第四十五話 お松さん
夕暮れの道を、一行は静かに歩いていた。
蛙の声が、どこからともなく響いていた。
木々の影の向こう、小高い丘の上に——小祠が見える。
「お松さんに関する話はわかりました。しかし——」
六が歩を緩め、前を行くコマに声を掛けた。
「コマさんと、そのお松さんの愛猫……どのような関わりがあるのです? 百年以上前にお会いしたと聞きましたが」
「それは……色々とございまして……」
コマは曖昧に笑い、言葉を濁した。
「どうか、その所を教えて頂けますか?」
六の声音が少し鋭くなる。
しかしコマは、前を向いたまま短く答えた。
「仔細は、社に着いてから話しますよ」
その背を見つめ、六は眉をひそめる。
(……何か、隠している)
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丘を登りきると、小さな境内が現れた。
近づくにつれ、黒木の鳥居が薄明かりに浮かび上がる。背丈ほどの高さで、柱は日に焼けながらも滑らかな艶を保ち、注連縄も新しい。
鳥居の奥には、板壁の小祠が一つ。屋根は杮葺きで、板は時を経ながらも手入れが行き届き、夕日の名残をやわらかく映している。
その前には石灯籠が一本。火袋の中は黒ずんでいるが、芯の跡は古くない。
祠の脇には、なめらかな自然石が据えられ、その表には「貞享三年三月十五日」と刻まれている。
コマは鳥居の前で立ち止まり、静かに呟いた。
「……あら、前に来た時よりも立派になりましたね」
六は辺りを見回す。
「村人たちは“お松さん”と呼んでいましたね。妖の話はしていなかった。……どうやら、ここでは“神”として祀られているようです」
「一体何が言いたいんだ?」
ロッテが少し苛立った声を出す。
「その答えを——コマさんから聞きたいのです」
六の眼差しが鋭くなる。
「ど、どういうこと?」
伽耶が不安そうに六を見上げる。
一行は鳥居の前で足を止めた。
風が止み、どこからか鈴の音がかすかに鳴る。
コマは振り返り、静かに口を開いた。
「私は……知っての通り、昔、肥前国で騒ぎを起こしました」
その声音には、かすかな苦味があった。
「あの騒ぎでは、私の大切な主人が殺され、それを機に——最も慕ってくれた方が自害しました。その方の血を舐め、私は化け猫となり、主人を殺した者たちに復讐したのです」
伽耶たちは言葉を失う。
「しかし、当時の私は無知な化け猫でした。人を殺めること、祟ることばかり考えて行動してしまったのです。私が化け猫であることはすぐに見抜かれ、槍で突かれてしまいました」
コマは着ていた道着の襟を少し緩め、左肩を見せた。
そこには、槍で突かれたような大きな傷跡。
古いものだが、深い。
「……これが、その時の傷です。人間もまた、愚かなもので、槍で突いたことを“化け猫を退治した”と世間に吹聴しました」
誰も言葉を返せなかった。
「しかし、私にとってその噂は好都合。人間にとって、私はすでにいないものとされたからです。それを“利用”し、人の目をかいくぐり、私は肥前国を出て旅をしました」
コマは道着を直し、続ける。
「そして——その道中で辿り着いたのが、この加茂村なのです」
その背を見ながら六が警戒を強めた。
「百年以上前、この国は飢餓に苦しむ人が大勢おりました。不作、飢え、疫病……この村もまた、例外ではありませんでした」
コマの声がわずかに震えた。
夕暮れの光が祠を照らし、鳥居の影が長く伸びる。
「不作のため、村人は飢えに苦しみ、やがて病が蔓延しました。それでも、この祠には……泣け無しの雑穀で作った握り飯が、供えられていたのです。すでに腐っていましたがね」
「……何を言ってる?」
ハクが低く呟く。
「しっかり聞きましょう」
六が制した。
「このまま進むか、戻るかを決めるのは——この話を聞いてからです」
コマは静かにうなずいた。
「人間とは、窮地に立たされた時、神に助けを乞う生き物です。私たち妖には到底理解できない理と言ったところでしょうか」
「……困った時の、神頼みってやつ?」
伽耶が呟く。
「食べなければ生きてはいけない。それは私たちも同じ。でも人間はその大事な食べ物を神へ捧げ、祈るのです」
コマの瞳が光を宿した。
「しかしその願いが成就するとは限りません。何も罪を犯していない人ですら……腹を減らし、疫病によって死んで行く。旅の道中、私はそのような光景を幾度も見てきました。しかし、この村はひとつだけ、違ったのです」
伽耶たちは息を呑んだ。
「百年前にここへ来た折、村人から、この村には古くから猫神が祀られていると聞きました。私はその猫神と話すため、村を一通り回った後、もう一度ここへ参りました。妖でも、同じ猫なら話ができるかもしれないと思い……」




