5.符石の光
朝の光が、薬草棚の隙間から斜めに差し込んでいた。
ステラは薬草の仕分けをしながら、
昨日サリクスから聞いた刻印の話を思い出していた。
(温める刻印と冷ます刻印……
線の向きが逆で……でも三角の印は同じ……)
乾いた葉を一枚手に取り、葉脈の走り方を指先でなぞる。
(基点印……熱の流れの向きを示す……
じゃあ、三角は……“熱そのもの”を意味してるのかな……)
考えても答えは出なかった。
けれど、その“わからない”感覚が、
ほんの少しだけ胸の奥を温めた。
「ステラ」
サリクスの声に顔を上げると、
彼は刻印練習用の符石板と刻印刀を手にしていた。
「薬草の仕分けはそのくらいでいい。
今日は……刻印の練習をしようか」
ステラは一瞬だけ驚き、そして小さく頷いた。
(……練習……)
刻印刀を握る手に、微かな震えが走る。
けれど、その震えは恐怖ではなく、
まだ名前のない、どこか暖かい感情から来るものだった。
ステラは刻印刀を握り直し、
練習用の符石板の上にそっと刃先を置いた。
「力を入れすぎないようにな。
刃の重みと、自分の手の重さだけで線を刻むつもりで」
サリクスの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
(……手の重さだけ……)
深呼吸をひとつして、
ステラは刻印刀をわずかに滑らせた。
シャリ……。
乾いた音と共に、符石板に浅い線が刻まれる。
ほんの数ミリほどの短い線。
けれど、それは今までで最も真っ直ぐで、滑らかな線だった。
これまで何度も練習しては、線が歪んだり、刃先が滑ったりしていた。
一昨日も、納得できる刻印は一度も刻めなかった。
(……できた……)
今日は違った。
震えていない。刃先は、思った通りの道を辿った。
小さく呟く声に、サリクスが微笑む。
「いい線だ。よく頑張ったな。
……最初の一歩を越えたぞ」
ステラは刻印刀を置き、
刻んだ線をじっと見つめた。
線の中に刻まれた、微かな影と光。
石の奥へと続いていくように見える、その細い道筋。
ふと、符石板が淡く光った。
ほんの一瞬。
薄い青白い光が、線に沿って走り抜けた。
「……今のは……?」
驚いて顔を上げると、サリクスがわずかに目を細めて頷いた。
「……わずかだが、魔力が流れたな。
完全な符術構造ではないが……
線が“刻印”としての形を成し始めた証拠だ」
ステラの胸が、小さく熱を帯びた。
(……わたしが……刻めた……?
魔法……が……動いた……?)
その感覚は、恐怖でも悲しみでもなかった。
ただ、身体の奥から滲むように湧き上がる、確かな“なにか”だった。
⸻⸻
午後の陽が、窓辺の薬草棚を黄金色に染めていた。
ステラは刻印刀を布で拭いながら、
先ほど刻んだ線を何度も見返していた。
(……わたしが……
刻んだ線に……魔力が……)
符石板にわずかに走った青白い光。
一瞬のことだったけれど、その光景は瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
「……サリクスさん」
「なんだ?」
刻印板や符石を片づけていたサリクスが、手を止めて振り返った。
「……今の線……完全じゃないって言ってましたけど……
完全な刻印って……どんなふうに刻むんですか?」
サリクスは少し黙ってから、机に置いてあった符石のひとつを手に取った。
黒曜石色の符石には、細かい線と三角、円、点を組み合わせた刻印が彫られていた。
「これが、熱放出符石の標準刻印だ。
お前が今刻んだ線も、この構造のほんの一部にすぎない。
だが、どんな複雑な刻印も、基本は一つひとつの線の積み重ねだ。
……今日のお前は、その“入り口”に立ったということだよ」
ステラは符石をじっと見つめた。
(……全部……こんなに複雑なのに……
一つ一つの線から、始まってるんだ……)
胸の奥で、また小さく何かが灯る音がした。
けれどその灯りが何を照らすのか、今のステラにはまだわからなかった。
サリクスは符石を机に戻し、
棚から干したばかりの薬草束を取り出した。
「今日はもう十分だ。
あとは薬草の仕分けを手伝ってくれるか」
「……はい」
ステラは刻印刀を丁寧に布で包み、机の端に置いた。
いつもより少しだけ呼吸が軽く感じる。
けれど、その奥ではずっと冷たい穴が空いている感覚が消えてはいなかった。
薬草を仕分けながら、ふと、サリクスに問いかけた。
「サリクスさん……」
「なんだ?」
「……刻印って……
どうして、あんなふうに光るんでしょうか……?」
サリクスは手を止め、しばらく黙ってから静かに答えた。
「符石は魔力場に親和する鉱石だ。
刻印は、そこに流れる魔力波動の“経路”を定義する。
光って見えるのは、その魔力波動の一部が可視域に放射されるからだ。
……まあ、詳しい理屈は俺にもわからん。
だが、光るということは、魔力が流れている証拠だ」
ステラは頷いた。
(……魔力……流れてる……)
その言葉が、薬草の香りの中で淡く反響した。
刻印に込められた理屈。
魔力という見えないものの流れを、石の中に形作ること。
(……すごい……)
小さく胸が熱くなった。
それは喪失も悲しみも消してはくれないけれど、
今のステラにとって、それでも確かに息をする理由のひとつになり始めていた。
⸻⸻
夕暮れが近づく頃、店の窓から差し込む光が赤く染まり始めていた。
ステラは仕分けを終えた薬草束を棚に戻し、
机の上に置いた練習用符石板をもう一度見つめた。
(……わたしが……刻んだ線……)
あの時、一瞬だけ走った青白い光。
あの光景は、星を見上げた夜の空と同じくらい、美しく思えた。
「ステラ」
サリクスの声に振り返ると、
彼は暖炉にくべる薪を抱えながら、柔らかく微笑んだ。
「今日はよく頑張ったな。
……少しずつでいい。焦らなくていいからな」
「……はい」
ステラも、小さく笑みを返した。
笑おうと思ったわけではなかった。
けれど、その笑みは自分でも驚くほど自然に浮かんでいた。
サリクスは暖炉に火をくべながら、
彼女のその横顔を静かに見つめた。
(……この子は……
まだ折れていない。
そして——)
胸の奥で、静かな確信が生まれる。
(この子はきっと……
魔法の、その先へ辿り着く子だ……)
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、
干された薬草の影が壁に揺れた。
その暖かな揺らめきの中で、
ステラの小さな決意と、まだ気づかぬ探求の灯火が、
静かに、確かに燃えていた。