3.届いた報せ
朝の光が、干された薬草の間を淡く照らしていた。
ステラは机に広げた符石刻印の練習板を見つめていた。
昨日よりも少し深く、少し滑らかに線を刻めるようになった気がする。
けれど、まだ刃先の震えは完全には止まらなかった。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、刻印刀を置く。
指先にはうっすらと痺れが残り、掌には微かな熱があった。
その熱は、不思議と嫌ではなかった。
ここ数日、薬草の仕分けや符石刻印の練習を繰り返すたび、
胸の奥に灯る小さな明かりが少しずつ大きくなっていくのを感じていた。
サリクスは棚の薬瓶を整理しながら、ちらりとステラを見た。
「休憩しろ。そんなに集中し続けたら手が利かなくなるぞ」
「はい……」
ステラは笑みを浮かべ、膝に置いた観察帳を開いた。
符石刻印の練習記録。刻印の深さ、角度、刃圧。
自分なりにまとめた図と短い考察が並んでいる。
(まだわからないことばかりだけど……面白い)
サリクスは彼女の様子を確認すると、上着を手に取った。
「少し出てくる。薬材と符石の補充だ。昼には戻る」
「いってらっしゃい」
戸を開け、冷たい朝風と共に出ていくサリクスの背中を見送りながら、
ステラは観察帳に書き込む文字を再び追い始めた。
⸻⸻
昼を過ぎ、光が傾き始める頃だった。
「戻ったぞ」
戸が開き、冷えた外気と共にサリクスが帰ってきた。
肩には買い出し袋を提げ、顔にはわずかに疲労の色があった。
「お帰りなさい」
「……ああ」
サリクスは袋を机の上に置き、無言で瓶を並べ始めた。
乾燥させた香草、薬酒の小瓶、そして符石の補充用刻印板。
いつも通りの動作。
けれど、その背中がいつもより少しだけ重く見えた。
(どうしたんだろう……)
ステラは問いかけることができなかった。
ただ、胸の奥に小さな不安が芽生えるのを感じていた。
「ステラ」
サリクスが瓶を棚に収め終え、こちらに向き直った。
「少し話がある」
その声はいつもと変わらない落ち着いた響きだったが、
どこか、深い淵のような冷たさが混ざっていた。
ステラは観察帳を閉じ、背筋を伸ばした。
「……はい」
サリクスはしばらく黙ってステラを見つめていた。
干された薬草の影が、窓から差し込む光の中でわずかに揺れている。
「……今日、街の仕入れ先で話を聞いた。
北の山の方で、大きな災害があったらしい」
ステラの胸が、ひゅっと音を立てて冷えた。
「……山……?」
「場所ははっきりしないが、どうやら村がひとつ……消えたと」
言葉が、薬草の香りの中に沈んでいく。
ステラは唇を震わせた。
頭の奥で、夜空の裂け目と光の渦が蘇る。
「エルデン……ですか……?」
サリクスは目を伏せ、短く頷いた。
「まだ詳しいことはわからない。
だが、村は壊滅的な被害を受けたと……
当時、村にいた者の生存は確認されていないとも聞いた」
ステラの視界が滲んだ。
指先が震え、膝の上の観察帳が落ちる。
乾いた音が部屋に響き、薬草の香りが遠のいていった。
「……そんな……」
声はかすれ、息にならなかった。
「そんなの……いや……いやだ……」
涙が頬を伝い、落ちていく。
サリクスは動かなかった。
ただ、彼女の悲しみが嵐のように吹き荒れるのを、黙って受け止めていた。
ステラは何度も首を振った。
涙が頬から顎へ、そして床へと零れ落ちていく。
「いやだ……
帰りたかったのに……
お父さんに……謝らなきゃいけなかったのに……」
震える声が部屋の静けさに吸い込まれていく。
サリクスはその場にしゃがみこみ、落ちた観察帳を拾い上げた。
ページが少し折れ曲がっていたのを、そっと伸ばしながら言う。
「……無理に立ち上がろうとしなくていい。
今は……泣くといい」
ステラは俯き、震える肩を抱きしめた。
(嫌だ……
嘘だって言って……
お願いだから……)
叫び出したいのに、声は掠れて出なかった。
胸の奥を鋭い冷たい刃が何度も何度も刺し貫くようだった。
サリクスは観察帳をそっと机に置き、棚から乾いた布を取り出すと、ステラの傍に置いた。
「落ち着いたら……少し薬を飲ませよう。
眠れるようにしてやる」
その言葉は冷たくもなく、優しさだけでもなく、
ただ静かに、彼女の絶望を包み込む響きだった。
ステラは顔を上げられなかった。
けれど、その足元に置かれた白い布が滲んで見えた。
サリクスは、泣きじゃくるステラを黙って見つめていた。
(……この子は、まだ十歳で……
たったひとりで、すべてを失って……)
乾いた布を握りしめた彼の手が、小さく震えていた。
薬師として、街の子供たちを診てきた。
荒れ果てた森で怪我をした旅人を救ったこともあった。
だが、目の前の少女のように、全てを呑まれるように失った者を慰める言葉は、何一つ持ち合わせていなかった。
(ステラ。強がる必要なんてない。
今は……泣くだけでいい)
ステラのすすり泣きが、部屋の静寂を埋める。
干された薬草の影が、夕陽に照らされて揺れていた。
サリクスはゆっくりと立ち上がると、棚の奥から小瓶を取り出した。
澄んだ琥珀色の液体が、傾けるたびにとろりと揺れる。
(……いつか、この子は……
この世界の真理に触れるだろう)
彼は、自分でもわからなかった。
なぜそう思ったのか。
ただ、符石刻印を見つめる彼女の瞳の奥に、
悲しみや絶望を呑み込みながらもなお光る何かを確かに見ていた。
「ステラ」
声をかけると、ステラは顔を上げた。
涙に濡れた頬、真っ赤に腫れた目。
けれど、その瞳にはわずかに焦点が戻っていた。
「これを少し飲むといい。
身体が温まって……少しは眠れるはずだ」
サリクスは、小さな椀に薬を注ぎ差し出した。
ステラは震える手でそれを受け取り、唇に触れさせた。
甘く、苦く、そして温かい薬の味が口の中に広がった。
薬を飲み干すと、ステラの身体から少しずつ力が抜けていった。
「……あったかい……」
かすれた声でそう呟くと、瞼が重くなる。
けれど、その瞳はまだ揺れていた。
「サリクスさん……」
「なんだ?」
「……わたし……これから、どうしたらいいんでしょう……」
その問いはあまりに小さく、そしてあまりに重かった。
サリクスは答えられなかった。
彼自身にも、その答えはわからなかったからだ。
(だが——)
彼はゆっくりと彼女の頭に手を置いた。
柔らかく細い髪を撫でると、ステラの瞳がかすかに震えた。
(この子はまだ、立ち上がれる。
泣いて、絶望して、それでも——)
「……今は、眠れ」
ステラは瞼を閉じた。
涙の跡を乾いた布でそっと拭われながら、
静かに、深く、眠りへと落ちていった。
外では夜風が吹き、干された薬草がわずかに揺れる。
その香りが部屋いっぱいに広がり、
消えかけた暖炉の火と共に、少女を包んでいた。
サリクスは沈黙の中、窓の外に瞬く星を見上げた。
(……エルデンの娘よ。
お前の運命は、まだ始まったばかりだ……)