第四十六話 コマの回想
百年前──加茂村の朝
時は享保(1730年代)の頃。晩秋の風が、稲穂の抜け殻を巻き上げていた。
畦には火が焚かれ、藁の焦げる匂いがあたりを覆っている。
旅の途中、コマはひとり、この加茂村へと足を踏み入れた。
村は静まり返っていた。
軒先には干からびた稗と粟、井戸のそばには誰のものとも知れぬ草鞋が落ちている。
道端に倒れていた童に駆け寄ったとき、その体はもう冷たかった。
病か、飢えか——。
手には小さな石が握られていた。
空腹を紛らわせようとしたのだろうか。
コマはある社の前に辿り着いた。その社こそが「お松さん」だった。
社の前には、干からびた雑穀の握り飯が一つ。
供物のつもりなのだろうが、風に晒され、すでに形も崩れ、腐り始めている。
「猫の匂いがする……」
コマは一度、社を出て、村の方へ歩いた。
村には、不作や疫病によって、無力に座り込む村人たち。わずかに力の残っている者は、かき集めた雑穀を炊く。
先ほど見た童……あれは氷山の一角に過ぎなかった。
穴の空いた障子から家屋を除くと、眠るように事切れた一家。疫病の影響は凄まじかった。
小川のほとりで、一人の男が釣竿を垂らしていた。
その背後では、まだ幼い童が草の根をいじったり、小石を並べて遊んでいる。
コマは静かにその二人へと歩み寄った。
「おや、見ん顔じゃな。旅の方か?」
男が顔を上げた。
「はい。それにしても……この辺りは、酷い不作のようですね」
コマは男の釣竿の先を見つめながら腰を下ろす。
「ああ……この十年でいっちゃん悪いかもしれん。
畑も枯れてしもうてのう……」
すると、童が小さな声で言った。
「お松さんと、猫神さん……いつ助けてくれるん?」
(……猫神?)
コマはすぐに、先ほど見た社のことを思い出した。
「お松さんが出てきてくれたら、助けてもらえるかもなぁ」
男はかすかに笑う。その笑いには、どこか疑いと諦めが混じっていた。
「お松さんとは?」
「この村に伝わっとる話じゃ。昔な、不作が続いた時に、金持ちから金を借りて村のもんを救うた夫婦がおったそうな。けんど……その金持ちに騙されて、旦那さんは病死、女房は命を取られたんじゃと。その女房が“お松さん”ってんだ」
男は言葉を続けようとしたが、力なく俯いた。
「お松さんか……猫神さんが来てくれたらきっと……おっかあ、死なんかったのに……」
童が呟く。
「猫神いうんはなぁ、お松さんが可愛がっとった猫のことじゃ。
お松さんが殺されたあと、その猫が仇を取った――そう言い伝えられとる」
男は疲れたように目を細め、釣竿の先で水面をなぞった。
この村の光景を見れば見るほど、妖になる前、ただの猫だった自分はどれほど豊かだったのか。自分が殺した仇も……自分を愛でていた主もまた、どれほど裕福だったのかを思い知らされた。
加茂村は、コマにとって「己を見直す旅」となった。
「私は確かに主の仇を討った……でも、これからどう生きればいい?」
自分を槍で刺した相手と、この村の人々の姿を何度重ねても、同じ人間とは思えない。
夕刻、村を一回りした頃、コマは朝に見た童の亡骸にもう一度遭遇する。コマは童の前でしゃがむ。
「この童の魂は、どこへ行くのだろう……私のようにならなければ良いけど……」
その時、童の手の中にある小石が見えた。コマは優しくその小石を手に取った。
「そうか。私のようにならなければ良いんだ……意味もなく永劫の時を放浪する私のように……」
コマはその小石を握りしめ立ち上がる。
その夜、コマは社の前に立った。
社の奥から鈴の音が一度、かすかに鳴った。
「私は猫の妖です。この社から猫の匂いがする……私と話せる方はおりませんか」
「お松様か、猫神様はおられますか」
次の瞬間、薄闇の奥からひとつの影が現れる。
短い髪に着崩した着物を着た女が社の影から現れた。
その女からは猫の匂いがする。
「私はコマと申します。あなたの名を教えてください」
「……ミケとでも呼べ……」
「ミケさん……なぜ、村人を救わないのですか?」
コマは声を張らず、静かに問う。
ミケは無言のまま、彼女を見ていた。
その瞳の奥には、怒りと悲しみが同居しているように見えた。
「見て見ぬふりをするのですか。あの子らは、餓えて死んでいくというのに……」
風が一瞬、社をかすめた。
それでもミケは動かない。冷ややかに、ただ見つめていた。
コマは唇をかすかに震わせた。
「その腐った握り飯の意味を……理解できないの?」
ミケが、ようやく口を開く。
「何を言っている?」
声は静かで、淡々としていた。
「あなたはこの村に奉られる神でしょう。なぜ、願いを聞き入れないのです?」
「貴様に話す義理などないのう。——帰れ」
その一言に、空気が張り詰めた。
コマは言葉を失い、ミケは社へと戻っていく。
扉が閉まる音だけが、夜に響いた。
この神は……まさか村人を見捨てたのか。
コマは白とも黒とも言えない、不思議な怒りを覚えた。
⸻
現在──お松の社にて
コマはゆっくりと目を開けた。
鈴の音が遠くで鳴っている。
伽耶たちは息を呑み、ただその顔を見つめていた。
「……あれから百年以上が経ちました。それでも、あの目を、今も忘れられません」
六が静かに尋ねる。
「その“目”というのが——お松さんの愛猫、ミケさん、ですね」
コマは小さく頷いた。
「つまり、お前はその神を恨んでいるのか?」
ハクの問いに、コマは首を振る。
「いいえ。恨みではありません」
ロッテが眉をひそめる。
「じゃあ、なんでそんな話をしたの?」
コマは目を伏せ、短く息を吐いた。
「——ここが、私の最期の地だからです」
その言葉に、空気が凍りつく。
「私はこの村で、人間の"違い"を知りました。それだけではありません。どれほど願っても、その願いに見向きもしない神もいるということも知りました」
伽耶が声を上げようとした瞬間、鈴が鳴った。
風が止み、灯明が揺れる。
鳥居の奥、黒い影が立っていた。
誰も言葉を発せぬまま、その影が輪郭を帯びていく。
短い髪、着崩した着物。左手には身の丈より長い大太刀。鞘を逆手に持ち、柄が頭の上になるような、異様な持ち方。
右の口角がわずかに上がり、まるで笑みのよう。
その瞳には、以前同様、力と冷たさが同居していた。
——ミケだった。
コマが一歩、前へ出る。
「久しぶりね、ミケ」
ミケは答えない。
ただゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
六人はその場で息を止めた。
「誰も動かないで」
コマが静かに言う。
ミケは彼らの列を通り過ぎる際、そっと伽耶の肩に手を置いた。
「恐れずともよい……」
伽耶が小さく震える。
手が離れ、ミケは道へ出た所で足を止める。
そのまま振り返り、静かに立つ。
コマも歩き出し、ミケと向かい合った。
鈴の余韻が風に溶ける。
コマの唇がかすかに動く。
「……ごめんなさいね。皆さんを、また“利用”させていただきました」
一瞬、誰も息をしていなかった。鈴の音だけが、どこか遠くで鳴っていた。
六の目が細く光り、ロッテが息を呑む。
おもとは拳を握りしめ、ハクは無言で風の流れを読む。
伽耶だけが、肩に残る体温を抱えたまま動けなかった。
——どこからか鈴の音が、ふたたび聞こえる。




