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1.星を見た日(1)

その村には、星がよく見えた。


遠くの街では、光を使って家を灯すことも、空を飛ぶ道具もあるらしい。

けれどこの村、エルデンにはそれがなかった。

光は火と月に頼り、風と水は人の手で汲み上げる。

けれど、誰もそれを不便とは思わなかった。


空気は澄み、夜は凛と冷えて静かで、草も土もよく香った。

冬には囲炉裏を囲んで湯気の立つ芋を分け合い、春には川の浅瀬で魚を追った。

音が少なく、灯りも少ないこの村では、夜になると星がはっきりと見えた。


そして今日、ステラは十歳になった。


「おめでとう、ステラ」


朝の食卓で、母が焼いてくれたのはふっくらとした黒麦のパンだった。

まだ湯気の立つその中央には、赤く煮詰められた木苺の甘煮が、ぽとりと飾られていた。


「……これ、もう採れないって言ってなかった?」


目を丸くしたステラが問いかけると、母はくすりと笑って首をすくめた。


「昨日ね、南の斜面で見つけたの。ほんの少しだけど、お父さんが“これはステラの分だな”って取っておいてくれたのよ」


「……っ、いただきます!」


パンにかじりついたステラの頬が、ふにゃりとほどけた。


「……おいしい!」


口の端に赤い果汁がついたまま、彼女は目を輝かせた。

パンはまだほんのりと温かく、外はさくりと香ばしく焼き上がっていて、中はふかふかだった。

何よりも、ほのかな酸味と甘みが、まるで朝の光を食べているようだった。


母は笑って、ステラの頭を優しく撫でる。


「今日は特別な日だからね。十歳の誕生日、おめでとう。……もう立派なお姉さんだね」


「うん……ありがとう、母さん!」


くるくると揺れる癖毛を揺らして、ステラはにっこりと笑った。

そのまま勢いよく椅子を蹴って立ち上がると、玄関へと駆けていく。


「父さーん! お母さんのパン、すっごくおいしいよ!」


「そりゃよかった」


納屋のあたりで薪を積んでいた父が、声に振り返る。

がっしりとした背中に土埃がついていた。


ステラが近づくと、父は手を拭きながら何かをポケットから取り出した。

それは、厚手の紙と革で綴じられた、しっかりした作りの小さな帳面だった。


ステラは目を丸くして帳面を受け取った。

表紙はざらりとした手触りの厚紙で、角は少し丸みを帯びていた。

革紐で綴じられた背の部分は、強く開いても壊れないよう丈夫に編まれている。


そっと開くと、なめらかで真っ白な紙が何枚も折り重なっていた。


「……すごい……!」


思わず小さく声が漏れた。

紙は光を受けてきらりと輝いて、何も描いていないのに、もう何かがそこにいるような気がした。


「これ、街で買ってきたの?」

「おお。ちょうど物資の受け取りに行ったついでにな」

「でも、こんな立派なの……」


「……お前、あれだろ。草とか、鳥とか、描いてた紙、あっという間にぼろぼろにしてたじゃないか。どうせなら、残せるようにしておけ」


父は少し照れくさそうに、頭をかいた。


ステラはもう一度帳面を抱きしめるようにして、顔を上げた。

目の奥で、好奇心の光がふつふつと揺れていた。


「ねえ、父さん。街って、やっぱりすごいの?」

「ん?」


「魔法とか、道具とか、いろんなものがあるんでしょ? 帳面もそうだし……見てみたいな。街のこと、もっと知りたいよ」


父の動きが、ふと止まった。


ステラは気づかず、続ける。


「ねぇ、父さん。わたし、大きくなったら街に行って、魔法のことももっと知りたい。だって……」


そこで、父がゆっくりと顔を上げた。


その目に、ステラは言葉を詰まらせた。


「……それ以上は言うな」


父の声は低く、固かった。


ステラは反射的に口を閉じた。

けれど、それでも、黙っていられなかった。


「なんで……?」


「ここには魔法はいらない。街の連中の遊び道具だ、あんなもんは」


「遊び道具じゃない! 本当にあるなら、ちゃんと知りたい。見てみたいの。ずっと思ってたの……!」


胸の奥にたまっていたものが、溢れ出す。


「“街には魔法がある”って、みんな噂してる。なのに、誰も教えてくれない。お父さんは街のこと、知ってるくせに、わたしには黙ってて……!」


父の表情がわずかに揺らぐ。


「ステラ……お前は……」


「お父さんは、魔法が怖いの? それとも……わたしが街に行くのが、怖いの?」


その言葉に、父の目に一瞬、怒りの火が灯った。


だがその光はすぐに消え、口元を固く閉じたまま、背を向ける。


「……部屋に戻ってろ」


ステラは、ぎゅっと観察帳を抱え込む。

けれどそのまま、くるりと踵を返し、言葉もなく玄関へ向かった。


「ステラ!」


母の声が背後で追いかけてくる。

けれどステラは、振り返らなかった。


玄関の扉をばんと押し開け、裸足のまま外へ飛び出していった。



戸口に取り残された母は、しばし扉の揺れを見つめていた。

やがて、ゆっくりと夫の背に視線を移す。


「……あなたも、昔はそうだったわ」


その声は、静かだった。


「魔法に心を奪われて、街へ行きたいって言ってた。構わず山を越えて、こっそり一人で行こうとして……」


父の背が、ぴくりと動いた。


「ステラがあの子のままでいてくれるなら、あなたは安心だった。でも……似てきたのよ。昔の、あなたに」


返事はなかった。


だが、沈黙の中に立ちこめる苦味は、風よりも重たかった。



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