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4.小さな灯火

朝の空気は冷たく澄んでいた。


ステラは観察帳を抱えたまま、ぼんやりと机に座っていた。

視線は符石刻印の練習板に落ちていたが、意識はそこにはなかった。


(……みんな……本当に……いないのかな……)


エルデン壊滅の報せを聞いてから、まだ一日も経っていない。

夜通し泣き疲れた目は腫れ、胸の奥にはぽっかりと穴が開いていた。


サリクスが棚の薬瓶を整理しながら、ちらりと彼女を見た。


「今日は……街へ出るか」


ステラは顔を上げた。

街へ出る、という言葉が、まだ遠い世界のことのように聞こえた。


「……どうして……ですか?」


声は掠れていた。

サリクスは瓶の蓋を閉め、彼女に背を向けたまま答えた。


「気分転換だ。

いつまでも部屋に閉じこもっていても、気は晴れない。

……外の空気を吸おう。街は広い」


ステラは小さく頷いた。


気分転換。

そんな言葉で済むことじゃないのに。

けれど、サリクスがそう言うのなら、従うしかなかった。


外套を羽織り、戸口で靴を履くと、

冷たい朝風が顔に当たった。


街の石畳を踏むたび、乾いた音が小さく響いた。


家々の煙突からは白い煙が上がり、

行き交う人々の声が遠くから聞こえてくる。


(……ああ……ここは……)


エルデンとは違う。

魔法のない、静かな村とは違う。


ここには、光があった。

そしてその光は、ステラの胸に痛みを伴って差し込んだ。



⸻⸻


サリクスの後ろを歩きながら、ステラは街の景色を眺めていた。


石畳の道は朝の光を受けて白く輝き、

道端には果物や乾燥肉を並べた露店がいくつも開かれていた。

店主たちは大きな声で客を呼び、

通りを駆ける子どもたちは符石ランタンを指さしてはしゃいでいる。


(……こんなに……)


ステラの胸に、微かなざわめきが生まれた。


あちこちの軒先に吊るされた符石ランタンが、淡い光を放っている。

薬師の店先には刻印板や符石が並べられ、

刻印を打つ細い鉄槌の音が、カン、カン、と規則正しく響いていた。


サリクスが足を止めると、目の前には符石屋があった。


「少し仕入れをしていく。中で待っていなさい」


ステラは頷き、店先で符石の山を眺めた。


淡い青、薄紅、灰色、深緑。

それぞれに違う刻印が彫られ、光を受けて鈍く輝いている。


(……全部……意味があるんだ……)


その時だった。


「うわっ……!」


目の前を通りかかった少年が、積み上げられた符石板を運んでいて、

足元の石に躓きそうになった。


「危ない!」


思わずステラが手を伸ばすと、少年は体勢を立て直し、

符石板を落とさずに済んだ。


「っ……ありがと。助かった!」


少年は振り返り、にっと笑った。


淡い栗色の髪に、陽に焼けた頬。

明るい瞳が、光を受けて小さく瞬いていた。


「……重くないですか?」


ステラが小さな声で問うと、少年は首をすくめて笑った。


「慣れてるよ。けど、今のはほんと危なかったな。

……えっと、君、見ない顔だね?」


その言葉に、ステラは少し戸惑いながらも、小さく頷いた。


(この人……)


符石の光よりも眩しい笑顔に、胸の奥で閉ざしていた扉がわずかに軋む音を立てた。


少年は符石板を抱え直すと、ステラをじっと見つめた。


「君、街の子じゃないよね? 見ない顔だし……」


ステラは一瞬答えに詰まった。

エルデンという言葉が喉元まで出かかったが、

昨日聞いたあの報せが頭をよぎり、声が震えた。


「……えっと……その……」


「……あ、ごめん。無理に答えなくていいや!」


少年は慌てて手を振った。


「俺、ティオ。ここの符石屋で見習いやってる。

今日は刻印板の運び出し手伝い中なんだ」


そう言って笑う顔は、街の喧騒と朝の光に溶け込み、

まるでそこにあるのが当たり前のようだった。


「……ティオ……さん……」


「“さん”なんていらないよ。

君は?」


「……ステラ……」


声は小さかったが、ティオの耳には届いた。


「ステラか。いい名前だな!」


屈託のない笑顔に、ステラの胸が少しだけ温かくなった。


(……いい名前……)


両親がつけてくれた、大切な名前。

ずっと重く冷たかったその響きが、

ほんの少しだけ、やわらかく聞こえた気がした。


「ティオ、まだか!」


店の奥から店主の怒鳴り声が響き、ティオは肩をすくめた。


「じゃ、またな! ステラ!」


そう言うと、符石板を抱え直し、慌ただしく店内へ消えていった。


残されたステラは、去っていく少年の背中を見つめた。


(……また……)


胸の奥で、小さく呟く声があった。


(……また……会えるかな……)


サリクスが店内から出てくると、ステラはまだ符石屋の前で立ち尽くしていた。


「どうした?」


その声に、ステラは我に返ったように振り向いた。


「あ……いえ……」


ティオの笑顔と、彼が抱えていた符石板のことが頭から離れなかった。

あの板にはどんな刻印が彫られていたのだろう。

何を流して、どんな光を灯すのだろう。


二人で歩き出してからも、ステラは何度も店先を振り返っていた。


そしてふと、口を開いた。


「サリクスさん……」


「なんだ?」


「……あの符石板……温めるのと冷ますので、刻印の線の向きが逆になってました。

でも……どっちにも、似た形の三角みたいな紋様がついてて……

あれって、温度の上下に共通する何かなんですか?」


サリクスは足を止めた。

冬の冷たい風が二人の間を吹き抜ける。


「……よく見ていたな」


ステラはきょとんとした顔でサリクスを見上げた。


「温める符石も冷ます符石も、基本的には熱流の操作だ。

三角の紋様は、熱移動の方向性を示す基点印……

だが、それを逆向きに刻むことで放出か吸収かが変わる。

……符術師でもそこまで気づくのに時間がかかるぞ」


ステラは小さく頷いた。

その瞳には、まだ癒えぬ悲しみの影があったが、

その奥で、僅かに不思議そうな光が瞬いていた。


(……そうなんだ……)


なんとなく気になった疑問だった。

けれど、その答えが胸の奥で微かに響いていることに、ステラ自身はまだ気づいていなかった。


サリクスはそんな彼女を見つめ、わずかに目を細める。


(……この子は……

まだ大丈夫だ。まだ……折れてはいない)


そして、心の奥で静かに呟いた。


(むしろ……この街で……

この子は、きっと……)


街を吹き抜ける冷たい風が、ステラの髪を揺らした。

遠くで符石刻印の金槌の音が響き、その音は小さく温かな灯火のように彼女の胸に滲んでいった。

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