【第六話】罠しかない
政務室で、椅子にちょこんと座った私は、
まるで宴会場に迷い込んだ子羊みたいに、
ひたすら空気になろうと努力していた。
(……なにこれ……めちゃくちゃ怖い……)
正面では、貴族たちがリュシアン王子に何かを進言している。
私は当然、話の内容なんて理解できない。
だって、私にわかる単語は、
「王国」「勅令」「財務」「推進」
あとは、なんかすごく難しそうな熟語だけ。
(うん、ダメだ。語彙力も知識もない。
ここで私ができるのは、呼吸だけだ……)
そう悟った私は、なるべく音を立てずに、そっと息を吸った。
「フィオナ」
「ヒィッ」
王子の低い声に、思わず変な悲鳴が漏れる。
「水を持ってこい」
「は、は、はいっ!」
思わず立ち上がりそうになったけど、寸前で踏みとどまった。
(待て、これも試練かもしれない。
途中で躓いたら最高級カーペットの損害賠償……?
それとも……王子が水をテイスティングして、
『これは凡庸だ、処刑』とか言われるパターン……?)
脳内で首を落とされ、酸欠になりかける。
しかし王子は、そんな私の葛藤などお構いなしに、
再び、静かに命じた。
「フィオナ。水だ」
(……やるしか、ないっ!)
私は覚悟を決めた。
──そう、私は見習いを卒業した正規雇用メイド。
契約書は……あったか?まあ、なかったかもしれないけど、
ここで拒否したら、社会的に終わりだ。
(よし。こうなったら、何か粗相をしたら、
『今日の飲食代は割り勘で構いません』って申し出よう。
最悪、全額自己負担だと言えば……!)
自分を励ましながら、
私は政務室の隅に置かれた水差しに向かう。
おそるおそる水を注ぎ、
震える手で王子の前に置いた。
カチャリ、と軽い音を立てて、
グラスが机に乗る。
リュシアン王子は、その水を一口飲み、
ごく自然にうなずいた。
(……え?これだけ?)
一発で肩の力が抜けた。
(な、なんだ……普通じゃん……)
あまりのあっけなさに、逆に怖くなりながら、
私はそっと席に戻った。
周囲の貴族たちは、相変わらず私を好奇の目で見ている。
でも。
(……まあ……今のところ、水道代も、椅子代も、請求されてないし?)
なんだか、少しだけ安心してしまった。
きっと今だけは、
私はこの王宮で一番慎ましい存在だ。
──そう、錯覚した。
このときの私には、
この後、王子が「専属メイドへの追加報酬は何が適切か」と貴族たちに本気で相談し始めることなど、
知る由もなかった。
──続く。