ……生きてる……?」
ロッテがコマの頬に触れる。確かに温かい。
顔色も良く、呼吸も穏やか。
「でも……あの猫神と戦って……」
「勝ったのです」
六が静かに言った。
「勝っ……た? でも私、途中から何も覚えてない……」
「あなたが“時を繋いでくれた”おかげですよ」
「ときを……つないだ……?」
ロッテは首を傾げる。
「詳しい話は、コマさんが起きてからゆっくりと」
六が微笑んだ。
「おい、あの異国娘、泣いたり叫んだり忙しないな」
おもとが呟く。
「うん、忙しない」
ハクも淡々と返す。
「くっ……お前ら、馬鹿にして……!」
ロッテが顔を真っ赤にして睨み返す。
「……猫神と戦ってもない臆病者に言われてもねぇ〜」
ロッテが嫌味混じりで呟く。
「なんだと貴様!」
おもとが立ち上がろうとするが、またよろけてしまう。
「まぁまぁ。皆さん無事で何よりです」
六が間に入り、場をなだめた。
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そのとき、コマの右腕がゆっくりと上がった。
「コマ!」ロッテが息を呑む。
「ロッテ……心配かけて、ごめんなさいね……」
掠れた声に、ロッテは涙をボロボロとこぼしながらコマの手を握った。
「また泣いたぞ。実に忙しないな」
「うん、実に忙しない」
しばし、社の中には柔らかな静けさが満ちていた。
風も音もない。
ただ、朝の光が差し込み、皆の顔を淡く照らす。
その時だった。
——ギィ……。
社の戸が、静かに開いた。
全員が顔を向ける。
そこに立っていたのは、腰の曲がった老人だった。
日焼けした顔に深い皺。手には小さな花束。
「おめらぁ、ここで何しょんな?」
その声は驚きよりも、どこか心配そうだった。
老人の手には、お松さんへ供える花が握られていた。
「声が聞こえたもんでなぁ……人がおるとは思わなんだ」
六たちは息を呑み、伽耶はただ黙って座ったまま。
——朝の光が、社の中へ静かに流れ込んでいた。




