第二十九話 残された者と進む者
夜の魚津宿場町。
説子の札宿では、膳が三人分並べられている。湯気の立つ味噌汁、漬け物、炊き立ての飯。しかし、肝心の客は戻らない。
「……遅いねぇ」
説子は箸を置き、囲炉裏の火を見つめた。夕餉の時間を過ぎても、伽耶たちの姿は無い。
襖の陰で、天音はじっと膝を抱えていた。
(……やっぱり……置いていかれたんだ)
昼間、「夕餉までには戻る」と聞いた。それを信じて待った。だが、何度も外を見回したが、あの三人は帰ってこない。
「言うんじゃなかった……」
唇が震え、心の奥から悔しさが込み上げる。
助けを求めたのは自分。伽耶たちならきっと、と縋ったのも自分。なのに――その伽耶たちですら、自分を置いて行った。
襖の隙間から、説子が火箸で炭を突く音が聞こえる。
天音は声を殺して布団に潜った。涙が頬を濡らしても、もう呼び止める相手はいない。
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抜け荷の舟で筑前へと渡った四人は、人気の無い藪の中に潜み、夜明けを待った。
春とはいえ、夜明け前の空気は肌を刺すように冷たい。湿った草が衣に触れるたび、冷えが背筋に這い上がってくる。
「人に見られたらいけないから、少しの間だけね」
そう言うとハクはもう少し藪の奥へ進んで、九尾の狐に変化した。
伽耶ももうこの姿には慣れてきた。むしろあの尻尾の暖かさは忘れられない。
伽耶とおもとはハクの懐に入り込んだ。
「あったかーい」
「これは良い寝心地じゃ」
それを見て六も笑みを浮かべながらハクの毛の中に埋もれた。
遠くでは犬の遠吠えと、波を打つ音が交じり合って聞こえる。
「なぁ……腹減った……」
おもとが腹を押さえて転がる。
「……私も」
伽耶も小さく答える。
「仕方ありませんね。夜明けを待って、人里で何か食べましょう」
六が落ち着いた声でなだめる。
「ハクさんもお疲れでしょうし」
ハクは目は閉じていたが、鼻を利かせている。
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やがて朝日が昇り、町のざわめきが近づく。
坂を下りると、筑前の港町はすでに活気づいていた。行商人の声、波止場の喧騒、干物を炙る香ばしい匂いが入り混じる。
「すご……これ、ほんとに日本?」
伽耶は目を見張った。軒先には異国風の布や瓶が並び、行き交う人々の服装も多様だ。異国の香りをまとった町並みは、魚津宿場町よりもずっと賑やかで、不思議な空気に満ちていた。
「長崎に近いので、異国の影響が強いのでしょう」
六が静かに説明する。
「腹ぁ減ったー! 食い物はどこじゃ!」
おもとが真っ先に駆け出す。
「こらー!お金持ってないでしょー!」
伽耶も慌てて後を追った。
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茶屋に入ると、女将が明るく声をかけてきた。
「おやまぁ、いらっしゃい。旅の方かい?」
魚津で立ち寄った茶屋は、串に刺した団子や味噌田楽を出す、小ぢんまりとした休み処が多かった。旅人が足を止め、茶と甘味で一息つく場所。
だが、筑前の港町で入った茶屋は様子が違った。女将が膳に並べたのは、香ばしく炙られた鯖の干物に麦飯、そして大根の煮付けや汁物。港から上がったばかりの魚の匂いと、煮物の湯気が鼻をくすぐる。
炙られた干物の皮の焦げ目から脂が弾け、香りが席に広がる。
「く、臭っ……」
伽耶は思わず顔をしかめたが、ひと口かじると脂の旨味が口に広がり、思わず声を上げた。
「……うまっ!」
「もっとくれぇー!」
おもとがおかわりをねだる。
「臭いけど……美味しい。これが、魚?」
伽耶は口いっぱいにほおばり、心の底から笑った。昨日までの恐怖と不安が、一日ぶりのご飯と共に解けていく。
同じ「茶屋」でも、土地が変われば出されるものも空気もまるで違う。魚津での恐怖に震えていた自分が、今こうして異国の香り漂う町で笑っている――伽耶はその実感に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
(……怖かったけど、私たちはちゃんと進めてる!きっともう大丈夫!)
伽耶はそう思った。魚津でただ待つだけだった少女ではない。遠く離れた知らない町で息をし、六たちと共に前に進んでいる――その実感が胸に宿っていた。
こうして四人は筑前の朝を迎え、新たな一歩を踏み出した。
一方、魚津に残された天音の胸には、まだ夜の冷たさが重く残っていた。




