【第八話】最終話
リュシアン王子から採用と通達されたものの、まだフィオナは正式な雇用契約を結んでいない。
ただ、なんとなくお試し期間の流れでリュシアン王子のお世話をしていた。
対価についてもあの地獄の執務室で盛り上がりを見せたものの、正式には何も言われておらず、フィオナも聞きそびれた結果──
「まぁ、きっと、無給なんだろうな」
という、誤った認識が正されることはなく。
本当はそんなわけないのだが、フィオナの中では「王族に労働報酬を請求するなんて命知らずの所業」という妙な常識が幅をきかせており、
いまさら「そういえばお給料ってどうなってます……?」と聞けるはずもなかった。
そんなある日のこと。
「リュシアン王子付きの専属メイドは特別待遇を受けているらしい」
という噂を、うっかり耳にしてしまった。
フィオナはその瞬間、悟った。
(確実にやばいフラグじゃないか?)
普通に考えれば、ありがたい話である。
だがフィオナの頭の中では、もう「後から超高額の水道代みたいな請求が来る未来」でいっぱいだった。
(──破産だ……!)
そう心の中で呟き、ガクガクと震える。
特別待遇=「途方もない額の請求を突きつけられて借金地獄に叩き落される」というのが、
自前のビビりフィルターを通した末に行き着いたフィオナの答えだった。
恐怖に駆られたフィオナは、気づけば王宮の廊下を脱兎のごとく駆け出していた。
当然、どこへ向かうかなど決めていない。
ただ、請求書から逃げたかった。
しかし、世の中そう甘くはない。
「どこへ行くんだ、フィオナ」
廊下の角を曲がった先で、リュシアン王子が普通に立っていた。
笑顔だった。
笑顔だが、明らかに逃げ道を塞ぐつもりの立ち位置だった。
「……散歩です!」
フィオナは苦し紛れに叫んだ。
仕事中に散歩とは何事か、と自分で思ったが、口が止まらなかった。
リュシアンは、にこやかに言った。
「専属メイドが、勤務中に持ち場を離れて散歩か?」
ぐうの音も出ない正論だった。
思わずフィオナは立ちすくんだ。
そしてその瞬間、リュシアンは続けた。
「報酬の件、君にさらに上乗せする話をしようと思っていたんだが」
──来た。
甘い囁きとともに訪れる、破滅への第一歩。
「い、いえ!遠慮します!身の丈に合った責任しか背負えない主義なので!」
全力でお断りして、フィオナは踵を返した。
だが、もともと逃げ足に自信があるわけでもない。
次の瞬間、あっさりとリュシアンに腕を捕まれ、引き戻されてしまった。
「逃げられると思ったのか、フィオナ?」
いまさら気づいたが、なぜ下の名で呼ぶ?
優雅な微笑みとともに、リュシアンは軽々とフィオナを囲い込んだ。
その手際の良さに、思わず職人技か何かかと思った。
(──無理だ。この人からは、絶対に逃げられない……!!)
フィオナは心の中で絶望した。
それなのに、掴まれた腕から、妙に心地いいぬくもりが伝わってきて──
……悪くないな、なんて思ってしまった自分が、
なおさら怖かった。
もちろんこの時、彼女はまだ知る由もなかった。
リュシアンが用意していたのは、破滅の請求書でも責任地獄でもなく──
ただ、ひたすら甘い未来だけだったということを。
【完】