第二十八話 山影と海峡
昼の陽射しが木々の隙間から射しこみ、苔むした岩をまだらに染めていた。森の奥はしんとして、風に揺れる枝の音だけが耳をかすめる。人の通らぬ山道を、四人はひたすら進んでいた。
手付かずの自然は、どこか神々しさを帯びていた。
その時、ハクがふと足を止める。
ハクの前を、豆粒ほどの黒い影がぞろぞろ横切っていった。豆粒のように小さな妖が列を作り、ちょこちょこ……ちょこちょこと歩いて行く。
「な、何あれ……かわいい……」伽耶は思わず声を上げた。
「あれは“豆行軍”ですね。山に棲む小妖です。害はありませんが……あまり関わらぬ方がよいでしょう」
六が静かに答える。
「なんじゃ、豆つぶか。気にするな」
おもとが鼻を鳴らした。
豆妖たちは四人を見上げ、いっせいにぺこりと頭を下げる。その仕草が妙に人間くさく、伽耶は戸惑った。やがて苔の海へと消え、残ったのは山そのものがじっと見つめているような気配だけだった。
豆行軍が去ると、ハクはまた走り出す。
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やがて稜線が開け、険しい峰が連なった。
風を裂いて走るたび、伽耶は叫び声を堪える。九つの尾がやわらかく支え、恐怖と安堵が胸の奥でせめぎ合う。山をひと越えするごとに空気は薄くなり、遠くの海のきらめきが視界に現れた。
「……あれが瀬戸の海ですね」
六の声が風に混じった。
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日が暮れるころ、ようやく下関の入り江にたどり着いた。潮の香りと漁火が漂い、町の灯が遠くに瞬いている。ハクは人の姿に戻り、荒い息をついた。
「ここから先は海だから……舟に頼るしかない」
ハクがそう言うと、伽耶が返す。
「舟に乗るなら通行手形?とか必要なんだよね?」
「いえ……策は考えています」
六は周囲を確かめた。
「この辺りには、抜け荷などの裏稼業を行っている者がいるはずです。もちろん御法度ではありますが……」
「六さん、ほんと物知り……」
伽耶が六の顔を覗き込む。
「以前お話した通り、私は各地を旅していましたから」
「あ、そっか。酒呑童子とも旅してたって言ってたね」
伽耶が納得した表情で海を見渡す。
「抜け荷のほとんどは監視に見つからないよう、夜に行われます。とりあえず夜になるまで身を隠して待ちましょう」
そう言うと、六は近くの雑木林へ歩き出す。三人も六について行った。
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時間が経ち、辺りは闇に包まれる。
次の瞬間、ハクが突然九尾の狐へと変化する。
「え!なんでこのタイミング!?」
伽耶は声を呑んだ。
ハクは地面に鼻を近づけ、次に風を嗅ぐように首を巡らせる。九つの尾がふわりと広がり、ひとしきり匂いを探ると、人間の姿へ戻って指を差した。
「こっちから匂いがする。……人の、しかも海藻や縄の匂いが混じってる」
「この暗闇では漁師ではないはず。おそらく……抜荷人ですね」
六が補足する。
「ほ、本当にいるんだ……」
伽耶はごくりと唾を飲んだ。
四人は闇を縫うように走り、その匂いの先へと向かった。
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やがて闇の中から、一艘の小舟がきしむ音とともに姿を現した。
櫂を操っていたのは無精ひげを生やした男で、潮に焼けた肌は風にさらされ荒れている。腰には縄が巻かれ、肩からは使い込まれた網が垂れ下がっていた。全身に染みついた海の匂いは、ただの漁師ではなく裏稼業に通じる者であることを物語っている。
網の端にはまだ濡れた藻が絡みつき、舟の底には水滴と共に砕けた木箱の破片が散らばっていた。それはつい先ほど、筑前から運び込んだ荷を浜のどこかに降ろしてきた証拠だった。
男は舟を波打ち際に寄せると、濁った目で四人を値踏みするように見やった。
「……あんたら、こんな時間に何をしてる」
低い声が響く。
六が一歩進み出て、静かに頭を下げた。
「お恥ずかしい話ですが、どうしても今夜中に海を渡らねばならない事情がございます。渡しの便はもう無いと承知しておりますが……」
男は目を細め、三人と一人を値踏みするように眺める。
「なるほど……抜荷人か……」
「合縁奇縁、どうかお願いします」
六は深々と頭を下げた。
「……さっきちょうど荷を引き渡して戻るところだ。口の堅い連中なら乗せてやる」
おもとが伽耶の袖を引き、小声で囁く。
「こいつ……変な顔じゃの」
「いやそこ!?」
伽耶は必死で抑えた。
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舟に乗り込むと、波の音が耳を打つ。舟頭は手際よく櫂を操り、闇の中を滑るように進んだ。
「役人の見回りが来るかもしれん。声を立てるな」
男の囁きに、伽耶は思わず口を押さえた。
ほどなく、松明を掲げた小舟が近くを横切る。櫂の軋む音が夜気に響いた。四人は息を殺し、舟頭の背だけを見つめる。
(見つかりませんように……!)
伽耶の心臓は破裂しそうだった。
やがて松明の光が遠ざかり、舟頭が小さく吐息をもらす。
「……通り過ぎた。もう大丈夫だ」
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やがて舟は筑前の岸へと滑りついた。舟頭は縄を引き寄せて舟をつなぎながら言った。
「見回りが戻る。今夜は表通りに出るな。裏を抜けろ。北の坂を上がって、灯りの少ない道を選べ」
「ありがとうございます。恩に着ます」
六は深々と頭を下げ、礼銭を渡した。
伽耶も慌てて頭を下げる。おもとは素直に言葉を飲み込み、ハクはただ静かに歩き出す。
夜風が潮の匂いを運び、闇に沈む坂道が四人を迎える。こうして一行は、肥前へと続く九州の地へ足を踏み入れた。




