第三十七話 異国の猫物語
時は西洋の遠い国、運河の都オランダ。
霧と鐘の音が朝を連れてくるころ――一匹の仔猫が商人の家の暖炉のそばで生まれた。毛は淡いクリーム色、瞳は冬空のように青い。母は誇り高いアンゴラ猫だった。
商人は帳簿を前に、羽根ペンで数字を書き込みながら眉をひそめた。金の計算に追われ、頭を悩ませていたのだ。ふと暖炉のそばの仔猫を見やり、口にした。
「こいつは贈り物に、ちょうどよい」
贈り物――それは「贈り猫」。
彼は富裕な一家に取り入り、今後も商売で便宜を図ってもらうため、生まれて間もない仔を母から引き離し、箱に入れて届けた。
豪奢な家の扉が開く。冬の光が差し込み、夫妻と二人の子が歓声を上げた。
「まあ、なんて可愛い」
「とても良い血統の猫ですので、ぜひ皆様にと思いまして」
商人は腹黒さを隠しつつ家族へ猫を贈る。
夫人は仔猫を胸に抱き、「シャルロッテ」と名づけ、可愛がった。家族は愛称でロッテと呼んだ。
けれどロッテは、なかなか懐かなかった。アンゴラ特有の気高い気質でもあり、なにより母のぬくもりを知らなかったからだ。乳の温度、匂い、心臓の音。
子どもたちは小さな声で話し合い、やがて両親に進言した。
「この子はきっとお母さんが恋しいんじゃないかな」
それを聞いた夫妻は商人の元へ赴き、母猫を高額で買い取った。
ほどなく、家の扉が開き、風とともに母猫の匂いが流れ込む。ロッテが鳴き、母も鳴いた。
再会は、ロッテにとって、まるで魔法のようだった。
その日から家はぬくもりで満ちた。朝は子どもたちの登校する靴音。昼は夫人が窓辺に干す布の匂い。夕べは父が帰り、暖炉が赤く笑う。母猫はロッテを舐め、ロッテは喉を鳴らした。
幸福は、確かにあった。
その幸福の中で、ロッテの胸にひとつの願いが芽生える。
――人間になりたい。
家族の言葉をもっと分かち合いたい。手をつないで歩きたい。子どもたちと同じ背丈で笑ってみたい。
願いは日ごとに強くなった。
猫の願いは普通なら夢で終わる。だが、ときに「形」を持つ。強すぎる想いが、普通ではない道を開く。
だが、その道をねじ曲げる出来事が、冬のある晩に起こった。
商人の商売が行き詰まった。帳簿は赤字で埋まり、借金取りが扉を叩く。
男は恨みを育てた。
「あの家族が便宜を図ってくれなかったせいだ」
吹雪の夕方、商人は大きな包みを抱え、玄関に立った。
「市場で美味しいアップルタルトを買ってきました。食後にご家族で」
夫人は礼を言い、受け取った。
吹雪の夜。食卓に甘い香りが広がる。父が切り分け、子どもたちが笑い、母が「いただきます」と言った。
最初の一口、りんごの酸味と甘み。
次の瞬間、家族は次々と倒れた。
――そのタルトには猛毒が混入されていた。
父が椅子を倒し、母の手からフォークが落ち、子どもたちは皿の上に崩れ落ちた。暖炉は赤々と燃えていたが、家から血の気がすべて逃げていった。
それを見計らい、ほどなく商人が忍び込む。彼は急いで袋に貴金属を詰め、宝石を懐に入れる。
最後に暖炉へ水を浴びせ、火を消した。
その時、暗がりで彼の目が二つの影を見つけた。ロッテと母猫だった。
「この役立たずが」
商人はポケットからナイフを出し、母は娘を庇った。
ロッテは必死に逃げた。吹雪の夜道、凍える石畳。
夜が明け、風が止んだころ。ロッテは恐る恐る家に戻る。
家の扉は開け放たれ、雪が室内に積もっていた。
周りを見渡すと、暖炉の側で母猫が倒れていた。胸の白毛は赤く染まり、すでに凍りついていた。
奥の部屋には、二度と起きない家族。
幸福は、一夜にして消えた。
ロッテは母猫のそばに伏し、凍った血を舐める。
舌に触れたのは氷の味。だがその中に眠っていたのは、愛しさよりも強い怨念。
家族と母の最後の想いが、ロッテの胸に流れ込んだ。
心臓が強く打つたび、空気が冷えて、吐息は白く、床に霜が張った。
明け方、ロッテは猫でありながら猫ではなくなった。
まるで、家族と母猫の怨念を背負った魔物。
――数日後、町に「毒入りタルト」の噂が広まった。
商人は奪った品の一部を質に入れ、港へ向かう。翌日出る船に紛れようとしていたのだ。
夜。路地は人気がなく、石畳に霜が降りていた。
背中に冷気が張りつく。
「また冷えてきやがった」
商人は襟を立てる。
だが、その寒さは海の風でも、冬のいたずらでもなかった。
走っても離れず、肺の奥まで凍らせる寒気。
商人は恐る恐る振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。金髪、青い瞳。コートも着ていない。
人間の形をした、「寒さ」。
商人は慌てて逃げようとしたが、もはや手遅れだった。
翌朝、路地で凍死体が見つかった。顔は恐怖にひきつり、もがき苦しむような姿で。
ロッテは――猫に戻った。
罪の重さはわかっていた。けれど正義と復讐の境界は、あの夜の吹雪で見えなくなっていた。
ただ一つ確かなのは、ここにはもう自分の居場所がないこと。母猫も、家族も亡くしたからだ。
ロッテは港の影に身を潜め、商人が乗るはずだった船に忍び込んだ。行き先など知らない。どこでもいい。海の向こうへ。逃げたかった。罪から。喪失から。世界から。
船は出港する。
ロッテは樽の間に隠れ、干物や魚の端を盗み食いながら一年近く旅をした。港ごとに風の匂いが変わり、言葉の響きが変わり、星の並びすら違って見えた。
やがて船は小さな湾に入る。長崎、出島。見たことのない屋根、聞いたことのない言葉。
猫の姿で船を降りると、すぐに声が上がった。
「珍しい猫だ」
「あれは高く売れるぞ!」
誰かが追う。網がのびる。ロッテは逃げた。
彼らの言葉はまるで刃のようだった。理解できない言葉ほど、恐ろしいものはない。
(きっと、あの商人を殺した犯人を追っているんだ)
何もわからないロッテはひたすら逃げた。
ロッテは山へ走った。山の中には誰もいない。
でも、その場で留まるのが怖かった。
(追っ手がくるかもしれない)
ロッテはひたすら走り、山を越えた。
ここがどこかもわからないまま走った。
そしてある日、祠の前で――白い猫に出会う。
コマ。
猫は猫を見ればわかる。ただの猫ではないと。
コマもまた、ロッテを見て悟った。ただの猫ではないと。
コマの優しい眼差しは、がむしゃらに逃げていたロッテを安心させた。
それから、コマとロッテは仲良くなり、ロッテに言葉を教えた。
挨拶の仕方、箸の持ち方。春の匂い、蝉の声、秋の風、雪の音。
そして、人の心の触れ方。近づき方。離れ方。
ロッテは少しずつこの国の言葉を覚えた。
けれど、人の群れには入らなかった。長崎で追われた記憶が、耳の裏で冷たく鳴っていたからだ。
藪の陰、祠のそば。ロッテはそこで十五年ほどを過ごした。
ときにコマと話し、笑い、黙り、空を見上げ、雪の夜を思い出し――それでも生き延びた。
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これが、ロッテにまつわるすべて。
贈り猫として家に運ばれ、母と再会し、幸福を知り、毒の夜に世界を失い、復讐と逃亡の果てに海を渡り、藪に根を張った異国の猫。
コマは語り終えると、縁側の湯呑を手に取った。
湯呑を置く小さな音は、静かに座敷に響いた
⸻
部屋には、しばし誰の声も落ちてこなかった。
先に口を開いたのは伽耶だ。
「……ありがとう。全部、聞けてよかった」
六は目を伏せ、短く息を吐いた。
「寒さの理由が、わかった気がします」
おもとは鼻を鳴らし、そっぽを向く。
ハクは拳を膝の上でほどき、結び直し、やがて言った。
「……幸せと苦しみ……」
伽耶はうなずいた。
「私たち、間違ってたね」
コマは微笑む。
「いいえ、そんな事はありません。知ろうとする欲求。それこそ人間の本懐でしょう」
部屋の障子の外で、春の風が庭の笹を揺らした。
だが、ほんのかすかに、雪のように冷たい音も混じっている気がした。
藪の奥で、ひとり耳を澄ます青い瞳の気配。
雪の夜から長い道のりを歩いてきた名が、呼ばれる日を、静かに待つ音だった。




