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AGAIN

作者: 森川めだか

AGAIN

     森川 めだか


ALL OUT

終わりはいつでも、「突然」に思えるものだ。

僕の世界の終わりは、父に電話があったことから始まった。短い電話を終えた父は、傍に寄ってきた母にそっと耳打ちをして、それから、二人とも僕を見つめた。

僕らの住む世界は、今、希望派と終末派に大きく二つに分かれていた。

このまま人類が存続することを望む希望派。人類の終焉を望む終末派。

その原因は、先人たちから作られ与えられたこの進歩し尽くした世界。

終末派の考えを借りるなら、もう、疲れてしまったのだ。

落葉の期を人類は歩んでいた。

僕ら家族は希望派だった。

僕らが住む島は、科学者の島と呼ばれ、世界でも有数の科学者たちが住む所だった。僕の父も科学者だった。だから、シェルターを持っていたのだ。

僕を見る、二人の瞳は慈愛に満ちていた。

「アル」父が僕の名前を呼んだ。

僕は、ただならない空気を感じて、黙って二人を見ていた。

父が僕の腕を掴んで、「来るんだ」と引っ張った。

「お母さん」母は何も言わなかった。

僕は引っ張られて、シェルターの置いてある部屋の前まで連れて来られた。母が後ろに付いて来ていた。

「嫌だ。嫌だよ」僕は言った。

構わずにそのドアを父が開けた。

そこには棺みたいなシェルターが横たわっていた。

僕は動けなかった。

「入るんだ」父が言った。

僕は足が震えていたが、抗った。僕と父はもつれ合うようにその部屋の中に入った。「お父さん!」母が後ろ手にドアを閉め、ドアの前に立ち、僕を見ていた。「お母さん!」母は下を向いて小さく首を振った。

シェルターの蓋が開いた。父が僕を抱き締めて、そのまま僕の体をシェルターの中に押し込んだ。

「さようなら、アル」母の指先が僕の手に触れた。僕はその手を掴んだ。母がその手をギュッと握った。

母も折り重なるようにして、僕を抱き締めた。

三人はしばしそうしていた。

「さあ、」父が顔を上げた。「もう時間だ」父が涙を拭った。母も肯いて、僕は呆然とシェルターの中に横になっていた。

シェルターの蓋を父が閉める。

「お父さん! お母さ・・!」それが僕の最後の記憶だった。


僕の誕生日はシェルターの中で過ぎた。目を覚ました僕はシェルターの蓋を押し開く。今は夏のようだ。蝉の声がする。僕は立ち上がってシェルターから出た。人の気配がしない。部屋を見て回ったが、誰もいない。窓から見ても、誰もいない。ただ、太陽だけが照りつけている。

僕は家から出て、通りに出た。

兵器はこの世から人類を消してしまうものだったのかも知れない。

もう、どれくらい経ったんだろう。

僕の家の周りも、そこから見える景色も、随分と違ってしまっていた。木や草がこんなに生えてるなんて。

生き残ったのは僕一人だけなんだろうか?

トボトボと公園まで歩いて行き、木陰のベンチに座った。

僕は顔を手で覆い、ため息を吐いた。

木漏れ日が揺れて、人の影が差したのを、指の間から見た。

僕はサッと振り返り、その人を見た。

ああ、このコかと思った。見覚えのある女の人だった。向こうもそう感じたのか、二人ともしばらく見つめ合っていた。僕と同じ年頃だろう。どこか寂しそうな目をした人だった。

しかし、どこで会ったのか、どうにも思い出せなかった。向こうも不思議そうに首をひねり、こっちに下りて来た。

「あなたも・・」女の人はすぐ目の前に立ち、言った。

「うん・・」僕は答えて、ベンチの傍らを空けた。女の人はそこに腰を下ろした。

「私は、シセ」初めて聞いた名だ。

「僕は、アル。19、・・だった」

「私と、同じだったのね」シセは言った。

「うん」二人、それから何も言わなかった。

「行こう。僕らの他に、いるかも知れない」アルは立ち上がった。

シセも黙って立ち上がった。

どこに行っても、誰もいなかった。

二人とも無言になっていた。

遊歩道から海が見えた。

当たり前だけど、海は残っていた。

二人は砂浜に下りた。

潮騒がする。

二人はただそれを聞いていた。

「海水浴しよう」アルはそう言って、海の方へ歩き出した。何かそうせずにはいられなかった。シセは変な生き物のぬいぐるみを抱いて砂浜に座った。

アルはしばらく泳いで、潜った。サンゴ礁とサンゴ礁との間に、何か、潜水艦みたいな機械が挟まっているのを見つけた。何だろう。アルは首をひねった。

砂浜に戻ると、アルはそのことをシセに話した。

シセも、ぬいぐるみを持ったまま、海に潜った。

アルは砂浜に座って、海を見ていた。

戻って来たシセも、首を傾げた。

二人、街に戻った。

シセは街の美術館に、「チッチホス・カホン展」を見に行こうと言った。

世界がこうなる前から、行こうと思っていたのだと言った。

美術館に着くと、シセは一枚一枚を丹念に見ていた。

「私、この人の絵が大好き。完熟していて、それでいて水々しい」

アルは、絵を見る気もあまり起きなかった。

日が傾きかけて、二人は美術館を出た。

二人で黄色い落日を見た。

「当たり前だけど、人類がいなくなっても、世界はなくならないんだね・・」

「ええ・・」

二人、言葉も無いまま、別れ、それぞれの自宅へ帰って行った。


翌日、シセが見つからなかった。

探している内、早足になり、駆け足になった。

アルはハッとして、足を止めた。

あの海の中の機械。

今思うとあれはタイムマシンではなかったか。

アルはあの機械があった海の方へ走った。

潜ってみると、あの機械はなくなっていた。

アルは砂浜で頭を抱えていた。

「アル、・・君・・だね・・?」後ろで聞き覚えのある声がした。

ティコノ老人だった。この島の長老格の人で、薬でもう百余年も生きているはずだ。

「ティコノさん!」

アルは立ち上がって、ティコノさんが生きていてくれてどんなに心強いかを伝え、まだ他にシセというコがいたこと、シセを見かけなかったか、と早口でまくし立てた。

「さあ・・、見かけなかったよ・・」

「そうですか・・」

アルはうなだれた。

アルはタイムマシンと思われる機械を見つけてから今までの一部始終を話した。

「・・君の予想通りだろう。・・おそらく、タイムマシンが禁止された時に隠されたか、捨てられたかした、旧式のタイムマシンだろう・・」

「シセは・・」

「分からん。こればっかりは、な・・」

「そう、ですか・・」アルは俯いて、ティコノとあてどなく街を歩いた。

空は灰色に曇っていた。

無人の街はどこまで行っても無人で、何だか僕らを見て黙り込んでいるみたいだった。

科学は誰も追いつけないスピードで進んで、遂に人類を置いていってしまったんだ。

「アル君。一つだけ言っておくよ。死はそんなに悲しいものじゃない。だから、君が、」

「いいんです」ティコノの言わんとしていることは分かった。

「うん」ティコノは肯いた。

シセと行った美術館に行き当たった。

「僕、絵を見たいんです」アルが言った。

ティコノは肯いて、二人で中に入った。

アルは、シセがしていたように一枚一枚を見ながら、歩いて行った。

歩いている内に、違和感を覚えた。

何だか、昨日来た時と絵の配置が違っている気がする。

アルは一枚の絵の前ではたと立ち止まった。

シセがいた。

絵の中に。

アルはその絵の説明文を急いで読んだ。

『灰色の服の女』という題だ。ある時代の港町アミという所で描かれた絵らしい。

「ティコノさん!」

ティコノが来た。

「シセです」

ティコノは絵を見て、アルを見て、「確かかね?」と聞いた。

アルは肯いた。

ティコノも説明文に目を寄せた。

何とも言えない沈黙が二人を包んだ。

「タイムマシンなら、・・あるにはある」ティコノが言った。

「僕、行きます」アルは言った。

ティコノはアルを、目を細めて見ていた。ちょっと困ったような顔をして。


アルとティコノは車で博物館へ向かった。

「博物館にタイムマシンがあるなんて、知らなかっただろう?」

「ええ・・」

「学術上だけ一台・・」

博物館に着いた。

二人の靴音だけが響いた。

地下に降りると、大きな透明なドームがあった。その中に椅子が一脚、その周りを大きな機械が取り巻いていた。

「さ、中に」ティコノがアルの背中を押した。

アルに椅子に座るように促すと、ティコノは機械を点検し始めた。

「大丈夫だ」ティコノが立ち上がって、アルを見て言った。

アルは肯いた。肘掛けをギュッと握っていた。

「あっちの貨幣も必要だろう。待っていてくれ。持って来るから。ここで」ティコノは階段を上り、いなくなってしまった。

アルはじっと天井を見ていた。

ため息を吐くと、肩の力が抜けた。

シセは今、何をしてるんだろう。

ティコノがしばらくしてやって来て、袋を渡した。アルが中を見てみると、見慣れない紙幣や硬貨が沢山入っていた。

「ティコノさん・・」

ティコノはアルの肩を掴んだ。

「アル、君は賢い。シセも、賢い」

アルは肯いた。

ティコノが機械を操作し始めた。

アルはただじっとそれを見つめているだけだった。

「過去のものは持って来られないよ。あるはずのないものだからね」ティコノが言った。機械の中から白い輪を取り出して、アルに近づいた。

「あっちで一か月経てば、こっちでも一か月経つことになる。分かるね?」

「はい」ティコノは肯いて、アルの腕と肘掛けをその白い輪で括った。

「言葉は通じるだろう。多少の差違はあってもね」ティコノはニコッとアルに微笑んでみせた。

「ティコノさん・・」

「・・ここを操作すれば、この時代に帰れる。大丈夫かい?」ティコノが微笑んだままで聞いた。

アルは肯いた。

ティコノが離れ、機械の前に座って、何かのレバーを引いて、戻って来た。

ヴーン、ヴーン、と赤ん坊が眠りから覚めたみたいに機械が唸り始めた。

機械の匂いがした。

ティコノがアルの手を強く握った。

「ティコノさん」アルはティコノの目を見上げた。

ティコノがアルの頭に手をやって、微笑んだ。

「また・・・・、また・・」ガタガタと椅子が揺れ動いた。白い輪が発光した。

一際大きく、機械が唸った。

「さようなら」ティコノが言った。

急に意識が遠くなって、アルは目を閉じた。


博物館には、ティコノ一人だけが残された。

また、会えますよね? アルが言えなかった言葉がティコノの胸に残った。

夜になるまで、ティコノは街を歩き、ある丘の上に登った。

満月の夜だった。

街を見下ろして、「(すた)れたな・・」と皮肉げに呟いて、足を進めた。

墓地だった。

一つの墓石の前にティコノは膝を付いて、言った。

「私たちは何だったのだろう。終わりになっても分からんよ。ああ・・・・だが私は約束通り君を愛し続けた。それだけが、それだけが何より私だ」ティコノは小さな瓶の中の液体を飲み干すと、音もなく塵になった。


LOVE

 気が付くと、アルはベンチに座っていた。腕にはあの輪と似た、腕輪がはまっていた。

人々が溢れている。

アルは立ち上がって、シセを探し始めた。

賑やかな人波。泣きそうになるのを堪えながら、アルは初めて見る町を歩いた。人々と見比べて、自分がこの時代にそぐわない恰好をしているのも気にしないで歩き続けた。

暖かな陽光、ピンク色の蝶が飛んでいる。季節は春のようだ。

アルは疲れて、広場の噴水の縁に座った。

折から、風が吹いた。

アルは顔を上げた。広場の端で黄色いスカートの女が盛んに客寄せをしている。どうやら似顔絵描きがいるようだ。

そこに、シセがいた。

スカーレットのドレスを着て、黄色いスカートの女の横に立っている。

アルが立ち上がると、シセもアルに気付いた。

シセは一瞬、ハッとした顔をして、真っ直ぐにアルを見て、早足で近づいて来た。

「アル、・・何で、来たの」ようやく声が届く距離に、立ち止まると、シセが言った。

「シセ、・・何してるんだい?」アルも止まったままで、聞いた。

「帰って。帰ってよ!」シセが大声を上げた。

アルは立ちすくんだ。

シセの後ろに男が立っていた。

オレンジ色の短髪、オレンジ色の瞳で不思議そうにアルを見ていた。

シセはその男に気付いて、小さな声でアルとその男に言った。

「こちら、・・似顔絵描きの、カホン。こっちは、・・幼馴染みの、アル・・」

カホン。あの美術館で見た画家の名だ。

「よろしく、アル」カホンは身を乗り出して、絵具まみれの手を差し出してきた。

アルは握手した。

「カホン、・・ちょっと私、アルと散歩して来るわ」シセはそう言って、アルを見もしないで、横を通り過ぎていった。アルはシセの後を追って歩いた。シセは長い髪をなびかせ、振り向きもしなかった。


ずっと無言で、港に着いた。シセの足取りは早く、追いつくのが、やっとだった。

シセは欄干に手をやって、身をもたれかけ、海を見ていた。アルもその隣に立った。

「この時代のシャンプーったらひどいの」港を見ながら、シセは髪をかき上げた。

アルも欄干に手をかけた。

「どれくらい前から来てるの?」

「ひと月くらい前よ」シセはアルの顔を見て、軽く笑った。

アルの恰好を見て、フッと息を吐いた。

「今来たのね」

「うん・・」

「よく分かったじゃない」

絵のことは言わずに、肯いた。

「・・ここはね、芸術家たちが集まる町なの。売れてる芸術家も、売れてない芸術家もね。活気に溢れてて。・・私、こんな町初めてよ」

アルは黙って聞いていた。

「この港もね、色んな舟が舫いてあるでしょ? たくさんの舟に灯が灯って、夜には海の先まで町が続いてるようなの。・・素敵よ」

シセは頬杖を突いて、寂しそうに見えた。

「何よりも自由なの。色んな人がいるの」

「君は、この時代に、居るつもりかい」

「あの時代に生まれたのが運命なら、この時代に来られたのも、運命よ。私は、そうする」シセははっきりと言った。

シセは欄干に掴まって、伸びをした。髪が潮風になびいていた。

「しょうがないじゃない?」

「でも、・・」アルはシセから視線を逸らして、海を見た。

港を舟が自由に埋め尽くしていた。

でもそれは、シセの言っている自由とは、違うのだ。

「それは、・・間違ってるよ」

「どうして?」シセは欄干に掴まったままで、聞いた。

アルは水平線を見ていた。

この時代、彼ら・・・・。あの時代、僕ら・・・・。

「それは、・・・・愛だよ。何か、間違ってる」アルは自分でも意味が分からないのに、言った。

「何よ、それ」シセは笑った。

シセは欄干から手を離し、アルの隣に、ピョンと跳んだ。

「あと、私、セヌって、名前変えたの。あなたも呼ぶなら、そう呼んで」

「何だよ、それ、」アルはシセを見た。シセはもう後ろ姿になっていた。

アルは港に立ち尽くした。

通る人は皆、他人より他人な気がした。

アル、君は賢い。シセも、賢い。

「どこがですか」アルは呟いた。

夕暮れが、町の色を変えていった。

アルはティコノからもらった袋をぶら下げて、町を歩いた。

足がやけに重かった。

残照の中でホテルに部屋を取った。

貨幣価値が分からなかったから、支払うのに手間取った。

スプリングが音を立てるベッドに腰を下ろした時、アルはため息を吐いた。

窓からは、街灯と歩く人達が見下ろせた。

窓枠に腕を載せ、それに顎を当てがって、しばらく眺めて、窓を閉めた。

ひどく疲れていた。

アルはベッドに横になって、枕に足を乗せて汚れた天井を眺めた。

目を閉じた。瞬間、まだ自分がシェルターの中にいるんじゃないかという気がして、身を起こした。

瞼に手を押し付けて、横向きになって寝ても、ため息ばかり出て、なかなか眠れなかった。


OVER

 何事も無く朝が来て、アルは起きた。

胸が締め付けられるような寂しさだった。

アルはただそのまま、茶色く変色した部屋の角を見つめていた。

外からは、窓を通して女達の笑い声が聞こえる。

思い出は美しい。けれど、過去は美しくない。

それは幻じゃないから。

こんな過去は知らない。

どうしてだ。

胸を触った。

寝癖を触った。寝癖さえ悲しかった。

「カホン!」表から声が聞こえた。アルは窓を開けて、覗いてみた。

昨日、黄色のスカートをして客寄せをしていた女が、裏路地を走っていた。走っている先にはカホンがいた。椅子と、絵の道具が入っているのだろう大きな荷物を背負っていた。

アルはベッドから離れた。

水を一杯飲んで、髪を整えてから、ティコノからもらった袋だけを持って、部屋から出た。腕輪はずっとはめたままだった。

「何やってんだろう」階段を下りながら、呟いた。

ホテルから出たところで、ちょうどカホンと女と出くわした。

「ああ、君はセヌの、・・」

「あら、あなたがアル?」女の方が聞いた。

アルは肯いた。

「私、パティー。よろしくね」パティーはアルの手を取って握手した。


アルは、また広場の隅に座って、カホンが似顔絵描きをしているのを見ていた。シセがやって来ないか、待っていた。

何で待っているのか分からなくなったから、アルは散歩をすることにした。

うららかな春の日。

人混みを避けて、避けて、港までの橋を渡った。

川原で男がラッパを吹いていた。

悲しいことばかり思い出すのは何でだろう。

変に頭に来る。

アルは船着き場に膝を抱いてうずくまった。

潮臭い。

きっと楽しいこともあったはずなのに。

ザブザブとただ舟が立てる波音を聞いていた。

「アル!」シセが走って来た。

「シセ・・」

「どこ行っちゃったのかと思った」肩で息をしている。

ポロッと涙が零れた。

潮の音が流れる。

「その袋、何?」シセが聞いた。

アルは急いで涙を拭って、「お金」と答えた。

「お金持ってくるなんて気が利いてるじゃない」とシセは隣に座った。

「ティコノさんがいたから」

「えっ!」

「ごめん」

「馬鹿ね」

シセはアルのしている腕輪を見て、「それが、あなたのタイムマシン」と言って、少し切なそうな顔をして横を向いた。

「シセは、お金は?」

「私はお母さんの宝石とか持って来て、売ったの。結構いい額よ」

「じゃあ、僕らお金持ちなんだね」

二人とも噴き出した。

笑った。涙ぐむ程。

「これ、私の部屋の電話番号。なんだったら、・・電話して」シセは紙片を渡した。

「ありがとう」アルはそれをポケットにしまった。


アルとシセは、シセがよく行くという喫茶店に入って、食事を取っていた。アルは、コーヒーだけ頼んだ。

「さあ、食べるぞー」扉が開いて、パティーの声が聞こえた。

アルとシセが振り向くと、パティーと一緒にいたカホンも二人に気付いた。

「セヌ」パティーが言って、カホンもパティーも、アルとシセの座っていたカウンターの隣の席に座った。

「セヌ、仕事はいいの?」パティーが聞いた。

「うん。今日はお休み」

「シ、・・セ、セヌ。仕事、してるの?」アルは聞いた。

「うん。ウェイトレス」シセがしれっとして言った。

「アルはセヌと同郷なんだろ? 何しにここに来たの?」カホンが聞いた。

アルは言葉に詰まった。

「どうでもいいのよ。そんなこと。私も流れ者なんだから。パティーって名前もね。パステルからとったの」パティーはそう言って、サンドウィッチを指を二つ立てて頼んだ。コーヒーが先に出てきた。

カホンはそのコーヒーを取って、一口飲むと、煙草の箱を取り出して、一本抜き出して、口に咥えた。パティーもシセと喋りながら、ポケットから煙草の箱を取り出して、一本を指に挟んだ。

「アル、その服どこで買ったの? 変わったデザインねえ」パティーは目を丸くしてアルの恰好を見ていた。

アルとシセはギクッとした。

「故郷の服?」パティーが聞いた。

「そうそうそう。私達の、ね?」シセが慌てて、アルに言った。

「う、うん。そ、そう。珍しい、かな?」アルはぎこちなく笑って言った。

ふーん、とパティーはまだアルの服を見ている。

「着にくそうな服だね」カホンが言った。

「煙草持ってないの? 吸う?」パティーが自分の煙草の箱から一本抜いて、アルに差し出した。

アルは煙草を吸ったことがなかった。シセを見ると、シセも煙草を吸っていた。

「煙草、吸うんだ」アルは意外に思った。

シセは、「ええ」と言って、肯いた。アルはパティーから煙草をもらって、火を点けてもらった。一息吸うと、むせて咳き込んでしまった。

「なんか、初めて吸うみたい」またパティーが目を丸くした。

「初めて、吸ったんだ」むせながら、アルは言った。

カホンが笑っていた。

「もう、帰るから」アルはまだむせながら、言った。

「えっ?」パティーもカホンも、シセも手を止めた。

アルは咳こむのを止めるために、コーヒーを飲み干した。

パティーは驚いたようにシセを見た。不思議そうにカホンはシセを見た。シセは固い顔をして黙ったままだった。

アルも黙っていた。

「夜、二人で埠頭で会いましょう」シセは何も言わず席を立った。

「あ、ちょっと、セヌ・・」パティーの声も顧みず、シセはその店を出た。

アルは空になったカップを見ていた。


夜になるまでアルはアミをブラブラ歩いて、埠頭でシセを待った。

本当に舟の灯りで町が海の向こうまで続いているようだった。

ヒールの音がした。シセだった。

「今まで何してたの」シセは無表情のまま聞いた。

「別に。何も」アルは立った。

シセの後を付いて、埠頭を歩いた。

「帰るの?」シセの声が港の色んな音の中で聞こえる。

「うん」アルは肯いた。

「どうして?」

「さあ・・」

二人とも黙って埠頭を歩いた。

夜風が吹き抜けて行く。

「君も一緒に・・」アルは言った。

シセは全てを否定するように首を振った。

「孤独にさえもしてくれないの?」シセは後ろ姿で言った。

「君はなんて孤独なんだ」

「私達に、何ができるって言うのよ!?」シセが振り向いた。

アルは立ち止まった。

「分からない。分からないよ・・」

「終わったのよ?」

「終わってなんかいない!」アルは声を張り上げた。

シセはまた向こうを向いて、顔を手で覆った。

「君の望むものは、今なに」アルはシセに聞いた。

シセは激しく首を振った。

「自分が傷つきたくないだけ」シセは言った。

「そんなことない」アルはシセに歩み寄ろうとした。

「世界は終わったのよ!!」シセが振り向いて、叫んだ。その目からは大粒の涙が零れていた。

アルはその声に立ちすくんだ。

シセは横を向いて、鼻と口で大きく息をして、涙を止めようとしていた。凛々しい眼をして、涙を隠すけど、舟の灯りが照らしていた。

アルはシセの隣に立った。

「泣いたって何も変わらない。何もよ」シセが俯いて涙を落とした。涙が海に落ちる前に見失ってしまった。

シセは腕を組んで、しばらく海の向こうをじっと見ていた。

アルも沖を見ていた。

「私達、お金持ちじゃない」とシセは笑って言った。

「明日ね、」とシセは目尻を拭って、アルに笑いかけた。

「カホンとパティーと一緒に観劇に行くの。アルも来ない?」シセはアルを見ていた。

「うん・・」アルは奥歯を噛み締めて、俯いた。


LOVER

 翌日の朝、アルのホテルの部屋のドアがノックされた。

アルはもう起きていたので、「はーい」と応えた。

「私よ」シセの声だった。

ドアを開けると、大きな紙袋を抱えたシセが立っていた。

「何、それ?」とアルが言うやいなや、シセがその袋の中身をベッドの上にぶち撒けた。

この時代の服だった。

「アルこれ着てよ。安物だけどね。充分でしょ?」

「ありがとう。・・わざわざ買って来てくれたんだ・・」

「うん」

「・・あ、そうだ、そうだ、お金、お金」アルは袋の口を開けかけた。

「いいわよ。そんなもの。それよりも、ちょっと散歩に出ない?」

アルは着替えを済まして、外に出た。シセが日向で待っていてくれた。並んで歩いた。

「パティーってカホンのこと好きなのよ」シセが言った。

「ふーん」そんなこともあるものかな、と思った。

「それだけ?」シセはクックッと笑った。

「ごめん。あの時、帰って、なんて言って」シセは後ろで手を組んで言った。

「それを言おうと思ったの」

「いいよ。気にしてないよ」

「アルは優しいのね」

「僕だって、そうしたかも知れない」

そう言うと、二人とも黙った。

「あの時、気づいたの?」アルは聞いた。

「ううん。家に帰ってから。・・何にも考えられなくて、・・気が付いたら、あの海にいたの・・」

アルは黙って肯いた。

「どうでもいいよね、そんなこと」アルは言った。

日の当たる道を歩いていた。新緑が美しかった。若芽や蕾があちこちで萌えていた。

「世界の()てから来たなんて、信じられないでしょ?」シセがアルに言った。

「うん。まだ信じられない・・」

「それでいいのよ。もう私達、どこにも帰る所なんて無いんだから」

アルは深呼吸をした。

「観劇は今夜よ。忘れないでね。迎えに来るから」シセはそう言って、小走りで行ってしまった。


部屋に戻ると、あの頃の歌を少し歌った。

あの日のことが思い出された。

母の手を握ったあの熱が、まだ離れないでいた。

その時、水が差された。

隣の部屋から痴話喧嘩の声が聞こえてきた。

アルは苦笑した。

人生はこういうものなのかも知れないな。

誰も人生を教えてはくれない。

人生に先輩も後輩もない。初めて、自分の人生を生きるんだから。

お腹、空いたな・・。

アルは、シセが買って来てくれたズボンのポケットに、適当に紙幣と硬貨を入れて、部屋を出た。


シセが働いている所を探すつもりで歩いていた。

シセを見つけたのは、もう昼を大分過ぎた頃だった。広場の端にある小さなカフェテラスで、シセはウェイトレス姿で、髪を後ろに編んでいた。テーブルを拭いていて、ランチタイムの片付けをしているようだった。

アルが声を掛けるとシセはビックリした顔をして、その後笑った。

アルはもう客らしい客もいなくなったそのカフェテラスのテラス席に着いて、食事を注文した。

食事が来るまで、ずっとアルは広場を見つめていた。

子供たちが遊んでいる。

日溜まりの中で。

シセが食事を持って来た。

「ありがとう」アルはシセに笑いかけた。

アルはその食事をじっと見てから、手をつけた。

美味しかった。でも、途中で胸がいっぱいになって、食事をやめた。

「もういいの?」放っておいた食事を下げに、シセが来た。

アルは黙って肯いた。

シセは悲しそうな顔をして、皿をトレーに載せて、奥に入っていった。

支払いの時は、シセは出て来なかった。


ホテルの部屋のベッドで、アルはまた枕に足を乗せ、考えていた。

僕達はどこから来て、どこへ行くのか。

世界の涯て。

本当にそうなんだろうか?

アルはゆっくり起き上がってシャワーを浴びた。お湯になるまで、随分、時間が掛かった。

信じられなかった。

信じたくない。

科学がそんなに進んでないこの時代でも、そんなに困ることはないことも少し悲しかった。

雨の中を走っているみたいだった。

浴室を出て、体を拭いて、外したタイムマシンを眺めた。

「これがなかったら・・」僕はどうしたろう?

アルは時計を見上げた。「もうこんな時間か・・」

お母さんが食事の準備をしている時間だ。

こんな所まで来たよ。

お父さんは実験室に籠ってて、何をしてるんだろう? でも、お母さんが呼んだらすぐに出てきて、みんなで食卓を囲むんだ。

そうやって、一日一日が大事だった。

かけがえのない、全てがかけがえのないものだったから。

タイムマシンなんて必要のないものだった。

アルはタイムマシンを腕にはめた。

腕にくい込んだ。


夜には、カホンとパティーとシセがおめかしをして来た。

「何? その恰好」パティーが言った。

「いいじゃない」シセが言った。

「行こう」カホンが言った。


街灯に照らされた通りを行くと、同じ様に着飾った人達が歩いていた。皆、今夜の劇を見に行くのだろう。

「ノワって知ってるかい?」カホンがアルに聞いた。

「いいや」アルは答えた。

「稀代の大女優だよ。今夜、それが見られるんだ。チケット取るの苦労したんだぜ」とカホンがアルにウインクした。

劇場に着いた。屋根が無い。やっと四人が並んで座れる席を見つけて腰を下ろした。

「『水の肖像』・・」アルは劇の題名を読んだ。

今はただ灯りが灯されて、広場状の舞台に幕が下ろされていた。

さざめいていた客席も、時間が近づくにつれて静かになっていった。

幕が上がった。この世のものとも思えないような美しい女が現れて、一つ、頭を下げた。

それが、ノワだった。

劇が始まった。

ストーリーは、実子でない子を連れた女が二人で旅をして、絆を深めていくが、最後には、夜、道路をはさんだ道で、何も分からない子と離され、子は連れられてゆき、女が泣いて歩いていくという筋書きだった。

「別れて辛いわ。あたし、悲しいわ」結びが、ノワの台詞だった。

見入ってしまった。

舞台に幕が下りても、灯りが消されるまで、劇が終わったことに気が付かなかった。

風にため息が吹き消されたようだった。

パティーは泣きじゃくって拍手もできない様子だった。

ハンカチで鼻をかんで、カホンとパティーは万雷の拍手に加わっていた。

シセとアルは座ったままだった。

一人になりたかった。

カホンがアルの腕を引いた。アルは席を立って、四人は劇場を後にした。

興奮覚めやらぬパティーはあの劇の素晴らしさを喋り立てていた。

シセはそれを黙って聞いていた。

バーに着いた。そこで夕食をすることになった。


ANGEL

 四人は同じ席には座らないで、カホンがアルをカウンター席に誘った。シセとパティーはテーブル席に座った。

「何?」アルはカホンに聞いた。

「いや、ちょっとね・・」カホンは言って、酒を二つ注文した。

「君はセヌを追って来たのか?」カホンが聞いた。

アルは小さく頭を振った。

カホンは肯いて、「そう。それならいいんだ」と言って、煙草を吸い出した。

アルは一本もらって、吸った。ゆっくり吸うと美味しかった。

酒が来るとカホンはそれを一息に飲み干して、もう一杯注文した。

「うん」とアルは返事をして、慣れない酒をちびりちびりと飲んでいた。

カホンはへべれけに酔っ払った。

シセもパティーも酒を飲んでいるのだろう。楽しげな話し声が聞こえてきた。

「セヌは天使なんじゃないか」とカホンが出し抜けに言った。

カホンはアルの顔を見て、「僕は天使をずっと信じてきたんだ。セヌはね、突然。天使みたいに突然に僕の前に現れたんだ。僕の絵が好きだって。僕の絵なんかまだどこにも出回ってないのに・・」そう言って、アルの肩に置いていた手をどけた。

アルは何も言えなかった。

「セヌは僕の天使なんだ」カホンはそう言うと、カウンターに突っ伏した。

アルは黙って酒を飲んでいた。

「ねえ、アル。屋上に行ってみましょうよ?」酔っているのかシセが腕を回してきた。

パティーが、「寝てるの?」とカホンを揺さぶっていた。

アルとシセは、屋上に上がる階段を上った。

バーの屋上には誰もいなくて、赤い灯りに照らされていた。

「シセ、酔ってるの?」

シセは振り向いた。笑っていた。顔は上気して、瞳はピンク色に曇っている。

そのまま踊るようにして、シセは柵にもたれかかった。

「危ないよ、シセ・・!」

「ねえ、アル?」シセはまた振り返り、柵に背中をもたれさせ、そのまま反り返った。

「危ない!」

「生きてるってこういうことよ!」シセは翼のように腕を広げて、天に向かって叫んだ。そのまま落ちてしまいそうだった。

「シセ!」アルはシセに向かって走った。後ろでガラスの割れる音がした。

カホンだった。足元にグラスが割れていた。

「セヌ!」カホンがアルを追い越して、シセを抱きかかえた。

アルもそこに走り寄った。

シセは声を上げて笑っていた。

カホンに抱えられたまま、シセは階段を下りて行った。

アルの横を通り過ぎる時、シセはアルを見て呟いた。

「私はどうしたらいいの?・・」

アルはその場に立ち尽くしていた。

「アル。帰ろう?」パティーが呼びに来るまで、アルはそこにいた。


下では、シセが水を飲んで落ち着いていた。


ANGER

 帰り道、途中でカホンとパティーと別れ、アルとシセ二人きりになった。

シセは怒っていた。

「どうしてシセなんて呼んだのよ!」

「ごめん」アルもむくれていた。

「私はセヌよ! セヌって言ったでしょ!」シセはとりつくしまもない。

アルはむすっとしていた。

「付いて来ないでよ! あんたはあっち! 私はこっちでしょ!」

「だって・・」

「もう、いい! 勝手にして!」

「ほっとけないよ!」

振り向いたシセの瞳からツッと涙が伝った。

シセはそれを慌ててこすった。

向こうから何人かの人達が歩いて来た。

その中に、あの劇で見たノワがいた。

ノワは白い細身のドレスを着ていた。

ノワだけが光って見えた。

アルもシセも立ち止まっていた。

シセがそこに駆け寄って行った。そして、ノワと短い言葉を交わし、握手をしていた。

シセはアルを睨んで、こっちに来なさいよ! と口を動かし、身振りで呼んだ。

アルはそっちに歩いて行った。

「あなたも見て下さったの? 今夜」ノワが言った。

「ええ。はい」

「ありがとう」ノワが手を差し伸べてきた。アルは握手をした。とても細い手だった。

「この人、トモルっていうの。あの戯曲を書いたの」とノワが一緒に居た男を紹介した。男は右目を病んでいるのか、半分しか開いていない。黒いハンチングを被っていた。軽くアルとシセに向かって頭を下げた。

「照れてる」そんなトモルをノワが笑った。

トモルとノワとも別れ、また二人きりで歩いた。


トモルとノワは腕を組んで歩いていた。

「何だか変わった雰囲気の二人だったわね」

「そうだね」


「本当に怒れるのはあなただけ・・」シセは夜空を見上げて言った。

「うん・・」アルも夜空を見上げた。

星がいっぱい出ていた。

シセはアルの頬をつねって、笑った。

「難しい顔しないで」

アルは微笑んでみせた。

赤いアパートメントに着いた。そこがシセの住んでいる所だった。

「送ってくれてありがとう」そう言って、シセはドアを閉めた。

つまらなく一人で歩いた。

歩いているのは酔っ払いばかりだった。

月がただ寂しく輝いていた。

カホンはシセを好き。

それが、シセの幸せなら。


TIME MACHINE

 朝、アルは風邪をひいていた。

寒気がして、咳もひどい。

シャツを二枚着て、ベッドに横になったままだった。

汗が出る。きっと熱があるのだろう。

アルは寝込んだ。

夢うつつの間で、アルは夢を見たり、思い出したりした。

海の中のタイムマシン。

シセ。振り向くシセ。君はなんて名前?

シェルターから去っていく二人。お父さん! お母さん!

希望派と終末派。

『灰色の服の女』。

絵の中のシセと、目が合った。

何か僕に訴えかけている瞳。

僕はそれを知りたかったのかも知れない。

心の中で雨が降る。

「僕は、・・」言葉の続きが出てこない。

アルは枕に顔を押し付けた。


夜、シセに会いに行った。

アパートに着き、呼び鈴を鳴らすと、「どなた?」と声が聞こえた。

「アル」と答えた。

出て来たシセは、上は白いキャミソールと下はペチコートだけの恰好だった。

アルは思わず目を逸らした。

中はスタンドランプだけが点いていて、まるで黄昏の光だった。

「ちょっと、大丈夫なの?」アルは着膨れして、汗だくだった。

咳をしながら、「大丈夫」と言って、シセを見上げて、笑いかけた。

ドアに映った影絵だったら、キスしてるようにも見えたかも知れない。

誰も見てない役者二人の。

「君の、タイムマシン、見せてほしいんだ」アルは言った。

「こんな夜に? そんな体で?」

アルは肯いた。

「・・いいわよ。ちょっと待ってて。着替えて来るから」


シセとアルは海岸へ向かった。

海岸の林を分け入り、茂みの奥に、あのタイムマシンはあった。

海の中で見たより大きく見えた。

月光を受けて、鈍く光っている。

「こんな所に・・」

「だって、動かせなかったんだもの」

ハッチには錠がしてあった。

「これが、その鍵」シセがチャリチャリと鍵を回して見せた。と、シセはその鍵を投げるフリをした。アルは思わず、投げた方を向いた。海が見えた。シセは笑っていた。

シセはタイムマシンを叩くと、「中にあるのは、毛布一枚きりよ」と言った。

「もういい?」

「うん」


「時の旅人だね・・」港が見える防波堤に座っていた。

シセは返事をしなかった。

シセは煙草を取り出して、吸った。

「僕にも頂戴」シセは一本差し出した。アルはマッチをもらって火を点けた。

咳き込みながら、吸った。

「喉元過ぎれば、か」アルは言った。

「どうしたのよ? 急に」シセは聞いた。

アルは何も言わなかった。

「意気地なし!」

「何かのドアを開けないと」アルは煙草を海に投げた。

立ち上がると、アルは防波堤の先へ歩いた。

腕を捲り、腕輪を見た。

「誰かに見られると、マズいから」シセを振り返った。

シセも立ち上がって、アルを見ていた。

アルは何も言わず、また先へ歩いた。

「ちょっと、・・。ちょっと、アル!・・・・」振り向くと、シセは泣きそうな顔をしていた。

シセはそのまましゃがみ込んで顔を覆った。

「どこにも行かないで。・・ここにいてよ・・」絞り出すような声でシセは言って、嗚咽を漏らして、泣き出した。

アルはシセの傷の深さを知った。

アルは腕輪を外した。

波が揺れていた。

アルが傍に寄っても、シセは泣き止まなかった。

「僕、・・考えてみるよ。・・何とか」

肩をすくめて、勝手にしてとシセが表した。

「時間が必要よ。私にも。あなたにも」

アルは、「うん」と、肯いた。

「風邪、・・移したら、ごめん・・」

シセは、フッと笑った。


OLD

 唇が揺れている。

何か僕に言おうとしている。

アルは夢から覚めた。

アルは着替えて、出かけた。

ここに住むことにする。昨日、そうシセと約束した。

小雨が降っていた。アルは傘を差して、アミのアパートを見て回った。

見るものはどれもレトロで、アンティークみたいだった。

雨が止んだ頃、やっと住む所が決まった。

坂の中腹にあって、あまり人気のない所だった。

アルは坂を駆け下りた。

広場の鳩が逃げて、飛んでいった。

あのカフェテラスにシセはいた。

アルは息を整えながら、「決まったよ」とシセに笑いかけた。

「そう」と、シセは笑って、「カホンとパティーにも教えたら?」と言った。

アルは、シセはカホンのことどう思ってる? とは聞かないで、カホンのアトリエ兼自宅の場所を聞いた。

似顔絵描きをしていた広場のすぐ近くだった。

「私も後から行くわ。もうすぐ上がりなの」とシセが後ろから声をかけた。


カホンのアトリエ兼自宅はドアが開いたままになっていた。覗くと、カンヴァスがいっぱい立てかけられている奥の部屋で、カホンがイーゼルに向かって絵筆を伸ばしているのが見えた。

ドアをくぐって、中へ入ると、カホンは、長いドレスを着て横たわっているパティーを描いていた。

カホンとパティーがアルに気付いた。

「ドア。開けっ放しだったけど・・」

「ああ、そうだった?」とカホンが言った。

パティーはくすくすと笑っていた。

「だらしがないのね。カホンは」いつの間にか後ろにいたシセが笑っていた。

「アルがアミに住むことになったのよ。ね?」

「うん」アルは肯いた。

パティーがパチパチパチと拍手をした。

「ようこそ! アミへ」カホンがアルの手を握った。

「アルも何かするのかい? そうならライバルだな」手を洗いながら、カホンは笑った。

「何かって?」

「芸術さ!」

「いや、・・まだ何も決めてないけど・・」アルは俯いた。

「若い頃って、そういうもんさ」カホンがアルの肩を叩いた。

「カホンはどうして画家になりたいの?」アルは聞いた。

「え?」カホンはしばらく考え込んでいた。

「・・夢?」アルは聞いた。

「夢と言うか・・、心差(こころざ)しだよ」カホンは答えた。

「心差し・・」アルは繰り返した。

その時、コンコンと開けたままのドアを叩く音がした。

振り向くと、初老の痩せた男と、その後ろに、若い女がいた。大人びて見えたが、アルやシセと同い年くらいに思われた。

「レリさん」カホンが言った。

「よお」と初老の男が軽く手を上げた。

「ギーナ・レリ・・! あの時代でもとっても有名な画家よ!」シセがアルに耳打ちした。

「知ってるよ。そんな事くらい」アルもシセに小声で言った。

カホンがレリと話していた。若い女はそっぽを向いていた。

「じゃあな」レリが女の手を引いて、帰って行った。

カホンが何枚かの紙をヒラヒラさせて戻って来た。

「何の用?」パティーがカホンに聞いた。

「新しく個展を開くんだってさ。それの招待券。みんなの分もあるよ」と言って、カホンは三人に招待券を配った。

アルに渡す時、そっと、「今の、娘か孫かと思うだろ? 恋人だよ」と耳打ちをした。

カホンとアルは何となく微笑み合った。

「美術館かあ・・。行ってみよっかな・・」アルは招待券を手に言った。

「そうしなよ! この町じゃみんな、こう言うのさ。アミでは、その日暮らしじゃいられない、ってね」カホンが言った。

「その日暮らしじゃいられない、か・・」アルはまた繰り返した。

シセがウェイトレスをしている理由が分かったような気がした。

「そう。アルもきっと自分の夢を見つけるさ」カホンはウインクして見せた。

アルは微笑んだ。

「アル、行きましょ」シセがアルの腕に手を回した。

「えっ? どこへ?」

「デートよ」シセはアルを引っ張って、ドアを出た。

それをカホンが見ていた。

その目をパティーが見つめていた。


SWEET

「私ね、今日が誕生日なんだ」シセが言った。シセは俯いていた。

「なんか、産まれてもないのに誕生日って。変な感じね」シセは空を見上げて、少し笑った。

「気にすることないよ」アルは言った。

「何かくれないの?」シセはいたずらっぽく笑った。

「じゃあ、あれ寄ろっか」アルは一軒の菓子店を差した。


近くの河原に座って、二人でシュークリームを食べた。

シセはシュークリームの包みを開けると、その中に鼻を入れて、思い切り息を吸い込んで、「んー、いい香り」と、大きくため息を吐いた。アルは笑った。

「シュークリームって幸せよねえ。こんなにいっぱいのクリームがそっくり包まれて・・」

「誕生日、おめでとう」アルは、シュークリームを袋から取り出してシセに渡した。

「ありがと」フフとシセは微笑んだ。

「今度ね、」とシセが口からはみ出たクリームを指で拭い、言った。

「カホンに絵のモデルになってくれないか、って、言われてるんだけど・・」

アルはギクッとした。

「ど、どうするの?」声が裏返った。

「どうしよっかな・・」シセはシュークリームを食べ終えて、そのまま仰向けに寝そべった。

アルは黙って、シュークリームを食べていた。

「みんな、考え過ぎちゃったのかも知れないわね。・・こーんなに高い空の下」シセは呟いた。

「そうだね・・」アルもシュークリームを食べ終えて、言った。

「私が誕生日だってこと、誰にも言わないでね・・」

「分かってる」アルは肯いて、俯いた。

「ねえ、アル・・。私達、運命の二人みたいね」少し冗談めかしていたが、涙声だった。

アルはシセを見なかった。シセが鼻をすする音が聞こえた。

「どうしようかな・・」シセが涙声で呟いた。

「あのさ、覚えてる? 僕らが、初めて出会った時・・」

「うん。初めて会った気がしなかった。あなたもそうだった?」シセが身を起こした。

「うん。不思議だね。こうなるなんて・・」

「ごめんね」とシセは言った。

「あの時、置き去りにして・・。私、アルに言えなかった・・」シセの瞳から涙が一筋落ちた。

アルはシセの肩に手を置いて、揺り動かした。

「いいんだよ。そんなこと。シセ」

シセは泣いていた。声を出さないで。

「カホンの絵のモデルになるんだったら、灰色にしなよ。服は」アルは言った。

「何で?」シセは少し笑って、アルを見た。

「シセに灰色は似合わないよ」アルはシセに笑いかけた。

シセは笑った。

「似た者同士ね。私達。だって、こんなに気が合うんだもの」

アルは微笑んだ。

子供たちが川遊びをしている川面はキラキラと輝いていて、陽射しが少し眩しかった。

「もうすぐ春が終わっちゃう・・。春なんてあっという間ね」シセが言った。

「僕は寒いのが好きだ」アルは言った。

「深海魚みたい」シセは眉をハの字にして笑った。

「私、行かなくちゃ。仕事」シセは立ち上がると、パンパンとスカートを払った。

「今日はしてないのね。あの腕輪」シセがアルを見て言った。

アルは肯いた。

「アルには似合わないわ。あんな腕輪」シセは言った。

「そうかもね」アルは言った。

「じゃあ」

「じゃあ・・」

そのまま少し待って、お互いの顔を見て、また笑って、シセは歩いて行った。

アルはじっと川を見ていた。

アミに来て、一つの季節が過ぎようとしている。


MUSEUM

 アルはその足で美術館へ行った。

「ギーナ・レリ展」と大きな垂れ幕が入口にかかっている。

招待券を渡すと無料で入れた。

アルは絵を見て驚いた。どの絵にも血が通っているみたいだった。

飾ってあるレリのデッサンを、床に座って熱心に模写をしている子供たちもいた。

ノワを描いた絵があった。

ノワの忘れな草色の瞳が見透かすようにこちらを見ている。

カツ、カツ、と何か固い物が床に当たる音がした。

見ると、杖をついた老婦人だった。

流石、アミ。芸術の町だなあ。と、感心して見ていると、その老婦人の腕に見覚えのある物を見た。

タイムマシンの腕輪だった。

アルは息が止まった。

何で?

どうして?

アルの視線を感じてか、老婦人が振り返った。優しい顔をした老婦人だった。

腕輪を見て狼狽しているアルを、老婦人は不思議そうに見て、アルに近付いて来た。

「もしかして、あなたもなの?」小声でアルに聞いた。

アルは唾を飲み込んで、ぎこちなく肯いた。

「奇遇ねえ。こんな所で会うなんて」老婦人は手を叩いて喜んだ。

「どの時代から来たのかしら?」老婦人は聞いた。

アルは答えられなかった。

「私の時代ではもうタイムマシンは禁止されてるの。馬鹿ね。こんな素敵な物。それでね、・・」老婦人はアルの耳元に寄り、ヒソヒソ声で話した。

「私の夫が科学の虫で、秘密で来させてもらってるの」フフと老婦人は笑った。

「私、この時代のこの町が大好き。どれもこれもみんな、生きる幸せを感じている。そんな気持ち、私の時代では、もうみんな忘れちゃってるのよ」老婦人は絵を見上げて言った。

「どこかで、お茶でも、・・」と老婦人はアルに言いかけて口を噤んだ。

アルは首を振っていた。

「そう。私もね、夫に早く帰って来なさいって、言われてるの。残念だけど、また会えるといいわね。どこかで、いつか」老婦人は静かにアルの手を握った。

二人は、中庭に出て、老婦人が腕輪の操作をし始めた。

「それじゃあ、」老婦人はアルに微笑んだ。

「あの、・・あなたの旦那さんのお名前は・・」

「ティコノ。ティコノよ。あなたの力になれれば嬉しいのだけど・・」老婦人はそう言って、消えた。

アルは絵の間を俯いて、歩いた。美術館を抜け、港まで走った。

港に座って、汗を拭いた。

膝の間に顔を埋め、寄せては返す波の音を聞いていた。

()()きだ。アルは思った。

ティコノさんは今どこで何をしているんだろう?

だから、ティコノさんは使える貨幣を持っていたのか。

帰りたい、と弱い心が言った。

アルは泣き出した。

シセを残しては行けない。

もうすぐ泣き止むさ。僕はそんなに強くないから。

アルは涙の跡をゴシゴシこすった。

シセに会いたい。

僕のこんな気持ちを変えてほしかった。

シセだって悲しい思いをするだけだ。

日が暮れようとしている。

海鳥たちが海に帰って行く。

アルは桟橋の間を行ったり来たりした。

誰も知らない。本当のことは。

僕もシセも本当のところは。

足を止めても、時は流れていく。

子供のままでいいのか。

「飲むか?」振り向くと、煙草を咥えたレリがいた。アルに平たい水筒を差し出している。

強く酒の匂いがした。

アルは静かに首を振った。

「カホンの家で見た顔だな」とレリは言って、咳き込んで、酒を呷った。

「咳止めだ」レリは言って、また煙草を咥えた。

あのレリの恋人という女は見当たらなかった。

「お前、何か気になる目をしてるな」

アルは思わず目を逸らした。

潮風の香りがきつかった。

「帰らなくていいのか?」レリが聞いた。

「帰るところがないんです」アルは言った。

「そうか。俺と同じだな」白い煙を吐いて、レリが言った。

「俺と一緒に来るか?」

アルは肯いた。

「お前、名前は?」

「アルです」


SORROW

 レリに案内されたのは会員制の社交サロンだった。

中は静かだった。

そこにはノワとトモルもいた。

「よお、久しぶりだな。ノワ」レリはノワの隣に腰を下ろした。

アルは遠慮がちにトモルの隣に腰かけた。

「あら、あなたはこの前の」ノワがアルを見て言った。

アルはペコリと頭を下げた。

「この間の劇、見させてもらったが、まあまあだな」レリが言った。

「相変わらず、(から)いわね」ノワが左手に煙草を挟んで、言った。

「あんたがあの戯曲を書いたトモルさんかい?」レリが聞いた。

「はい」トモルは微笑んだ。

「あれじゃあ、未来には残らないな」レリが言った。

「また始まった」ノワが笑った。

「未来に残らないと意味がない。そうだろ? ノワの芝居が残らないのは、惜しいな」レリが煙草に火を点けた。

奥が一瞬騒がしくなった。

「バカラか・・」レリが呟いた。

レリが空のグラスを手に取って、水筒の中身を空けた。深い琥珀色をしていた。

「俺らが生きてる意味は、未来にあるんだからな」とレリがトモルに言った。

トモルは微笑んで、肩をすくめて見せた。

「ちょっと、人を呼んで来る」レリが席を立った。

「ああ、あのコね」ノワが聞こえないように言った。

「電話ならここにあるのに・・」出て行くレリを見てトモルが言った。

「元気ないぞ。キミー」ノワがアルを指差して笑った。

「アルです」

「あの彼女がいないからかな?」ノワがアルの顔を覗き見て聞いた。

「シ、・・セヌですか? いや、そんなんじゃ、・・」アルはテーブルに置かれたチョコレートを手に取って齧った。

トモルは煙草を一口吸うと、「人生は意味が分からない」と呟いた。

「あんたまで沈んじゃって、どうしたのよ?」ノワが聞いた。

「思ったことを言ったまでさ」トモルが微笑んだ。

「アルはどっから来たの? それとも地元の人?」ノワが聞いた。

「いいえ。・・引っ越して来ました」

「そう。私たちと同じね」ノワが微笑んだ。

「たち?」

「そ。私とトモルは同郷なの。幼馴染みだったのよ?」

「僕がノワを追いかけて来たってわけさ」トモルがはにかんで言った。

「私たち、根無し草だから」

ノワとトモルは故郷の話を始めた。

アルは泣きたくなった。

終わってなんか、いない、か。

波のように襲って来る悲しみに、負けないように黙っていた。

レリが帰って来てやっと安心した。目立たないから。

アルは鼻をすすった。

レリはあの女の人と、カホンとパティーも連れて来ていた。

「ついでだからな。こちら、カホンにパティーだ」レリはまたノワの隣に座った。その隣に恋人は座って、アルと目で軽く挨拶を交わした。

「はじめまして」パティーがノワの隣に椅子を引き寄せて、『水の肖像』の感想を熱心に語り始めた。

カホンは珍しそうにサロンの中を眺め回してから、アルの隣に座った。

「こんな所、初めてだよ」カホンがアルに言った。

「へえー、幼馴染みだったんですかあ!」

「私は家を飛び出したのよ」ノワが言った。

「あの時はやっぱりかって思った」トモルが言った。

「そうだ! セヌも呼びましょうよ!」パティーが立ち上がった。

「誰だ?」レリが聞いた。

「アルの幼馴染みなんです。そうしよう。そうしよう」カホンが言った。

「止めたほうがいいよ」ドアに走り寄ったパティーに、アルが言った。

「どうして?」もう取手に手を掛けていたパティーが聞いた。

一同がアルを見ていた。

「セヌはあなたのものじゃないのよ」ちょっと怒って、パティーがドアを開けて出て行った。

肩を落としたアルに、カホンが肯いてみせた。

アルも肯いてみせた。


しばらくして、パティーがシセを連れて来た。

ノワとトモルとレリとその恋人と握手をしていた。

「ノワとトモルは、セヌとアルと同じで、幼馴染みなんだって」パティーが言った。

「そ、そう」シセはアルを見た。

「君も、気になる目をしてるね」レリがシセを見て言った。

事情をよく呑み込めないシセは、笑顔だった。悲しい笑顔だった。

「そうだ。この八人に名前を付けないか? 丁度いい機会だし」レリが言った。

「かりそめ同盟、ってのはどうだ? え? ぴったりだろ」レリが指を鳴らした。

「会えるのも運命。別れるのも運命」ノワが言った。

「夕焼けみたいなもんですね」とトモルが言った。

「悲しみの下へ集え! ってな」レリが笑った。

「私、別に悲しくないけど・・」パティーが言った。


帰り道、アルとシセは皆と離れて、少し後ろに並んで歩いた。

月影に照らされたシセのシルエットが少し細く見えたので、「ちょっと、痩せた?」とアルは聞いてみた。

ううん、と小さくシセは頭を振った。

「二人だと静かね」シセは小さな声で言った。

「明日集まれる?」パティーが駆け寄って来た。

「いいわよ。仕事があるから少し遅れるけど」

「じゃあ、こないだの公園に。アルもね」パティーは上機嫌で戻って行った。

「何だかね」アルは言った。

「疲れた」シセがくぐもった声で言った。


GENIUS

 翌日、パティーに教えられた公園に行ってみると、シセを除いてかりそめ同盟が集まっていた。

「何しよっか?」と言ったパティーはもうブンブン、テニスのラケットを振り回している。

「芸術家に運動は必要ない」レリが言った。円い白いテーブルを囲んで、レリと、その恋人、トモル、ノワ、カホンが座っていた。

アルはその傍の芝生に腰を下ろした。

カホンとパティーがテニスを始めた。

「0のことをラブって言うのね」ノワが呟いた。ノワの声は特殊だ。

「ノワは才能って何だと思う?」レリがノワに聞いた。

「衝動よ」ノワは答えた。

シセがやって来た。顔色が優れない。

皆に手を軽く上げて挨拶してから、アルの隣に座った。

「暑くなってきたわね」気の抜けた声でシセが言った。

眩しそうにカホンとパティーがテニスの真似事をしているのを見ている。

「シセ、大丈夫かい?」アルはシセの顔を見て聞いた。

「目まいがするの」シセは頭に手をやった。

「そっとしといた方がいいよ。今日はもう良いから帰ったら?」

「ううん。いいの。ありがとう」シセは汗ばんでいた。風が当たって少し寒そうだ。

「ねえ、アル。今日、何月何日だっけ」答えを求めているのではなかった。

「うん・・」アルもシセから目線を逸らした。

「才能ってのも、楽じゃないよな」レリが言っていた。

「いつも(あが)いてるわね」ノワが煙草の煙を吐き、言った。

(つの)でも生えてりゃ気が楽なのに」と言って、レリは笑った。

「そしたら私は廃業だわ」ノワは笑った。

「そうか? 角の生えた大女優ノワってな。歴史に残るぜ」レリが笑った。

「水は沸騰しても、透明のまま」またテニスコートを見やり、ノワは言った。

「けどな、心の奥、大切なものが何か欠けているのさ。云わば、魂の孤独だな」レリが言った。

「何の話?」今までぼんやりしていたシセがアルに聞いた。

「分からない。多分、才能とか天才とかそんな話だよ」アルは答えた。

「人は皆、夢の旅人」ため息代わりにレリは言った。

「ねえ、アル・・。私達、下に光があったらいいのにね。そうしたら、落ちて行くだけで光に行き着けるのに」うわ言みたいにシセは言った。その手は無意識に芝生を撫でているようだった。

「うん。そうだね・・」アルは俯いた。

「あ、シセ、どこ行くんだい」立ち上がったシセはテニスコートでもなく、公園の入口でもない方にフラフラと歩き出した。

「家・・」振り返ったシセは、アルを見ていなかった。

「シ、・・セヌ?」アルは立ち上がった。

シセが明後日の方向に歩き出した。

「セヌ!?」アルが駆け寄ろうとした。トモルも、レリの恋人も席から立ち上がった。

シセが、倒れた。


取り乱したアルを、レリが「動かさない方がいい」といさめた。

「カホン! 医者へ行って来い! 早く!」カホンが走って行った。

シセは折れそうな程、細いうなじに汗をかいて、泣いてうなされていた。

顔面は蒼白で、凍えてるようだった。

アルは頭を抱えて振った。

カホンが担架を抱えた二人の人と走って来た。

シセは慎重に担架に乗せられた。

担架を追って、近くの病院に着いた。シセはすぐ診察室に運ばれ、そのドアはピシャリと閉められた。裸にするからだろう。

パティーはショックを受けて泣いていた。それをレリの恋人が気遣っていた。

皆は待合室の席を占領して、黙り込んだ。

アルだけは立って、忙しなく行ったり来たりしていた。

皆は各々煙草を取り出して、吸った。

煙草を吸っている人達が信じられなかった。

「落ち着け。アル。大丈、」

「うるさい!」アルはレリの言葉を遮った。

アルはずっと震えていた。

レリはそれきり何も言わなかった。

沈黙が行き場のない煙草の煙と同じように堆積していた。

「どうぞ」診察室のドアが開けられた。

皆と同じように出来なかったので、震える手を押さえてアルは最後に中に入った。

皆の背から見た向こうに、弱々しくシセが笑っていた。


DOWN

「セヌ! 大丈夫なの?」パティーがシセの手を握った。

短くシセは肯いた。

「ただの過労と睡眠不足」と医者が言った。

皆が安心して、肩の力を抜いた。

「何も知らないくせに!」アルは叫んだ。

皆がビックリしてアルを見た。

シセもビクッと肩を震わせた。

「何も、知らないくせに・・」アルは声を震わせた。

「アル、もういいの。大丈夫よ」シセが優しい声で言った。

アルは後ろを向いて、誰にも見られないよう顔を隠した。

パティーがそっとその背中に手を当てた。

「大丈夫。大丈夫よ」パティーは言った。

「パティー。いいの。ちょっとアルと二人にさせて。みんな」

皆がゾロゾロと出て行く。

「大丈夫か?」と一言、レリはアルに言って出て行った。アルは遅れて肯いた。

シセと二人きりになって、アルは黙って、ベッドの脇にある椅子に掛けた。

心が揺ら揺ら揺れる。

「ごめん」アルは呟くように言った。

シセは微笑んで首を振った。

「脱水を起こしてるから、念のため一晩入院させるって。アルが良かったら、ここにいてよ」

アルは肯いた。

ソファで寝る許しを取り付けてから、皆に言う言葉を探したが、上手く見付からなかった。

「アルは無口だから、よく分からないわ。考えてること」パティーがむすっとして言った。

カホンは腕組みをして、じっとアルを見ていた。

「何を言っても嘘にしかならんだろ」レリはそう言って、アルを庇ってくれた。

迫る夕暮れに、皆はシセに短い挨拶をしてから、帰って行った。

レリはあの酒の入った平たい水筒を置いて行った。


アルは固いソファに横になった。

シセが寝間着のまま、来た。

もう一つのソファに腰を下ろした。

「ねえ、話しましょうよ。色んなこと」

話は自然に、二人の故郷、科学者の島の話になった。

夜更けまで話した。

「ねえ、アルの家はどんなだった?」

「僕の家は、青い屋根で、・・目を瞑っても、歩ける程さ。・・いつも花が咲いてた。お母さんがガーデニングが大好きで・・、冬の内にチューリップの球根を植えとくんだ。春になったら花が咲くように・・」

「私の家はね、犬を一匹飼っててね、それから・・」シセは一言一言を選びながら話した。

「僕は一人っ子で、いつも誰かと会ってた。何だか一人になるのが、嫌で・・」

「私も一人っ子なの。寂しくさせないように、私が産まれた時に子犬をもらってきてくれたの。いつも遊んでくれたわ」

二人、ぐっと押し黙った。

「家に帰りたい?」アルは聞いた。

「帰りたくない」シセは答えた。

「全部、大切だった」シセが宙を見て言った。

「別々の宿題を持ってるみたいだね、僕達。答えは一つなのに」

「いつか答え合わせしようよ」シセはアルに言った。

うん、とアルは肯いて、「そろそろ休まないと、シセ?」とシセを見た。

シセは泣いていた。

「馬鹿ね。私って」シセは泣きながら笑った。

「そんなことないよ」

欠伸をしてみせて、「いびきかかないでね、アル」とシセは戻っていった。


シセがいなくなったソファを見て、レリの置いていった平たい水筒を揺らしてみた。

コロンコロンと慰めるような音が中から聞こえてきた。

シセを慰めることもできなかった。

アルは思い出していた。在りし日を。

一人になりたかったのだ。シセは。

僕はそれを・・。

そうだ! ティコノさん! ティコノさんならなんとかしてくれるかも知れない!

アルはこの考えに没頭した。

眠い、と思ったのを最後に、寝てしまった。


DAWN

 アルは夢を見た。

深い深い海の奥底へ。

闇が淀んで底にねそべっている。

果てしのない全てが無くなる闇の中に。

本当は何も無いんだろ? 本当は・・

針の先程の点のような光が星のように下に見える。

沈んでいく、光に。

果てしのない闇を沈んでいく。

光が開いていた。闇に揺れながらも、しっかりと開いている。

頭からゆっくりと光へ落ちていく。

足先が入ると光は闇に口を閉じる。

僕はゆっくりと回り足を下にして光の中にフワリと漂っている。

光に溶けていく。

何もかも光に解け合っていく。

光は解け終わった。

光は闇を食べて消化しながら、上に昇ってゆく。

果てしのない闇の層を、薄闇も全て食べ尽くして、光はますます強く大きくなる。

海から光は出る。

地上の全ての闇を消化して昇ってゆく。

朝が放たれたのだ。

太陽は真夜中の奥の下に、果て無い闇の果てに、沈んでいた。

アルはハッと目を覚ました。

まだ薄明かりだった。

アルは摺りガラスの窓を引いて開けてみた。

そこに、有明けの月。

アルは久しぶりの希望に胸を膨らませて、シセの起きてくるのを待った。

明け方にシセの部屋の明かりが点いて、シセが出て来た。

アルは、「シセ」と駆け寄った。

シセは寝惚け眼で、「もう起きてたの?」と言って、「トイレ」とトイレに入って行った。


「シセの言った通りだったよ!」トイレから出て来たシセにアルは言った。

シセはビックリして、「静かにしてよ」と部屋に招じ入れた。

シセはベッドに半身起こして、横になり、アルは昨日と同じ様に椅子に掛けた。

「何のこと?」

シセは自分が昨日言っていたことを全然覚えていなかった。

アルは昨日のことから夢のことまで全部話した。

シセは煙草を吸って聞いていた。

「刷り込みよ」シセは話を聞き終わって、そう言った。

「私が倒れる前にそんな事言ったから、あなたの意識に焼き付けられて、知らずに自分のいいように作り上げたのよ」

「そんな事ない。あれは、何か自分と離れた世界から、」

シセはイラついたように灰皿に煙草を押し付けた。

「・・シセは変わったよ」

「あなたに何が分かるのよ!」

アルは正面からシセの目を見た。

「僕は君を知っている気がする」

シセは大きなため息を吐いた。

「いつも通りが、一番いい」シセが言った。

「こんな何も無い日常が、どこがいつも通りだ!」アルは立ち上がって声を上げた。

「私は無理なんかしてない!」シセも声を張り上げた。はずみに脚に置いていた灰皿が落ちて、灰が散らばった。

「現に倒れたじゃないか!」

「何の騒ぎ?」パティーが目を丸くしてドアから顔を覗かせた。


AND

「もう死んじゃうかと思った」パティーがまた目を潤ませてシセと喋っている。アルはそれを面白くなさそうに聞いていた。

「カフェにはしばらく休ませて下さいって言っといたから。あのオーナー、とってもいい人ね」

「本当にありがとう。パティー」シセはパティーの手を握った。

アルの、あの満たされた気持ちはとっくに消えていた。

「私、カホンを呼んで来るわ。スペシャルなプレゼントがあるの」

「何かしら?」シセは微笑んで、パティーは出て行った。

アルは椅子を引き寄せて、またシセと向き直った。

「他にも考えがある」

「今度は何よ?」面倒臭そうにシセは言った。

「今度はちゃんと自分の頭で考えたことなんだ」

シセはチラとアルを見た。

「DNA操作だよ! まず、僕らからDNAを採取して、それを少しずつ書き換えたりして、気の遠くなる様な作業だけど・・、新しい人類を生み出すんだ! 厳密に言えば、それは人類の復活じゃないかも知れない。再興人類だ。でも上手くすれば記憶が・・」

「DNA操作は倫理的に禁止されたはずよ? それに、一体、どうやって私達が、」

「三人のDNAを組み合わせて、上手く変化のパターンを与えられれば、」

「三人?」

「僕とシセとティコノさんだよ!」

「ティコノさんならもういないわ」

「え?」

「さようならって言ったんでしょ!」

アルはハッと黙った。

気の遠くなるのを感じた。

そんな、まさか・・。

「ティコノさんは僕達を残して、いなくなったりしない! ティコノさんは、・・」

シセは首を振るばかりだった。

全て夢だったのか? 現実だけが現実で。

何も手に入れられない。

カホンがベーコンの塊を持ってやって来た。

「精つくよ」カホンが笑った。

居場所がなくなったアルは、部屋を出て行った。


アルは空を見上げた。空に落ちそうだ。

僕が何とかする。

アルは港にまた一人で座っていた。

過去、現在、未来。

何が昔なのか、何が今なのか。

僕は、一度落ちた崖を、登り直してるのかも知れない。

煙草の匂いがした。

後ろに、レリが立っていた。

「どうした、アル」レリがアルの隣に座った。

アルは黙って平たい水筒を返した。

レリも黙って、それをポケットに押し込んだ。

「何があった」レリは聞いた。

「何にも・・何にも・・」アルは呟いた。

「何か教えてください」アルは言った。

「自分から目を逸らすな」レリは言った。

「お前、いくつだ?」

「・・19です」

レリは何度か短く肯くようにして、「大人は本音を言わないもんだ」と言った。

それきり二人黙った。

「死は神様がいる証拠、ですよね」アルはレリに聞いた。

レリは少し首をひねり、「生はいつも死を孕んでいるものだからな」と言った。

「人生とは、人生の孤独だ」レリは言った。

「神、か・・」レリはため息を吐いて立ち上がり、アルの肩を叩いた。

「コーヒー、飲みに行くぞ」


BEGIN

 レリとアルは大きなレストランに入った。昼前なので空いていた。

海を臨むテーブル席に座った。

二人ともコーヒーだけを頼んだ。

「アルも何かしてみたらどうだ?」コーヒーが来るまでの間、レリが言った。

アルは気が進まなかった。

「小説はどうだ?」

「どうして?」

「アルとセヌは何か変わったことを考えてるだろう? 君とセヌの物語でもいいし・・」と言って、レリは咳払いをした。何かあったんだろうから、とは言わなかった。

「嫌です」アルはテーブルにあったマッチ箱を弄びながら断った。

「じゃあ、賭けをしよう」レリが身を乗り出して、アルからマッチ箱を取り上げた。

「このマッチの火が一回で点けば、アルの勝ち。そうでなければ俺の勝ち。どうだ?」

アルは少し笑った。

「僕が擦ります」レリの手からマッチ箱を受け取った。

中から一本抜き出し、慎重に擦った。シュッと音は立てたが、火は点かなかった。

「下手くそ」レリは笑って、そのマッチで煙草に火を点けた。

「才能、ありますかね?」

レリは一息、煙を吐き出して、「いいか、アル」とアルを見た。

「才能ってのはな、蜂が蜜を集めるのと同じように、知っているものなんだ。聞いてる内は、まだまだ青二才だな」レリは煙草を一本アルの方に放った。アルはそれにマッチで火を点けた。

「アル。人に出来ることは何だと思う?」

「・・さあ・・」アルは海を見た。

「人に出来ることは誰かを愛することだけだ」アルはレリを見た。レリはテーブルの端に置かれたろうそくに火を灯した。

「命は、燃えるろうそく。愛は、希望」レリはその火を見て言った。

アルは頬杖を突き、揺れるろうそくの火を見ていた。

レリは海に目をやり、「人間は人と愛だ」と言った。

「儚いものも尊いものも残るはず・・」レリは呟いた。

レリとアルは灰皿に手を伸ばし、灰を落とした。

コーヒーが来た。

二人ともしばらくそれには手を付けずにいた。

「芸術は、美しい力」レリが誰に言うともなしに言った。

「喋り過ぎたな、俺もお前も」レリは伸びをして笑った。

「希望を残せ」レリが頬杖を突き、海を見て、呟いたのが聞こえた。


「悲しい時こそ、書けばいい」帰り際、アルの肩を叩いて、レリは言った。

文具店で厚めのノートとペンを買った。

紙袋を持って、何にも考えないで歩いた。

橋の上で立ち止まった。

川風が吹いている。

欄干にもたれ、川を見ていた。

川に吹かれていたいから。


シセの病室へ行った。

シセはもう帰る支度をしていた。

「あら、アル。どこ行ってたの? 何よ、それ」シセはアルの下げた紙袋を見て言った。

「小説を書こうと思うんだよ。僕と君の」

「私達の?」

「僕にはそれしか書けないから・・」

シセはベッドを綺麗に直してから言った。

「美人って書いてよ」

「もちろんだよ」

シセは顔をほころばせた。


部屋に帰って、まだ白紙のページをパラパラめくってみた。

何故か優しい気持ちになっていた。

僕には才能なんて無いのに・・。


GOD

 アルはベッドに横になっていた。

夜に鳴く鳥。

(かみ)、か・・」呟いた。

眠れないで、アルは煙草を買いに行った。


どの店も閉まっていて、開いているのは酒場ばかりだった。

アルは街灯の明るい通りを避け、暗い川岸の道を歩いた。

川の中の石の上に白い(さぎ)が止まっていた。

アルはじっとそれを見つめていた。

鷺は首を高く上げて、川の流れの向こうを見つめていた。

「アル?」振り返ると、パティーだった。

「パティー、何してるの?」

「私? 私は友達と遊んでたの。ほら」とドレス姿の女達を指差した。

「鳥、見てたの?」フフと笑うパティー。

「ううん。煙草買いに来たんだ」

「私のあげる」とパティーは箱から一本取り出して、アルに渡した。

アルはそれに火を点けて、吸った。

「ねえ、パティー。・・もしも、・・もしもだよ? この世界中から人がいなくなったら、君は、どうする?」

「そうね、きっと、私だったら、」

パティーは、大人の顔をして、黙った。

「何も、意味なんてなくなるんでしょうね」と呟いた。

それから、アルを見て、「小さい頃ね、カーテンの中に隠れて、自分がいない時ってどうなってるんだろう? って見てたの。猫はいつもの様にクッションの上で寝てたし、家族も何も変わりなく動いてた。私がいなくても、世界は変わらないって思った」また川の方を向いた。

「色んな事があって、みんな同じ様に消えて・・、時って生きてるのよ。だから、私よく聞くんだ。私はどこにいますか? って」と言って、パティーは微笑んだ。

「答えを出すのは今じゃなくていい。私は、笑えればいい」聞いて、アルも少し笑った。柵に背をもたれさせ、「私にとって見れば、私のいない未来の方が大きいかもよ?」とパティーは言った。

「世界中の人がいなくなったら、か。考えたことも無かったな。神様は優しいな。世界中から人がいなくなったら、私がいるはずないじゃない。ねえ、アル。居眠りしてて、朝じゃないのに、「おはよう」って言っちゃったことあるでしょ? 世界中から人がいなくなるなんて、きっとそれは神様の勘違いよ。きっと」

鷺が飛び立って行った。

「鳥って夜も飛ぶのね」パティーが目を丸くした。

パティーに会えて少し気が晴れた。

「ありがとう」アルは手を上げて、立ち去ろうとした。

「あ、アル。セヌにも言ったんだけどね、今度、かりそめ同盟のみんなで、避暑も兼ねて、小旅行に行こうって話したんだけどね。いいでしょ?」

「うん」アルは微笑んで肯いた。

「アルっていつも暇そうねえ」パティーはそう言って心配そうに笑った。

「どうやって暮らしてるの? セヌなんて自分の電話まで持ってるし・・」パティーはまだ一人でブツブツ言っていた。

アルはポケットに手を入れて歩いた。ポケットの中で硬貨がチャリチャリと音を立てた。


人気のない通りを歩いていた。街灯が黄昏のように照らしている。遠く後ろの方からは酔っ払った声が、聞いたこともない恋の歌を合唱しているのが聞こえていた。

孤独は喉を塞ぐ。

心の雨は叩きつけるように降っている。

みんな窓から見た景色みたいだ。

そこから浮かび上がるように、灯りに照らされた公衆電話があった。

自然とアルはそこに近付いた。

受話器に手を伸ばし、下を向いた。

頭の中ではシセの部屋の電話番号が回っていた。

受話器を上げ、硬貨を入れ、しばらく迷った末に、ダイヤルした。

ジリリと、呼び出すベル音が、果てない闇の底に続いているようだった。

アルは目を閉じて待った。


CALL

「アル?」シセが電話を取った。

アルは眠りから覚めたみたいに、ハッと目を開けた。

「よく分かったね。こんな夜遅くにごめん」

「そんな気がしたの。どうしたの? ひどく疲れてるみたい」

「シセはもう大丈夫かい?」

「ええ。お陰さまで」

「シセは、・・神様を信じてる?」

シセはしばらく間を置いて、「・・ええ」と小さな声で言った。

「僕もだ・・」アルは空咳をした。

「間違えてるかも知れないけど、」とアルは前置きをして、続けた。

「僕は神様が完璧だとは思えないんだよ。本当に何もかも持っているんなら、孤独もあるはずだよね? 弱さや死、傷だってあるはずだよ。きっととっても寂しくて、疲れてると思う。僕の思う神様はね、少年で、誰もいない広い所で泣いてるんだ。かわいそうなんだ。きっと神様に必要なのは愛なんだ。もし何もかも有るんなら、愛だって有るはずだから・・。神様はね、きっと神様なんかじゃないんだよ。本当に救われたいのは、神様なんじゃないかな?」シセは黙って聞いてくれていた。

「ブランコを漕いだの。ここに初めて来た時。それが最初に泣いた日」シセが言った。

「気持ちってね、心に吹く風みたいなものよ」シセは言った。

「風、か。そうかも知れないね」

「私の気持ち分かる?」シセが聞いた。

アルは黙って首を振った。

「私には、今のあなたの気持ち、分かるわ」シセは言った。

「簡単なことなのに、進めない。そうでしょ?」

「僕が何とかするよ」

「そんな約束しないで」シセは優しく言った。

「私達、何も間違った事はしてないわ」

「・・ごめん。長電話だったね。・・お休み」

「待って。私、そこ行くわ。どこ?」

アルは場所を告げた。

受話器を下ろし、アルは泣いた。


公衆電話にもたれて、アルはそこに座っていた。

月は、遠いと言えば遠いし、近いと言えば近いな。

アルはボンヤリ、そんなことを思った。


シセが暗闇から駆けて来た。

古くからの知己と会っているみたいだった。

二人で喫茶店に入った。

客は二人だけしかいなかった。


HAND

 カウンター席に並んで座っていた。

コーヒー豆を挽く音がしていた。

「僕は泣き虫なんだ。大人になって、やっと気付いた」

「私だってそうよ。見えない海岸を歩いているみたい。ずっと」

「悲しい海岸だね」

「白夜よ。昼も夜もない。明日は来ない」

アルは黙って、煙草を吸っていた。シセからもらったものだった。

励まされたこともないアルは、励ますこともできなかった。

「ねえ、アル。愛の河があるなら、きっと手の平みたいな色してるんじゃない? ピンクと、水色、・・それに少し黄緑。きっと深い霧がかかってるわ。その両岸から歩き出すの。流されたり、深みにはまったりして、・・私達会えるかしら。どこかでいつか」シセは自分の手の平を見ていた。

「会えるよ。きっと」

「そうね。約束よ」

涙声でつぶれていた。

「どうして泣かせるのかしら。神様は」手の平で涙を拭ってシセは笑った。

「強くなんかならなくていいんだよ」アルは言った。

シセは煙草を吸い出した。

アルはコーヒーを飲んだ。

遠雷が聞こえた。

「やだ。雷」シセが言った。

「傘、持ってる?」シセは聞いた。

「持ってないよ」

「早く帰りましょうよ」

二人が出て行った後で、店主が綺麗にカップを拭き取った。


「アルの歩き方、変じゃない?」

アルが歩く度、カッポカッポと音がする。

「靴が、ちょっと大きいんだ・・」アルはかかとを出して見せた。

「自分の靴くらい買えなくてどうするのよ?」

アルは笑った。

「気に入ったんだよ」

「痛くならない?」

「馬鹿ばっかりだ」アルは笑った。

「人間みんな欠陥だらけよ」と言って、シセは自分のハンカチをアルの靴のかかとに詰めた。

「どう? 歩ける?」

アルは自分のハンカチももう片方に詰めて歩いた。

ちゃんと歩けた。

「直してもらわなきゃだめよ」シセは腕組みをして言った。

「旅行に行くんだから」と、アルの靴から自分のハンカチを取り上げた。

「そうだね」と、アルも自分のハンカチを取り上げた。

「湖畔に泊まるんだって。きっと楽しいわよ」

二人はまた肩を並べて歩き出した。

雨が降る前に。


アルは部屋に帰ってから、真っ白なノートに、思いついたままに書き込んでいった。

シセが買って来てくれた服がどれも少し大きかったこと、パティーがカホンのことを好きなこと、カホンの髪の毛と瞳がオレンジ色なこと、劇を観ていたく感動したこと、風邪をひいたこと、シセがタイムマシンに鍵をかけていたこと、シセがセヌと名前を変えていたこと、かりそめ同盟を作ったこと、レリが恋人の名前を誰にも言わないこと、シセが倒れたこと、僕が怒鳴ったこと、太陽の夢を見たこと、ティコノさんがもういないかも知れないということ、小説を書くことになったこと、靴がちょっと大きかったこと、初めて煙草を吸ったこと、皆で旅行に行くこと、シセのこと。

そして、次のページに人類が滅んだことを書き出すと、ペンを置いた。


午後まで寝て、靴を修理に持って行った。

後日、取りに行くことになった。

夏がもう近かった。


蝉が鳴き始めた初夏、アルはなるべくいつも誰かといるようにしていた。

パティーといることが多かった。

パティーはまだ売れない絵描きやアマチュアの絵のモデルになることで収入を得ていた。言わば、自由業だ。

だからアルと同様、プラプラしていることが多かった。

パティーは仕事上、この町の事情通だった。

「私は夢の踏み台なの。夢は寂しいわね。いつも片道切符でしょ? だから、私は夢を持たないの。自由なの」

「パティーには夢なかったの?」

「あったけど、・・もう、忘れた」パティーは笑った。

パティーの話だと、トモルはまたノワと組んで芝居をするそうだ。今はその戯曲を書いていて忙しいそうだ。

たまたま、かりそめ同盟が集まることもあった。

シセの働いているカフェテラスが皆の溜まり場になっていたのだ。

シセの夏休みに合わせて旅行に行くことになった。

「自由っていいわねえー」とパティーが伸びをして言った。

「自由なんて孤独なだけよ。行くあてもない」ノワが無下に言った。

アルは自分の手の平を見ていた。


TRIP

 シセの夏休み、かりそめ同盟は列車に乗っていた。

入道雲が嘘のように伸びていた。

パティーとシセは大きく開け放った窓から身を乗り出して風を受けていた。

ノワは脚を組んで、トモルの書いている戯曲に口を出していた。

カホンはスケッチを描いては首をひねり、シセを見ていた。

レリの恋人が向日葵畑を指差し、レリはそれを描いていた。

アルは窓に頭をもたれ日を浴びながら、後ろからパティーやシセのそよぐ髪をただ眺めていた。

だんだん涼しくなってくると、木立の間から大きな湖が見えてきた。

列車はそこで停まった。

小さな無人の駅に降り立つと草いきれがした。

それぞれ荷物を下げて、蝉の声だけが聞こえる静かな坂道を上った。ノワは純白の日傘を差していた。

上からは、青空が落ちたような湖が見渡せた。湖面には水彩画みたいな風景が映っていた。せり出した桟橋にはボートが何隻か舫いてあった。

「別天地ねえー」高みに上って、ノワが言った。

「やっぱり、来てよかったわねー」パティーが伸びをして言った。

「『水の肖像』だっけ。未来には残らんかも知れないけど、俺は好きだよ。ああいう作品」レリがトモルに言っていた。

ロッジに荷物を置いた。

ロッジはモダンな作りで、中は吹き抜けになっていて、明かり取りの窓からは幾つも鮮やかに光が差し込んでいた。

広いバルコニーからは湖や山並みが一望できた。そよ風が吹いていた。


もう日暮れになっていたけど、皆でボートに乗ろうということになった。

二人乗りの古い木製のボートで、シセとアル、カホンとパティーで乗り合わせることになった。レリの恋人は、「怖い」と言って、ボートに乗ろうとしなかった。

ノワとトモルは戯曲に夢中で、もう岸に座って話し合っていた。

アルがオールを漕いだ。

パティーがふざけてカホンに水をかけていた。

シセは何も言わないで、沈む夕日を見ていた。

ゆっくりと光が消えてゆく。

湖の中心まで来ると、アルはオールを離した。二人はただ鳥の声と静寂に聞き入っていた。

シセはアルを見ると、「私、帰ってもいいわよ」と言った。

「え?」

シセはまた向こうを向いて、「でも、アルが考えて。帰って、何をするのか・・」と言った。

「約束は守る」アルはそう言って、またオールを握った。

向こうを向いたままで、「ただ、帰るのは嫌なの」とシセが言った。


帰り道、ソフトクリームが売られていた。

皆はそれを買って、舐めながら帰った。

レリが美味しそうにソフトクリームを食べているのが何だか可笑しかった。

トモルは歩きにくそうにしていた。ノワが手を引いて、道を教えていた。

「トモル、お前のその目、大分悪いのか?」レリが聞いた。

「ええ」とトモルは答えた。

ノワが少し目を伏せた。

「目に見えるものは全て美しいです」トモルは笑っていた。

「女は美しいよ」レリはニカッとトモルに笑ってみせた。

それにしても、この時代の人は歩くのが遅いな、とアルは思っていた。

未来はもう、そんな遠くないのに。

未来だったら、トモルの目も治っていただろうな、とも思った。


PLAY

 皆で夕食を囲んだ。

「乾杯」皆でグラスをぶつけ合った。氷が軽い音を立てた。

レリの恋人がパイを焼いた。

「ところでトモル、次の戯曲はどんな話だ?」パイを頬張りながらレリが聞いた。

「まだ秘密です。・・女が男を追う話ですよ」

「男が女を追う話の方が良いと思うけど」アルは思わず口にした。

トモルが何か閃いたようにアルを見て、「どうして?」と聞いた。

「女の人は切り替えが早いから・・」アルをシセが睨んでいた。

「お前の方が才能有るかも知れんぞ」レリがアルの肩を叩いた。

「運の尽きだな。お前も」レリがトモルを見て大笑いした。


目を瞑って横になると自分が時計の秒針になった気持ちで嫌だった。

アルは、机に向かって、ノートを広げた。

アルは、人類が滅んだところをじっと見てから、自分とシセが会ったこと、シセがいなくなったこと、そして、自分がシセを追いかけて、シセを見つけたところまで書き上げた。

いつの間にか空が白み始めていた。

アルは自分の部屋を出て、ダイニングに入った。

そこにはノワがいた。何かを読んでいる。

「あら、あなたも徹夜?」

「ええ。ノワさんも?」

「徹夜はトモル。今寝てるわ。これ、書いてたんだって」とノワが読んでいた紙を見せた。

「今度の劇の粗筋。読む?」

アルはそれを受け取り、思わず題名を呟いた。

「『アンフェーユ』・・」あの時代でもとても有名な劇だ。アルはまだ見たことがなかったが、名前ぐらいは知っていた。

紙にはこう書いてあった。

「『アンフェーユ』アンフェーユ(ノワ)中世、神の生け贄に選ばれる。少し妊娠中。腹がぽっこりふくれている程度。ペトラーゼ(強睡眠薬)と少量のアモレト(死薬)を水に溶かして平たい器に入れて飲む。流産。

恋人に悲しまないためと、偽り、ペトラーゼを飲ませる。眠った恋人を生け贄の箱に入れる。自分は逃げる。強い突風で、生け贄にされる直前、箱は谷川に落ちる。箱は壊れ、なぜか遺体は上がらない。

アンフェーユは一人荒野を進む。神に許しを乞うため、あるいは、・・神のいない所を目指して。

夜の道中、ついに倒れる。青くなってゆく地平線。朝日を背にして起き上がっているアンフェーユ。

終わりに、男がどこへ向かったのか、誰も知らず、幕が閉じる。」

「どう?」読み終えると、ノワが身を乗り出した。

「成功しそうですね」アルは作り笑いをして答えた。

「アルの言った通りよ! 男が女を追う方がずっといいわ!」ノワが喜びのあまりか踊り出した。スリッパのままで。

ノワはスロウダンスした。

そのまま、とても自然に、口笛を吹いて、コーヒーを淹れ始めた。

アルは椅子に腰かけた。

「僕も、小説を書いてるんです」とアルは言った。

ノワは大きな目を大きく開いて、「ふーん」と肯いた。

「何を書けばいいのか、分からなくって・・」

ノワはコーヒーを淹れながら、「胸の道をひたすら歩き続けるのよ」と言って、アルの方を向き直って、「自分に素直になりたいならね」と優しく微笑みかけた。

ノワはアルの分のカップも用意して、コーヒーを注いで、自分のにもアルのにも角砂糖をポトンと入れた。

「ノワさんって、何でも出来て、何でも知ってるみたい」アルはカップを受け取って、ノワを見た。

ノワは微笑んだまま、宙を見上げ、「役者のコツはね、」といたずらっぽく笑って、「目立たなくてもいい、ってことよ」とアルにウインクした。


SUMMER

 アルは草原を分けた小径を散歩していた。夏の匂いがした。

草原には夏の光をいっぱいに浴びた色とりどりの花が咲いていた。

そこに突然、レリの恋人が向こうに現れた。しゃがんでいたのだ。

笑ってアルを見ている。

アルもつられて笑って、そっちに近付いていった。

陰りのない世界で。

レリの恋人はノースリーブの白いワンピースを着て、花カゴを持っていた。

「靴ずれができちゃって・・」アルが傍に寄ると、レリの恋人はまたしゃがんだ。素足にズック靴を履いていた。少し血が滲んでいる。

「歩ける?」アルは聞いた。

レリの恋人は微笑んで肯いた。

レリの恋人はすっすっと花を手折って、花カゴに入れていった。

アルも同じ様にしゃがんでみた。花の香りが立ち込めていた。

「人生って、ただの空き箱。そこに宝物を仕舞っておくための」レリの恋人は言った。

「あなた、19なんでしょ?」レリの恋人が、アルに顔を向けて聞いた。

「うん」

「私も19よ」屈託のない笑い顔だった。

レリの恋人は立ち上がった。髪と草原が同じ方向へそよいでいた。

アルも立ち上がった。

太陽が振り向いたように、急に眩しくなった。

「夏って空元気みたい」レリの恋人は言った。

「人間にとって平等なのは、未来は誰のものでもないということだと思うの」

アルは俯いた。

二人、同じ空を見ていた。

夏空が流れていく。

鉛筆を転がしたように、急に辺りが薄暗くなった。

「夕立だ」アルは空を見上げて言った。

すぐにボツボツと大粒の雨が降り出した。

「夏は移り気ね」レリの恋人はそう笑って、靴を脱いで花カゴに入れ、走って帰って行った。

アルは雨に打たれて、揺れる花を見ていた。

すぐに雨は止んだ。

アルはビショ濡れになっていた。

帰ってもいい、というシセの言葉に、アルは戸惑っていた。

僕らに何ができるんだろう?

できもしない約束をした。

夏に、蝉が鳴く。あの、シェルターから出た、あの時のことを思い出していた。例えようの無いあの(なつ)・・。

「夏は長いな・・」アルは呟いた。

レリの恋人が走って行った道を、アルは歩いて辿った。

夏に終わりがあるように、僕らはもう帰り道にいるのかも知れない。


DRAW

 アルとシセは隣部屋だった。

朝、アルがコーヒーを片手に、シセの部屋の前を通りかかるとドアが開いて、「おはよう」とシセが顔を出した。

「おはよう」

「昨日の月ね、ハチミツ色してたわよ」シセは髪をピンで束ねながら話した。

「見なかったの? ねえ、私にもコーヒー持って来てよ」と言われたので、アルはコーヒーを淹れに行った。

コーヒーを持って来ると、シセは赤いチュニックに着替えていた。

「ありがとう」シセはカップを受け取ると、立ったままでコーヒーを飲んだ。

「今日はどっか行く?」

アルは肯いた。

シセは煙草を一服吸うと、鏡台に向かって笑顔を作った。

「出かけましょ」アルに向かって、笑ったのは、シセの本当の笑顔だった。


「靴、直したんだ」アルの履いている靴を見て、シセが言った。

「ん。今度はキツくなった」ハハハ、とアルは笑った。

「あんたの性格、分かんないわ」シセは笑った。

二人とも草地に寝っ転がった。

「ねえ、『アンフェーユ』って知ってる?」アルは聞いた。

「ええ」当たり前じゃないという風にシセは言った。

「あれ、男が女を追う話?」

「そうよ? 知らないの?」

アルは何も言わず、肯いた。

「僕、世界が、ああなったらいいとか、こうなったらいいとか、言われてて、そんな時代から、この時代に来て、よく分からないんだ。シセはどう?」

「忘れ物した気分よ」シセは言った。

「アルの夢、何だった?」シセは爪を見ていた。

「魔法使い」

シセは声を上げて、腹を押さえて、笑い転げた。

「本気だよ」

「ドラゴンでも探しに行く?」シセはまだ笑っていた。

アルも笑った。

「森に行ってみよっか」

シセの夢は聞けずじまいだった。

緩やかな勾配を上って行くと、だんだん深緑が密になってきた。

ここは森の中だ。

「お伽話じゃないのよ。この世界は」シセがまだ言っている。

森は寒いくらいだった。

風が吹いて、梢から鳥が飛び立って行った。

レリがいた。

そこだけスポットライトの様に日が差して、イーゼルに向かって、こちらに背を向けていた。

アルが声を掛けようとすると、シセが唇に指を立てた。

「驚かそう」シセはアルの袖を引っ張った。

二人は笑いそうになるのを堪えながら、ソッと盗み足で近付いた。

レリの顔が見える角度まで回り込んだ時、アルとシセはハッと息を呑んだ。

レリは泣いていた。

その目は神を見ているように、その顔は人間の感情の全てをさらけ出していた。

アルとシセは、森を出た。

ただ一人の絵描きだけがそこにいた。


帰ってから、シセもアルも煙草を吸っていた。

二人とも、俯いたままで、何も言わなかった。


FEEL

「ねえ、セヌとアルって仲いいじゃない?」バルコニーで煙草を吸っていたシセの隣にパティーが腰かけて聞いた。

シセは曖昧に肯いた。

「好きなの?」

シセは微笑んで首を振った。

「他人のような気がしないの」

「それって特別な気持ち?」

「さあ・・?」

「それって、愛じゃないかしら?」

シセはしばらく黙った。

「愛は、感じるものじゃないかしら」シセは言った。

パティーが肯こうとした時、カホンが真剣な顔をして、バルコニーに出てきた。

パティーは唇を尖らせて席を立って、出て行った。

カホンはシセの隣に腰かけた。

「絵のモデルの話?」シセが聞いた。

カホンは肯いて、「君しかいないんだ」と言った。

「パティーじゃ駄目なの?」シセは困った顔をした。

「君しか考えられない」

「そう・・」シセは俯いた。

「僕は、芸術っていうのは、絵っていうのは心の血と・・涙で描くものだと思っていた。けど、セヌとなら、・・・・光の絵が描ける。血の通った優しい愛の絵が描ける」カホンが言った。

シセはためらいがちに、肯いた。


日の当たるベンチに座っていたトモルの横に、アルは腰かけた。

トモルは微笑んでいた。

「ねえ、アル君。こうは思わないか? 人は皆、一木人(いちきびと)。どこにも依って立つことのないような木でも、土に埋まっているだろう。誰かといるんだ」

アルは木漏れ日を揺らす一本の木を見上げた。向こうで湖がキラキラ輝いていた。

「君やセヌはとても悲しそうな目をしてるね」トモルはそう言って眩しそうに目を細めてみせた。

「運命を素直に受け入れることだよ。人は川だ。それが運命だ」

「生きるのってなかなか難しいですね」

「自分が分からないのが自分じゃないか」トモルはアルの肩を叩いた。

「弱い人のために何かをしたい。それが希望というんじゃないか」そう言って、トモルは手の平を広げて見ていた。

「こんな雨に濡れた僕の手でも希望が書ける」と呟いた。

「なんて、偉そうなこと言ってもね、時々、思うんだ。僕のしていることは、みんな、茶番だ、ってね」

「茶番?」

「そう。僕は現実から逃げてるのかもね。頭の大半が戯曲で、それで生きていると言えるかい? 本当は、現実をまるで知らないただのガキさ。皮肉だよ、こんな病気になっちゃって・・。僕は何を恐れてるんだろう?」トモルはすっかり肩を落としてしまった。

「そんなことない。トモルさんはちゃんと現実に生きてます。ノワさんを追っかけてきたんでしょう? ノワさんが光なんでしょう?」

トモルは肯いた。

「それだけが僕だよ」


RUN

 アミに戻る日が来た。

また皆は列車に乗って、風に吹かれていた。


「じゃね」とパティーが手を振って別れ、ノワとトモルは同じ方向に帰って行った。

カホンは、「きっとだよ」とシセの手を握り、別れた。

レリとレリの恋人はいつの間にかいなくなっていた。

アルとシセは、何となく微笑み合って、どちらからともなく、別れた。


アルは青い自転車を買った。

それをシセに見せに行った。

カフェにも、アパートにも行ったが、シセはいなかった。

うだるような暑さにアルはやられてしまった。

カホンのアトリエに行ってみると、シセはそこにいた。

シセはチークを付けて口紅も引いて、灰色の羽根帽子に灰色のドレスを着て、ドアの前に立っていた。

アルは「あ、」と言って、立ち尽くした。あの絵だ、と思った。

シセはアルに微笑みかけた。

カホンが描いていた。


「自転車! いいわねえ」外に出て来たシセがサドルに手をやって、言った。

「海まで行こうよ」

「カホンが、もう今日はいいよ、って言ってからね。カホンったら、恥ずかしがってるのかしら? 見せて、って言っても、見せてくれないのよ」

「僕の絵も描いてもらいたいな」

ウフフ、とシセは笑って、カホンのアトリエへ戻って行った。

アルは何となく、自転車でアミの町中を走ってみた。胸は騒いでいた。

西日の差す石段に座って、一人、物思いに耽っているパティーを見つけた。

「どうしたの?」

アルは自転車を停めて、話しかけた。

「ううん。何でもないの。構わないで」

アルはパティーの気持ちを何となく察して、自転車を走らせた。


「パンツ見えそう」

「誰もいないよ」

日暮れ、広い河川敷を、灰色のドレスを着たままのシセを後ろに乗せて、走っていた。

もう蜻蛉(とんぼ)が飛んでいる。

逃げるように走っていた。

時計の針を進めるように、ペダルを漕ぐ。

君をつかまえたい。

運命の風になって。

アルは瞳を曇らせていた。

「海はまだか」アルは言った。

「もうすぐよ」アルの肩をギュッと握って、シセが言った。

「小説は進んでる?」

「うん!」アルは一気にスピードを速めた。

夏の終わりに、パステル画のような風景が広がっていた。


「海って近いでしょ?」シセが言った。

片足を付いて、自転車を停めて、海を見下ろした。

シセは一足早く、自転車から降りて、砂浜に駆けて行った。

アルも自転車から降りて、砂浜に下りた。後ろで、自転車の倒れる音がした。

「海岸って、いつも、世界の終わりみたい・・」シセが隣で呟いた。

止むことのない風。波音、水平線の向こうまで続いている空。終わりのない流れ。

流木に座り、二人で砂浜に、深い足跡を作った。

終わってから、初めて気付くものもある。

それが始まりなのかも知れない。

「君がいなかったら、一歩も踏み出せなかった」アルは言った。

海風はもう冷たい。

「鳥って羽が二つあって、一羽と言うの」シセは灰色の空を見て、言った。

いつの間にか海も灰色になって。

シセが突然抱きついてきた。

海に抱かれたように、感じた。

アルはそっと抱き寄せてみた。

終わりの見えない二人に相応しい姿だろうか。

アルはシセを抱き締めた。

まるで羽毛のように柔らかだった。

「茶化さないでよ」シセがアルの胸の中で言った。

アルは目を閉じて肯いた。頬にシセの髪を確かめながら。

シセが震えて泣いた。

初めて聴く歌みたい。

初めて歌う唄みたい。

消えない歌。

この灰色の世界から、零れる。二人で。

さよならの向こう岸へ、流される。

抱懐(ほうかい)

アルはシセを抱いたまま、泣き終わるのを待った。


帰りは、自転車の全速力で走った。

アルの体に掴まる、シセの髪がなびいていた。

シセはずっと黙っていた。


STRONG

 この世で一番つよいものは、真暗闇を一羽で飛んでいくフクロウだろう。

銀色の光を全身に受け止めて。

いつしか自分が、夜を導く月になった気分になるんじゃないか。

どこまでも飛んで行け、フクロウよ。

その羽に限り無い日の光を映すまで。

もう二度と還って来るな。

君に止まり木は無い。

そうすれば太陽そっくりになるだろう。

飛翔する自由な太陽になるだろう。

カホンはアトリエで小さなランプだけを点けて、羽を広げた荒々しいフクロウの絵に、指で絵具を塗りたくっていた。

フクロウの目を大きく黒で塗り潰した。

描き終わり、その絵の前で一服した。

「こんな辛い絵は、もう沢山だ」

セヌの絵はもう完成していた。

カホンはそれを見て、上の時計を見上げた。

もう明日か。

閉め切っていた窓を開け放った。風が一気にカーテンを膨らませた。

カホンは窓から身を乗り出し、月を仰いだ。

太陽みたいに月が照らす町だ。

カホンはベーコンエッグを作って、食べた。

立て続けに煙草を何本か吸い、窓を閉めて、ベッドに横になった。

カーテンを引くと、窓越しに月光が差し込んだ。

油絵具の匂いが充満する部屋。

カホンは大きく息を吸うと、「いい、・・いい匂いだ・・」とゆっくりため息を吐き出した。そのまま寝た。

桃色の暁で目が覚めた。

立ち上がって、セヌの絵に暗いヴェールをかけた。

昨夜、描き上げたフクロウの絵をイーゼルごと持ち上げて、壁に立てかけた。

「君は天使だ」と呟いた。


アルは枕に足を乗せて考えていた。

寂しいのか、悲しいのか。

多分、悲しいんだろう。

何よりもシセが泣いたのが。

僕が守れるなら。

淋しさを分かち合って、何かが足りないことに気付いた。

ベッドに横になったままで、窓を開けた。

月と、天の川が見える。

ずっと昔の光。

思い出のように瞬く。

宇宙は何を考えているんだろう?

アルは目玉焼きを二つ作った。

黄身を割らないように。

ドアの隙間に落ちた薄明。

アルはノートを広げた。


SUIT

 朝、開いたばかりのカフェテラスに、レリが咥え煙草で片手に持った新聞紙をシセに軽く上げて、出したばかりの椅子に腰かけて、注文もしないで、新聞を読み始めた。

シセはまだテーブルを拭いていた。

客の気配を察して、「いらっしゃいませ」と振り向くと、いきなり手を掴まれた。

カホンだった。

「来てほしいんだ」

「仕事中よ? 何言ってるの?」シセが手を振り解こうとしても、カホンは手を離さなかった。

「君の絵を見に来てほしいんだ」

そんな二人の様子をレリが不思議そうに見ていた。

そう言っている内にもズルズルとシセはカホンに引っ張られていた。

「痛い! 離してよ」

カホンはずっと無言だった。

シセが諦めて、「行くから」と言って、やっと手を離した。

「あの、・・ちょっと、レリ、・・」

「何か言おうか?」レリは立ち上がった。

シセは俯いた。

「いえ・・、いいの。・・でも、・・オーナーに今日は休みますって・・」

「おお・・」レリも訳が分からず二人を見ていた。

カホンがまた手を掴んで、シセは俯いたままで連れられて行った。


アルはカホンのアトリエに来ていた。朝食でも一緒に、と思ったのだ。カホンはいなかった。

アルはフクロウの絵を見ていた。

大きな絵だな、と思っていたら、表から何かモメているようなシセの声が聞こえた。

「ちょっと待って、カホン。私、アルなしじゃ、・・・・」

アルはフクロウの絵のカンヴァスの陰に隠れた。自分でも、何をやってるんだろう、と思いながら。

ドアが開いた。

「一体、何なのよ」シセは怒っていた。

カンヴァスの陰でアルは兎みたいに縮こまっていた。

僕は何をしてるんだろう。

「すごい作品群ね」

「どれも血まみれの作品だよ」カホンの声が聞こえた。

シセとカホンの姿は見えない。

「とにかく、君の絵を見てほしいんだ」カホンの声がして、二人が歩く音がして、アルの隠れているフクロウの絵の隣で立ち止まった。あの、暗いヴェールがかけられていた絵の前だ。

ヴェールを取る音がして、アルの足元にそのヴェールが落ちた。

束の間の静寂。

「結婚してほしい」カホンの声。

シセは黙っていた。

「君が必要なんだ」またカホンの声がした。

「明後日、会いたい」シセが言った。

「駄目だ!」アルは立ち上がった。隠れていたフクロウのカンヴァスが倒れた。

シセはハッと口を押さえて、逃げるように開いたままだったドアから飛び出していった。


通り雨の中、一軒の家から一人の若い女が、顔を手で覆って走り去って行った。


「ごめん。カホン」アルは言った。

カホンは何も言わなかった。

アルはカホンの家を出て行った。


アルはシセを探し、アパートに行ったが、帰っていない様子だった。

アルはアミ中を歩いたが、シセはいなかった。仕方なく自分の部屋に帰った。

また雨が降ってきた。

夜になって、またシセのアパートを訪ねてみた。シセはまだいなかった。

二本の傘を持って、俯いてシセを探したが、見つからなかった。

自分の部屋に帰った。何だか、自分の部屋じゃない気がした。


月は光を預けて。

ガラスの夜。

アルは窓を開けた。舗道や窓に降り残った雨は粉々に砕け散ったガラスを撒いたようだった。


MISSING

 翌朝、アルの部屋のドアが乱暴に叩かれた。

パティーだった。

「セヌの部屋にこれが・・」パティーは一枚の紙きれを渡した。

「私を探さないで」とだけ書かれてあった。

「私、知ってるんだわ・・! 何もかも・・! カホンがセヌを好きなことも、カホンが昨日、求婚したことも・・・・。それなのに、私・・」パティーはしゃがんで、泣き出した。

アルはパティーの肩を抱いて立たせて、泣きじゃくるパティーを支えたままカホンのアトリエへ行った。

そこには、カホン、レリもいた。

カホンとアルはしばらく目を合わせていた。

「一体、どういうことだ?」レリが言った。

「この絵の前で、セヌに結婚してほしいと言いました」カホンは絵にまたかけていた暗いヴェールを取った。

シセの絵。

そこにいた誰もが、目を見張った。

こんな美しい絵は見た事なかった。

「そしたら、セヌ、明後日、会いたい、って」カホンが俯いた。

レリはため息を吐いて椅子に座った。パティーはずっと下を向いて黙り込んでいた。

カホンはまたヴェールを絵にかけた。

「捜そうよ」アルは言った。


アルはバスの待ち合い所に来ていた。

シセは明後日会いたいと言った。それなら明日には必ず帰って来る。

バスだろうか? アミにはいなかったし。

バスの待ち合い所には、あの、シセが持っていた変な生き物のぬいぐるみが置いてあった。

アルはそれを膝に乗せてバスを待った。

バスが来て、乗り込んだ。

終点まで行ったろう。シセは。そんな気がした。

変な生き物のぬいぐるみを撫でている内、いつしか抱き締めていた。

乗客が一人二人減り、バスは暗い林道を走っていた。

破れた心にはいつも風が吹く。

まるで川にいるように。

アルは終点で降りた。街は音が溢れていた。

アルは歩き出した。

誰に聞こうともせず、探し始めた。


夕焼けが妙に切ないのは、きっと自由になるからだろう。

シセは広い公園を見下ろす、公衆電話の傍に座っていた。

アルが声をかけた。

シセは振り向いて、立ち上がった。

傷付いた瞳でアルを見た。

「最低のアル」とシセは少し笑った。

長い髪が少し短くなっていた。

「毛先をちょっとね・・」シセはクルリと髪を巻いてみせた。

「私、逃げてきちゃった」とシセは言って、俯いた。

「また、逃げちゃった」アルの胸に額を当てた。

「それでいい。それでいいんだよ」アルはシセの肩に手をやって言った。

二人で日暮れの公園を見下ろした。子供たちが帰って行く。

「シセ、二人で、ブランコに乗ろうか」

二人でブランコに乗った。漕いで、止まって、漕いで、止まって。

アルは俯いて、シセは茜色の空を見上げていた。

「今の気持ちね、命みたいに透き通ってる」シセが言った。

アルは俯いたまま微笑んだ。


アミへは列車で帰った。

シセは暗い窓をずっと見ていた。

二人が無言で駅を出ると、いきなり萎れた花がシセの顔に投げつけられた。

パティーだった。

パティーは泣き腫らした、兎のように赤い目をしていた。

「私には、私には、・・・・何にも何にも、無いのに、・・・・あんたはカホンまで!」

アルはシセの手を引いた。

シセはその手を解いて、パティーに近寄った。

「違うの。違うの、これは、・・」

パティーは走り去った。

深い闇の中で、街灯に照らされた所だけ見える道を、パティーは、現れては消え、現れては消え、段々遠くなっていった。

「ああ・・」シセはしゃがみ込み、両手で顔を覆って嘆息を漏らした。

濃い闇、遠い闇の向こうに走っているパティーがいると思うと、やりきれなかった。

パティーが立っていた足元には、煙草の吸い殻が何本も散らかっていた。


カホンのアトリエへ行った。

アルは外で待っていた。シセだけが中に入った。

カホンは椅子に座っていた。

カホンはシセを見て、また目を伏せた。

「美しいものは芸術だけじゃないのよ」シセはカホンに言った。

カホンは肯いて、「絵にも結末があるんだ。君の絵を描いて初めて知った」とシセの顔を見て言った。

シセは肯いて、背中を向けた。

立ち去るシセに、カホンは、「まだ、僕の絵が好きかい?」と聞いた。

シセは振り向いて大きく肯いて、「ええ。好きよ」と言った。


カホンは一人、港に立っていた。

煙草を吸っていた。

深く吸うと、呼吸を止めた。

一隻の舟が小さく、この町を離れていく。

芸術を諦めた者がまた一人去って行くのだろうか。

今まではありふれていたことが、カホンの胸に届いた。

「営み、か・・」カホンは白い煙を吐いて呟いた。

何もかも、美しい。

何もかも、美しいんだ。

カホンは、初めて、悔し涙を零した。


その日、夏は終わった。


AUTUMN

 ふと、秋が来た。アルの誕生日が近くなった。

秋は冬の気配。何だか気忙しい。

アルはシセの働くカフェに行った。リネンのシャツを上に羽織っていた。

そこには、ノワとトモルもいた。

「もう、すっかり秋ですね」アルは同じテーブル席に着いた。

トモルとノワは何か読んでいる。

『アンフェーユ』だった。

「もう骨格は出来上がってるんだよ。もう、自分次第」トモルが紙の束から顔を上げて言った。

「私も言いたいこと言うわよ」ノワが口を挟んだ。

ノワが席を立った時に、「これは、ノワと僕を映した鏡なのかも知れないな・・」とトモルは呟いた。

アルの小説は全然進んでいなかった。

「遠い目をしてるのね?」後ろからノワに言われた。気付かない内に、窓の外を見ていた。

アルは慌てて微笑んでみせた。

シセはいつも通りに働いていた。

秋の港はいつもより寂しそうに見えた。


カホンやパティーにはあれから会っていない。

時間とすれ違っていく。

誰も通らない道を歩く。

もうこんなにこの町に詳しくなってしまった。

歩いていくにつれ寂しくなるけど、それでいいんだと思った。

人と会うと、泣きたくなるから。

俯いている君は誰?

振り向くと、作業着姿の男がしっくいを塗っている。

秋晴れの太陽に眉間を寄せている。

日向はまだ暑いけど、日蔭はもう寒い。

だけどアルは大またで歩く。

シセを心配して。

カホンやパティーはまだ気付いていないだけ。

川に石を放った。

人々が帰っていく道を、僕は遡っている。

乾いた道が、足音を立てる。

帰ろう。アルは思った。

あの道にもう一度戻るんだ。

橋の上には煙草の吸い殻がいっぱい落ちている。

少し痩せたかな。自分で思った。

蝶がまだ飛んでいる。

汗ばんだ額を手で拭って、町を見てみる。

ここは何処だろう。一瞬そう思った。

聞き慣れた風も、まるで他人の空似だった。

いきなり走って来た子供を避けた。母親はどこだと探したが、見つからなかった。

子供が夕焼けに溶けて行った。

四季が止まって見える。

落ち着かなかった。

心が時計の振り子の様に揺れていた。

シセには伝えられない。

木の葉が一枚、落ちた。

誰も通っていない道を、アルが一人通った。

まだ、海じゃないよ、シセ。アルは言ったつもりだった。


何日間か経って、パティーがアルを訪ねて来た。

「私、セヌに謝らなきゃ」

「セヌならカフェにいるはずだよ?」

「付いて来てよ」パティーはもじもじしている。

「カホンはどうしてる?」アルは聞いてみた。

「絵、描いてる」

アルは意外に思った。

「どんな絵?」

「ありふれたもの。人となりが描きたいんだって」

「悪いけど、今、小説書いてるんだ。今度じゃだめ?」

「んー、もう! アルったら!」パティーはアルの手を引っ掴んで連れて行った。


「アル、その腕輪。懐かしいわね。ここに来た時してたじゃない」

タイムマシンの腕輪をアルはしていた。

「形見・・」アルは言った。

ふーん、とパティーはアルを見ていた。

カフェテラスに着いた。

アルはシャツの袖に腕輪を隠した。

何だか、シセに合わせる顔がなかった。


シセとパティーは抱き合った。

「ごめんなさい」とシセは言って、涙ぐんだ。

「セヌが謝ることないのに・・」パティーは戸惑っていた。

「ごめんなさい」シセがまた言った。

見ていられなかった。

アルは視線を逸らした。木々の葉はまるで風に緑を脱がされたように色褪せている。

「セヌは優しすぎるわ」パティーはシセの頭を撫でていた。

シセは涙を拭っていた。

パティーは仲直りした証拠に、「ホットコーヒー」とシセに頼んで、ウキウキした様子でテラス席に着いた。

シセは肯いて、奥に入ろうとした。その手をアルが掴んだ。

シセの目はまだ濡れていた。

「一緒に帰らないか」アルは言った。

シセの顔が一瞬歪んだ。

「もう、潮時だよ」

「虫のいい話はよして!」シセはそう言って、アルの手を振り解いた。

じっとアルを睨んでから、シセは奥に入っていった。


秋の虫がもう鳴いていた。

アルは一人が未来に帰ると書いて、ノートを閉じた。

ため息を吐いた。

「過去のものは持って来られないよ。あるはずのないものだからね」アルはティコノの言葉を諳んじて、呟いてみた。


IOU

 アルは青い自転車を押して、カホンのアトリエへ行った。

「これ、あげる」出て来たカホンに言った。カホンの顔や手や服には絵具が付いていた。

「いいのかい?」

うん、とアルは肯いて、「帰るから」とカホンに言った。

カホンはしばらく黙って、「僕のせいかい?」と聞いた。

アルは首を振った。

「そんなんじゃない。僕が帰るのは、決められたことなんだ」

「いつ、・・帰るの?」カホンは俯いていた。

「・・セヌと話してから・・」

「そう。・・そうだね・・」カホンはアルと握手をした。

アルは自分の手に付いたカホンの絵具を、ギュッと握り締めた。

「カホン・・」

「ん?」

「ありがとう」

カホンは寂しそうに肯いた。


月夜。

アルはシセが買って来てくれた服を畳んでいた。

腕輪をしっかりとはめた。

月の光を受けて不気味に輝いた。

シセのアパートまで行こうかとも思ったが、電話をかけた。

「海岸で待ってる」

シセは何の話か分かっているようだった。


アルは海岸で待った。

海風が真正面から当たった。

シセが来た。

アルは立ち上がった。

シセは黙ってアルを見ていた。

「僕は君に借りがあるんだ」アルはシセに言った。

「だから出ていかないと」

「何でよ?」

「人生を返しに行くんだ」

「まるで死にに行くみたい」シセはしゃがんで海を見た。

「死にたくないよ。僕はこんな過去で死にたくない」

「ひどいこと言うのね」シセはアルを見た。シセの白いブラウスがなびいていた。

「人は、未来があるから生きてゆけるんだよ」アルはシセの隣に立って、海を見た。

「僕はいつも、愛のほとりにいた・・」

「何とかしてくれるって、言ったじゃない!」シセが掴みかかってきた。

「まだ若かったんだ・・」

「だったら・・! それが答えなのね」シセが手を離した。

「もう一度聞くよ。君の望むものは、今なに」

シセは黙ってから、「内緒」と答えた。

「一緒に泣いて笑おうよ」アルは言った。

「弱虫!」シセが声を張り上げた。

「人が運命に抗おうなんて出来っこないんだ!」

「私の運命は、私が決める!」

シセはしゃがんで煙草を吸い始めた。

「どちらも正しくないんだよ・・」アルは俯いた。

「滑稽だよ、僕達」

シセのブラウスがハタハタとなびいていた。

それからシセは何も言わなくなった。

「煙草は、止めなよ」

「あなたが言えることなの?」シセはアルを見た。

アルは俯いて、海岸を後にした。

振り向いても、シセはそのまま、煙草を吸って、海を見ていた。


アルは部屋に帰ってあの時代の服をバッグに詰めた。

部屋には鏡はない。自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。

きっと不細工だろう。


パティーが、カホンにあげたはずの青い自転車に乗ってやって来た。

「帰っちゃうって本当?」

「うん」

「いつ発つの?」

「明日の朝早く。船で」

「じゃあ船着き場で待ってるから。私、みんな集めるから」それだけ言って、パティーは坂を滑り下りていった。

アルはボーッと、パティーのいなくなった坂を眺めていた。

この町にいたことは正しかったのだ。と思った。

明日の朝、僕はもういない。

自分が何なのか、分からなくなった。


BAY

 まだ未明、アルは目が覚めた。

荷物をまとめて、アパートを出た。

一歩一歩確かめながら、歩いた。

風を追い越した。

鼻をすすって、また歩き出した。

まだ皆、眠ってるな。


船着き場に着くと、もうかりそめ同盟が集まっていた。

駆け付けると、磯の香りがした。

「ありがとう、みんな」アルは息を切らして、言った。

「かりそめ同盟の最後だな」レリが笑って言った。

「随分、少ない荷物だね」カホンが言った。

カンヴァスに塗りたくったような、青。

シセは一人離れてその前に立って、海を見ていた。

何でこんな悲しいんだろう。

「楽しかったわね」パティーが言った。

アルは黙って、肯いた。

シセが仕方なしにこっちへ来た。

「アル、・・信じられないわ」シセは言った。

二人の間の距離が何となく川に似ていた。

川を挟んで向かい合っていた。

今は、越えられない。

アルはシセに向かって肯きかけた。

シセは首をひねった。

「小説は完成したか?」レリがアルに声をかけた。

アルは首を振った。

「レリさんのような天才にはなれませんでした」

「こんな孤独な老人を天才と呼ぶのかね」

アルはレリの恋人を見た。

こっちに手を振っていた。

「そんなこと言わないでください」アルはレリに言った。

「私は花を描く自信がないから、これを」ノワが白い花を差し出した。

アルは受け取って、胸ポケットに差した。

カホンが来て、アルを抱き寄せた。

バン、バン、とアルの背中を叩いた。

アルは、どうしても「さようなら」とは言えなかった。

カホンの胸から離れ、パティーとも抱き合った。

もう夜が明けかかっていた。

日出を皆で見た。

「トモルさん、『アンフェーユ』、完成させて下さい」

トモルは肯いた。

ノワがトモルの肩を抱いていた。

アルは一番離れた所に立ったシセを見た。

泣いていた。


BYE

 アルは船券売り場に行って、もうすぐ来る便を適当に買った。

「みんなに嘘つかなきゃ」アルはシセに言った。

シセは知らんぷりをしていた。

「別れてから、間違っていたことに気付くのかも知れない。でも、別れってそういうものだね」アルは船券をポケットにねじ込み、言った。

「何かするあてでもあるの?」シセは小石を蹴って、聞いた。

「ハタチになるよ」

「あなた秋生まれなの」

「うん」

「へー」シセはそう言っただけだった。

シセの誕生日のことを思い出していた。シュークリーム。

足りなかったかな。

しばらく待った後、アルの乗る船が着岸した。

船が大きな汽笛を上げた。

まばらに人も来ていた。

座っていた皆が立ち上がった。

レリは船を見て煙草を吸っていた。

カホンも煙草に火を点けた。

アルは黙って船を見上げていた。

「あなたの声が好きよ」アルの両肩に両手を伸ばして、ノワが一瞬泣いて、背筋をピンと伸ばした。

「ありがとう」

タラップが下ろされた。

ちらほら、大きな荷物を下げて、乗り込んでいく人達。

アルはシセをチラッと見て、俯いて、歩き出した。肩を引き止められた。振り向くと、トモルだった。

「本当は、人は、物語にならない」アルの両肩を強く掴んで、真正面から目を見て、トモルは言った。

アルは肯いた。

また、シセを見た。

シセもアルを見ていた。

俯いてタラップを渡った。

皆がアルを見ていた。

「待って、アル!」シセが駆けて来た。

(かぜ)で待ってて」海風になびく髪を手で押さえて、シセが言った。

アルは大きく肯いた。

船がボーと汽笛と共に、蒸気を吐き出した。

二人、霧の中にいるようだった。

河の両岸に。

シセとアルは見つめ合っていた。

アルはシセにもう一度大きく肯いて、タラップを渡った。

デッキに上って、大きく手を振った。

皆も手を振り返した。パティーが泣いていた。

船がブルブルと身震いして、出航した。

ノワにもらった胸の白い花が風に飛ばされそうで、庇いながら、手を振り続けた。

シセはずっと見ていた。

見えなくなるまで、アルは船のデッキにいた。

シセが白い花のように見えた。

白い海だった。

アルは客室に入り、服を着替えた。

椅子に座り、窓から見えるのは、アミの港だった。

それをしばらく見つめ、腕輪の操作を始めた。

目を閉じて、腕輪の起動のスイッチを押した。

目を開けた。

港の灯が遠くに揺れ、意識が飛んだ。


REAL SEASON

 熱さで目が覚めた。

パチパチとあちこちで火花が散っている。

アルは急いで、腕と椅子の肘掛けを括っている輪を取り外し、椅子から立ち上がった。

周りの機械のあちらこちらから煙が噴き出している。

アルはタイムマシンのドームから逃げ出した。

タイムマシンのドームがドン、と炎上した。

崩れていく。

もう戻れない。そう思った。

例えれば赤ん坊の夜泣きのような、聞いたことのないような警報音が博物館内に鳴り響いていた。

アルは靴音を響かせて走って、博物館を出た。

一面、雪景色だった。

「そっか・・。冬か・・」アルは呟いた。息が白かった。

急に静かになった。

「また一人か・・」アルは呟いた。

誰もいない。分かっていた。

電線が飛行機雲のように通っている。

アルは白いため息を吐いて、歩き出した。誰の足跡もない雪の上を。

雪が剥げた部分、電線の下の道路には銃弾の痕のような鳩の糞が幾つも落ちていた。

最新鋭の都会に、やけに雪がよく似合う。

誰もいないからか。

歩いたことのない道を歩いているみたいだった。

雪が舞い始めた。

面影だけを残した街は、どこか微笑んでいるようだった。

何か不思議だった。誰もいないのに、自分だけいる事が。

アルは首を傾げて歩いた。

葉もない木が、ただヒュウヒュウと風に鳴いていた。

雪の深みにはまっても、アルは何も驚かなかった。

寂しさも感じなかった。

アルは雪の上にしゃがみ込んで、顔を手で覆い、深いため息を吐いた。

この世界は何で出来ているんだろう。

雪の粒子か。いつか全て融けるとしても、水に残って、また空に上がっていくのかな。そしてまた雪になって放たれるのかな、地上へ。

アルはまた立ち上がって、歩き始めた。

家へ、向かっていた。


「アル、行っちゃったね・・」パティーが言った。

「行っちゃった・・」ノワが言った。

シセは握り拳を作り、開いては閉じたりしていた。

「セヌ、大丈夫?」パティーが聞いた。

シセは肯いて、微笑みかけた。

「こっちから見えるものもあれば、向こうから見えるものもある」レリが言った。

「こっちから見えるものは、向こうからも見えますよ」トモルが言った。

レリの恋人はまだ船の行った先を見つめていた。

カホンは何か石で地面に落書きをしていた。

シセは明けていく空を見上げていた。


WINTER

 くたびれた。

行けども行けども雪は白い波のようで、メーンストリートの筈なのにまるで見知らぬ公園にいるようだった。

塩の結晶のような雪。

人間の叡智の結晶がこれか・・。

明るいけど寒い。

雪が降り積もる。

ぬかるみ。

アルは自分が冬が好きだったことも忘れていた。

太陽が雲に滲んで近くに感じた。

道を、間違えた。

ただいま。お帰りなさい。遅かったね・・。

世界の終わりを知った時、人々は黙ったんだろう。

その時人々は、一人の人間に戻ったんだろう。

だから、こんなに静かなんだ。

見上げればずっと曇り空。

アルは雨中にいる気がした。

どこでもない遥か遠く。

心をどこかへ置き忘れて来たみたいだった。

シセと来た美術館まで来た。

アルはそこに入って、長椅子に座り込んだ。

訳もなく疲れた。

アルはフラと立ち上がり、あの絵の前に立った。

『灰色の服の女』は変わらず飾られていた。

「シセ・・」咳が止まらなかった。

肺炎かな。

一度、簡易医療装置で診てみよう。

このまま死んじゃいけない。

あの日々は、嘘じゃなかった。


HOME

 ようやく見知った所まで来た。

日が暮れかけていた。

アルは振り返って空を見た。

複雑な色合いで、薄らいでゆく黄昏の空。

この世界。

死んだ鳩だ。

足はもうくたくただった。

好きな歌の一節を口ずさんだ。自分の声に慰められた。

家の前まで来た。

アルはしばらくそこに佇んでいた。

郵便受けを開けた時、黄昏が全てを、セピア色に変えていた。

アルは家に入り、鍵を閉めた。

「ただいま」

アルは無言で雪に濡れた靴を脱いだ。

ただいまと言わなかったことなんて、なかったもの。

空気が籠った匂いがした。

上がると、あちこちに蜘蛛の巣が張っていた。

キッチンに入った。

テーブルに、父と母が最期に飲んだんだろう、二つのティーカップが置かれていた。

涙がポロポロ流れた。

冷蔵庫を開けると、腐った匂いが鼻を突いた。

冷凍庫にあったものを、そのまま齧って食べた。

しょっぱかった。

アルは風呂に入って、パジャマに着替えた。

久しぶりに自分のベッドに入った。

また咳が止まらなくなった。

分かった。どこもかしこも埃っぽいからだ。

掃除しておかないと、アルは眠りに入る前、そんなことを思った。


TEA

 朝、アルは起きて、キッチンへと下りた。

自分のティーカップを出して、テーブルの自分の席の所に置いた。

これで家族が揃ったね。

お湯を沸かして、紅茶を三つのティーカップに注いだ。

自分の席に着いた。

テーブルを指でなぞると、埃が落ちた。

アルは机に突っ伏してワッと泣き出した。

嗚咽混じりに幼子のように父と母を呼び続けた。


アルは落ち着いて、紅茶を飲んだ。

少し甘かった。

口の奥に苦く残った。

カーテンを見た。

白いカーテン。

紅茶をもう一口飲んだ。あと少ししかカップに残っていない。

時が止まっている気がした。

父と母のティーカップからはまだ湯気が立っている。

「もう冬か・・」アルは呟いた。


シセは煙草を吸っていた。

シセも紅茶を飲んでいた。

時計を見た。

電話を見た。

あ、そうか。この時計は少し進んでるんだっけ。

ペチコートに紅茶をこぼした。

「熱っ」シセは立ち上がった。

アルのことを思った。

今頃、何をしているのだろう。

煙草がいつの間にか灰になっていた。

もう一本の煙草に火を点けた。

「私の名前はシセ」

嘘つかなくていい人だったな。アルは。

「冷たいじゃないの」シセは呟いた。


「どこへ行こう」

アルは紅茶を飲み干した。


AIM

 アルは図書館に来ていた。

カホンの画集もレリの画集も、トモルの戯曲集もあった。

アルはそれらをパラパラめくって、古地図のコーナーまで来た。

「あ、あった」アルはアミの載っている古地図を見つけた。

「借ります」無人のカウンターにそう言って、立ち止まった。

止まったままのカレンダー。すぐにはそこから離れられなかった。


「もうこんな時間か・・」アルは港へ急いでいた。

オートボートが停泊してるはずだ。もし壊れてなかったら・・。

予想した通り、オートボートが何隻か、波にユラユラ揺れていた。

アルがその内の一隻に乗り込むと、低い唸りを上げた。

目の前の画面にちゃんと海図が映し出された。

やった! 使える。

海は時化ているようだ。「航行注意」の表示も出ている。

もう一日待とうか。

霧がかかって、海の先は見えない。

アルは引き返して、近くの本屋でノートとペンを盗って来た。

もう一度小説を初めから書こう。

みんな消えてしまったから。

激しい潮風が吹きつけた。


フェリー乗り場に、誰かが置き忘れた煙草の箱があった。アルは一本抜き出し、ライターで火を点けて吸った。

「煙草は、止めなよ、か」

堤防の端に簡易医療装置が立っていた。

アルは階段を下りて、そこに向かった。

ちゃんと作動しているようだ。赤い光が明滅している。

アルはそこに腕を突っ込んで、しばらく待った。

ジーと細長い紙片が出てきた。

アルはそれを手に取って見た。


HARBOR

 紙には名も知らない病名が書いてあり、下に「精神病」と赤文字で記されていた。

裏には「精神科」と記され、下には処方されるべき薬品名も記されていた。

頭に真っ黒な穴が空いた。

何で? どうして?

どうなってる?

シセに何て言えばいい? そう思った。

きっと壊れてるんだ。

まるで自覚がない。

こんな吹きさらしの所に立ってるから、壊れてるんだ。病院へ行こう。あそこならきっと壊れてない。

アルは早足で病院へ向かった。

病院の中は、病人が寝静まっている様に静かだった。

暗い。照明も点いていない。

窓からこぼれる光を頼りに、簡易医療装置が並んでいる所に来た。

腕を突っ込んでみる。しばらく待つと、紙が出てくる。見てみると、同じことが書いてあった。

アルは次々と、違う簡易医療装置に腕を突っ込んだ。出てくるのはみんな同じ紙だった。

ヒ、と思わずアルは声を上げた。

アルは院内を探し回って、薬局を見つけた。

中に入り、それと思しきコンピューターに紙に書かれた薬品名を打ち込んだ。うんともすんとも言わない。

アルは隣にあった調剤機を思いっ切り叩きつけた。

嘘のように錠剤が出てきた。

アルはそれを鷲掴みにすると、何錠か一気に噛み下した。

アルは手の平で冷や汗を拭った。

汗が止まらない。氷になったみたいだ。

アルはポケットの中にありったけ錠剤を詰め込んだ。


フェリー乗り場でまた一本煙草を吸った。

アルはオートボートに乗り込み、目的地にアミの場所を打ち込んだ。

エンジンをかけると、ゆっくりと発進した。

海は霧がかかって、自分の姿まで見えなくなるくらいだった。


DUSK

 カホンの初めての個展が開かれた。

小さな画廊にシセも来ていた。

レリも他の人達と一緒に一枚の絵の前に佇んでいた。

私の絵だった。

題名は『灰色の服の女』。

隣にはアルの隠れていたあのフクロウの絵が掛けられていた。

パティーがチケットのもぎりをしている。

シセは『灰色の服の女』の前まで来た。

絵の中の私には灰色がよく似合っていた。

「この絵、未来に残るかね?」レリが後ろから声をかけた。

「未来が何よ!」シセはそう叫ぶと、駆け出した。

「あら」入口でノワとトモルとすれ違った。

画廊を飛び出してからもシセはしばらく走った。

歩道のレンガにけつまずいた。

手を付いて、「アル・・。助けて・・」と呟いた。


日暮れ、シセはカフェにいた。一人でミルクティーを飲んでいた。

そこにノワがやって来た。

「隣、いいかしら?」

シセは肯いた。

ノワは煙草を吸い出した。

二人とも無言だった。

ノワが一吸い毎に灰皿に灰を落としているのに気付いて、ノワはシセがそれを見ているのに気付いた。

「いつ灰が落ちるか心配で・・」ノワは少し笑った。シセも少し笑って肯いて、ミルクティーを飲んだ。

「ノワさん。死ってどんなもの」シセは聞いた。

「もと来た所にかえるだけ」ノワはそう答えた。

シセは肯いた。

「セヌ?・・孤独は自ら作り出すものなのよ」

シセはノワを見て肯いた。

レリも来た。

何だか苦笑いをしている。

シセの隣に座った。

「レリ。・・人生って一度きりよね?」シセはそう尋ねた。

「・・二つ、あるさ」レリはそう答えた。

シセは、「そう」と呟いた。


BED

 (あさ)(もや)

アルは海の上にいた。

ザザ、と静かにオートボートは接岸した。

画面で見てみると、アミはもうちょっと先だ。

地に降り立った。

そこは荒れ野だった。

砂塵が舞う。

風中のフーガ。

霜柱が歩く度に、音を立てた。

少女(こな)(ゆき)が舞い始めた。

アルは忘れないように、またポケットの中の錠剤を噛み下した。

雪に吹かれて、僕がいる。

狂おしい。

(せつ)ない。

感じること全てが痛みに変わる。

感獄(かんごく)だ。

風よ、(すべ)て僕をさらって。

僕は病気なのか?


林を抜けると、小さな街があった。

ゴーストタウンだ。

アルは何だか疲れてしまって、一軒の家の中に入った。

振りしきる雪。

アルはテーブルの脚にもたれしゃがみ、仄明るい窓の外を見た。

薬をまた噛み下した。

頭が朦朧とする。

アルはフラフラと立ち上がり、戸棚を開けた。

酒の瓶が並んでいた。

アルはその一本を掴むと、ラッパ飲みした。

おぼつかない足取りで、ベッドまで辿り着くと、そこに倒れ込んだ。

気持ち悪い。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、・・」アルはひたすら謝り続けて寝た。


僕はベッドに横になったまま、横を向いて遥か地平線を眺めている。

地平線の端が花弁のように白くめくれ上がっている。

クレーターだ。

夢の隕石が堕ちた跡か?

君の耳に落ちて。

僕は目を閉じる事もなく、夢の中にいた。


WATER

 朝が来て、目が覚めると、最悪の気分だった。

胸やけがする。

吐き気がする。

ガタがきたロボットみたいに、関節中が疼く。

洗面所に行くと、鏡が壊れていた。

蛇口をひねって、水で顔をすすいだ時、閃いた。

人は水から生まれた。

アルは一人で高笑いをし、それをノートに書き留めた。

上機嫌になって、その家を出て、街を後にして、アミに向かって歩いた。


道に迷ったようだ。

多分この辺なんだけどな。

森に入ってしまった。

微かに潮の匂いがする。

崖から覗くと、真下は荒れた海だった。

この近くだろう。

森を分け入って進むと、不思議な音を聞いた。

雪崩のような響き。

アミの方角だ。

何だろう。

森が切れている。

アミだ。

アルは木を押し分けて、森から出た。

そこには、赤茶色の、轟音を立てる巨大な濁流があるだけだった。

アルはその場にへたり込んだ。


BLOW

 川に沈んだアミ。

自由なんて孤独なだけよ。行くあてもない。アルはノワの言葉を思い出していた。

ゴウゴウゴウゴウとただ無情に川は流れていた。

アルは平たい岩に横になった。

非劇(ひげき)だ。これは。

空には夕日。自分に落ちて来そうだった。

アルは古地図をビリビリに引き裂こうと思ったが、出来なかった。

ため息を吐いた。

そのまま目を閉じ、川の音を聞いた。

煙草、持って来ればよかったかな・・。

うたた寝でもしたのだろうか、そっと目を開けると、もう夕日はいなくなっていて、宵闇だった。

全てが青い。

(おわ)り、か・・。

アルは寝がえりを打った。

ただボウと川を眺めて、煙草を吸っているフリをした。息だけは煙を吐いているように見える。

冷たい岩に頬を当てた。

何もかも上手くいかない。

「この心、ここにあらず・・」アルは呟いた。

もう、泣いてしまうよ。

しぶきがはねて、顔に当たった。

僕の命はただの水たまり。

降り止まない雨が作る、乾くことのない水たまりだ。

それはダイヤモンドのように、消えることを知らない。

蝶ではなく蛾。

僕は蝶ではなく蛾。

死と生。

表裏一体。全ては一つの問題なんだ。

知らぬ間に、歌を呟いていた。

歌に帰ると言うのか。

打ちひしがれた人間は。

「芝居が足りない」呟いた。

ノワが好きと言ってくれた声だった。

シセのあの優しい声を思い出した。

膝を抱いて眠りたい。


HORSE

 何かの気配で起きた。

夜明けだった。

過去を見ているような、霧の向こうに、一頭の馬が立っていた。

アルが近寄っても、ちっとも逃げようともしない。

「ねえ、僕はどこへ行くんだい?」アルは馬に尋ねた。

馬はブルルッと首を振って、森の奥へ消えていった。

水を飲みにでも来たのだろうか。

アルはポケットから錠剤を取り出して、赤茶色の水をすくって、砂混じりだったが構わずに飲み込んだ。口をすすいで吐き出した。

帰ろう。科学者の島へ。


また、森の中へ迷い込んだ。

鳥の声が聞こえてくるだけだ。

木の上から時々、雪が落ちてきた。

霧が深くて、自分の足元もよく見えない。

何が間違っているんだ?

僕か? 世界か?

灰色の空を飛ぶ鳥のようだ。

知らないことを知り過ぎた。

僕は一本の河だ。

どこにもつながらない、夜を渡る、今にも消え入りそうな細い一本の河だ。

トイレに行きたくなった。ここでしてしまおうか、とも思ったが、信じられないものを見た。

明かりだ。

アルは大急ぎでそこに走った。

途中で何本もの木にぶつかった。

誰かいる!

誰かいる。

ひっそりとそれは有った。

朽ちかけた家。

人の気配なんてしない。

明かりが点けっ放しだっただけだ。


AUTO

 こんな森の奥に。

世捨て人でも住んでいたのだろうか、古い木製の小屋だった。

鍵は開いているのだろうか。

アルがそのドアに手を掛けようとすると、音もなくすっとドアが開いた。

蜘蛛の巣が千切れた。

アルは驚いた。

自動ドアだったのだ。

どうして自分がここに居るのか分からなくなって、アルは気が遠くなる中、「お母さん・・」と呟いていた。

ヨロヨロとアルはその中に入り、そこにあった椅子に座り込んだ。

「認められない、な・・」暗い天井を見上げ、呟いた。

虚しさの(とばり)が落ちて来た。近くと遠くから。

狂気に手が触れた。

知っていた筈の言葉が全て意味を無くしてゆく。

今ならなんだってできる気がする。

過去を作らなきゃ。

これが、狂気か・・。

アルは、すぐに退いた。

それでも、頭がどうかなってしまったような気がする。

アルは虚ろな目で、小さな窓に目をやった。

目の中に白い雪が入って来た。髪にでもかかっていたのだろう。涙のように溶けて伝った。

その時、不意に、自分がずっと孤独だったことに気が付いた。

だから心に雨が降ってるんだ。

神様だってきっと泣いてる。

黒く塗りつぶされたような夜の海に沈む僕から細かい水泡が、いや、それは涙の粒だった。

僕はずっと泣いていた。

もうとっくに息は止まっているのに。

こんな悲しみ知らなかった。

涙が次から次へと溢れ出て、アルは泣き止むことができなかった。

声を上げて泣いた。


HURT

 この涙は、誰にも、あげない。

アルは立ち上がって、泣いていた。

(とう)心体(しんだい)で泣いていた。

泣くな(けだもの)

いつからこんな孤独だったんだ。

どうしてこんな孤独に気付かなかったんだ。

母と父の顔が浮かんできた。

一際高い声を上げ、泣き叫んだ。

天を仰いで、ひざまずき、雨を飲むような格好で、泣いた。

終わらない歌みたいに雨が響いてる。

床に手を突き、祈るように泣いた。

命の気持ち。

泣く猿だ。

アルは心を見た。

心は光の中の白い月だった。

心に言葉は無い。

傷付き果てた。

しかし心は、何も変わらずに、ここに。

心は、月。

遠いと言えば遠いし、近いと言えば近いな。

気持ちってね、心に吹く風みたいなものよ。

本当にあったんだね、シセ。

アルは奥にあった酒を浴びるように飲んだ。

目がよく見えなくなった。

耳もよく聞こえなくなった。

よろけながら奥へ入った。

空のトイレ。

吐いた。

アルはそのまま横たわり、泥のように眠った。


HEART

(ぶん)(めい)」レリの唇が動いて、ハッと目が覚めた。

アルは冷たいタイルの上で横になっていた。

起き上がって用を足すと、アルはノートを持って小屋の外に出て、庇の下にしゃがみ込み、片膝を立ててその上でノートを広げた。

昨日見た現象と分命という言葉を書き留めた。

左から右へ、ページをめくるように風が流れている。

日が森の中へ差し込んで、世界が信じられないくらい美しく見えた。

気付けなかった世界の美しさ。

狂ったからか?

そのまま日向ぼっこをしていた。

冬の日の光が優しい。

心臓が一コ足りない感じ。

もう薬を噛み下すのにも慣れてしまった。

分命か。

自分。

契られた運命。

一人でどうしたらいいか困ってる。

アルはペンをクルクルと回した。

(おり)が取れた気がした。

アルはノートに「セヌ」と書いた。

狂った、こんな病気の僕は、もうシセには会えない。

シセは僕の天使でいい。

アルは人類が破滅したところをもう一度書き出して、立った。


オートボートは頼りなげに、少し流された所に、プカプカ浮かんでいた。

アルはそれに乗り込むと、科学者の島を目的地に打ち込んで、エンジンをかけた。


PURE

「もう大丈夫だって」カホンはパティーの病室に入って、パティーに笑いかけた。

パティーはチフスに罹って、ここ数日、入院していた。

パティーもカホンに笑いかけた。

カホンはパティーの手を握って、すぐ手を離した。

「ごめん」カホンは後ろを向いて、涙を拭った。

パティーもまつげを濡らした。

カホンはバッグからティアラを取り出した。

「受け取ってくれるかな」

「嬉しいわ」パティーと彫られているそのティアラをパティーは受け取った。

「友達に金細工をしている人があって・・」

言葉も言わず、パティーは肯いただけだった。

「君は白いカンヴァスみたいな人だ。何を描いても君には敵わない」カホンはパティーの手を握った。

「許してくれるかい?」

「あなたが言っていた天使はね、いたずら好きだから、そばにいても隠れてクスクス見てるのよ。すぐに姿を見せるわ。気まぐれだから、パッとおどけて出て来るに決まってるわ」パティーは笑って頭にティアラをかけた。

カホンはその唇に口づけをした。

「探し求めてた地上がここにあった、みたいだ」カホンは言った。

「あなたが天使みたい」パティーは微笑んだ。


パティーの所へシセが見舞いに訪れた。

「私、なれるかな? お嫁さんに・・」

「パティーはパティーのままでいいのよ」

パティーはティアラをクルクル回していた。それをシセは手に取って、パティーの頭にかけた。

パティーは照れ臭そうに笑った。

窓から同じ日溜まりが二人を包んでいた。

シセは少し目を伏せた。


SEX

 性別。

心の生き別れ。

アルは一から辿って小説を書いていた。

「本当は、人は、物語にならない、か・・」アルは呟いた。

アルはそれを書き終わって、置いておくつもりでいた。

海と同じくらい青い空。

海は宝石を散りばめたように光っている。

オートボートの進む音だけが聞こえる。

海が群青に色づいてくると科学者の島が遠くに見えた。

僕は不幸だ。

逆光に浮かぶ自分の影を見ながら、とりとめなくアルは思った。

やっぱり僕は病気なんだ。

風が通り抜けていく音が聞こえる。

その目は何も見ていなかった。

風に髪が揺れる。

もう誰もいなくなってしまったんだ。

無人なのは、僕の方だ。

落ち着いた世界。

アルは科学者の島へ降り立った。

ため息が止まらない。


宇宙開発センター。

冷たい靴音だけが響く。

鍵はどこも壊れてる。

寿命が切れたんだ。

「飛行室」と書かれたドアを開ける。

アルは煙草をゆっくりとくゆらせる。

目の前には銀色に輝くロケットが有った。

「終止符、か・・」アルは呟いた。

アルはポケットに残った最後の錠剤を噛み下した。

冷たい階段を上り、屋上へ出た。

そこに、掴めそうな月。

月へ。


EYES

 『アンフェーユ』の初演。

拍手が鳴り止むことはなかった。雨のようで、紙吹雪が舞っていた。

ノワがトモルの名を呼びながら、トモルのいる楽屋まで飛び込んで来た。

「耳が痛い! くすぐったい」ノワは紙吹雪を払って、トモルに抱きついた。

トモルはノワを抱き上げた。天使のように軽かった。

「カーテンコールよ。行きましょう、トモル」

「僕は、いいよ」トモルは首を振った。

「何、言ってんのよ。もう!」ノワはトモルの腕から降りて、手を引いた。トモルはつまずいた。

「もう、見えないんだ」トモルは起き上がって、手を払った。

トモルの両手をノワの両手が包んだ。

「私があなたの目になるわ」ノワは言った。

トモルは驚いた。

「本気かい?」

「嘘をつかないことが役者の第一条件なのよ?」ノワは優しくトモルを抱き寄せた。

「だから、あなたは私の脚になって」

トモルはノワを固く抱き締めた。

「もう一度、0から始めましょうよ」ノワがトモルの肩の上で囁いた。

「永遠ってきっと人生ぐらい長い」トモルは言った。

「こんなに広い世界で二人の人が出逢うなんて、何でもないことよね」ノワは言った。

「泣いてるのかい? ノワ」

「玉ねぎ切ったせいかしら」ノワは笑って、涙を拭った。

トモルとノワは肩を組んで歩き出した。


「度胸。度胸」とノワがトモルの胸を叩いた。

トモルは目を細めて、ノワを見た。

幕の中で待つその姿は、忘れない絵画のようだった。

再び、幕が上がった。

紙吹雪と拍手と歓声。

眩い光が二人を包んだ。

一歩進んで、ノワとトモルは、舞台に上り、両手を上げて、頭を下げた。

人生はまだ始まったばかり。

人生はいつも、白紙のページ。

「私たちって幸せなのね」客席を見上げ、ノワは言った。

「次回作はね、」トモルがノワを見た。

「少し休ませてよ」ノワは呆れた。


PILOT

 アルは泣いていた。

不器用でもいい。

アルは小説を書き切れなかった。

代わりに、創作で、人類が滅亡して、一人だけ生き残った男が、何のあてもなく、ロケットに乗って、宇宙のどこかに行く、という筋書きだけを書いて、置いておいた。

シセが戻って来ても、またアミに戻れるように。

アルは見えない涙を拭った。

そして、自分のために微笑んでみせた。

アルは宇宙服に着替えた。

月へ。

意味なんてない。

遠い世界で君を想ってる。

アルはハッチを開け、コックピットに乗り込んだ。

様々なボタンや機器が並んでいる。

使い方も分からない。

アルは適当に順番にボタンを押してみた。

画面に「OK?」と表示が出た。

「何がOKなもんか」アルは言った。

すれ違う風。

さよならも聞かないで。

一人一人悲しいね。アルはレバーを引いた。

何にも音がしなかった。

失敗か・・。

アルは背もたれにもたれ、ため息を吐いた。

宇宙か・・。ただいっぱい岩が転がってるだけだろ・・。


MYTH

 雨上がりの朝陽を拝みたくて坂から振り仰ぐと、海から続くライム色の雲の大陸が神話に続いているようだった。

レリは眩しそうに目を細めた。

煙草を買って来た帰りだった。

自分のアトリエに帰って、酒を一杯呷った。

「どうしてお酒なんて飲むの?」いつの間に来ていたのか、レリの恋人がドアの横に立っていた。

「気つけだ」レリはそう言って、イーゼルの前の椅子に座った。

恋人は天使のようにため息を吐いた。

レリは無意識に自画像用の鏡を見た。

いつからそんな齢を取ってしまったのか。背中を丸め、魂が脱けたような自分がいた。

「このまま天使になって、消えてしまわないでくれよ」いつになく嗄れた声で恋人に言った。

「何にそんなに怯えているの?」レリの恋人も椅子に着いて聞いた。

「時さ。誰も忘却の外には出られない。時こそ神かもな」レリは買って来たばかりの煙草に火を点けた。

煙がたなびく。

「君を描いてもいいかい?」

レリの恋人は何の身構えもせず、ただ肯いた。

レリは下書きもせず、迷わずパレットに絵具を並べ、絵筆にそれを取って、慣れた手つきでカンヴァスに色を置いていった。

等しい。

無性(むしょう)の愛。

描き終わると、レリはその上からウェディングドレスを描き足した。

それが愛のかたちだった。

レリは老眼鏡を外した。

レリはまた酒の方へ向かった。

レリの恋人が手を引いて引き留めた。

レリは突然、ワナワナと身を震わせて、顔を覆って、堰を切った様に、泣き出した。

「俺は怖い。忘れられたら、俺は一体、何だったんだ? 上には上がいる! 絵だ。杭を打つんだ・・!」少年のように泣いているレリを、そっと恋人が抱き留めた。

「あなたの愛は、真実よ。私の愛は、間違っていなかった。あなたが私を思い出し、私があなたを思い出す。別れてからも続く出逢いがあるの」レリの恋人はレリの肩をさすり、耳元で説き伏せるように言った。

ある愛の輪郭。

レリとレリの恋人はまたそれぞれの椅子に戻った。

「私はあなたに何をしてあげられた?」レリの恋人は聞いた。

レリが何か言おうとすると、レリの恋人は手を差し伸べて止めた。

「一度聞いてみたかったの。そして、自分で考えてみたかった。これからもずっと」

微笑女(びしょうじょ)

「どうしても描きたい絵が有るのに、絵具が足りない気分だ」レリは苦笑いした。

「あなたの好きな私のままでいるつもり。運命なんて分からないものだから」

「君が、見届けてくれるのか?」

「やっと、気付いてくれたの?」

理解者。レリは笑って、初めて肩の力が抜けた。


LONG AGO

 アルはさまよっていた。

行ったことのない所へ行きたかった。

アルはしゃがみ込んだ。

冬がもう終わろうとしている。

アルはみぞれ状になった雪をかき分けてみた。

砂地だった。

ここは何処だろう。

起伏を越えると、広大な砂地が広がっていた。

アルはそこに横になった。

少し暖かい。

アルは足を乗せる岩を探して、そのままの姿勢で身をよじった。

手に何かが触れた。

取り上げて翳して見ると、それは貝殻だった。

アルは身を起こし、周囲の砂地を見た。

それは無数の貝殻で出来ていた。

昔、海だった。

アルは呆然として、遠くを見た。

とんでもない時間が過ぎたようだ。

地球は人類を忘れ去ってしまったのだろうか。

シセは帰って来れるだろうか?

あんな旧式のタイムマシンで。

シセは帰って来るだろうか?

しばらく歩いて行くと、潟になっていた。

遠浅の海。

アルはそのままジャブジャブと、膝まで海に浸かった。

ただ、風が吹いているだけだった。

流木に、シセはいなかった。


SHORE

 アルは海岸伝いに歩いて、シセが乗っていったタイムマシンを見つけた、あの海岸まで来た。

吹きすさぶ風がまつげを揺らした。

僕の思う神様はね、弱いんだ、泣いてるんだ、それは誰のことだったのか。

本当の神様は本当に全知全能なのかも知れない。

全てを知ってて、こうしたのかも知れない。

お前には分からないよ。

僕には知る由もないことだ。

「希望を残せ、か・・」アルはレリの言葉を呟いていた。その手にはまだノートを持っていた。

風で待ってて、か・・。

浜辺を見下ろせる丘の上に座って、膝の間に顔を埋めた。

ここだけは確かな風が吹いている気がして。

星が目の前に出てる。

それから、来る日も来る日も、アルはシセを待ち続けた。

夜には松明(たいまつ)を燃やして。ネオンだけが光ってるこの島で。

火はあるのかな? ないのかな?

アルは何度もそう思った。

星空がグルグル回り、狂気がまた襲って来そうになった時もあったけれどアルは待った。

木々の葉が風にざわめき、羽ばたいて空に飛び発とうとする。

時々は、街に行って、食料と薬を手に入れてきた。

薬をカチリと噛んだ。

この星に僕はまだいるよ。


COAST

 微生物になった気分だった。

雷が一瞬の光芒を放った。

僕はここにいるぞ! そう叫んでやりたくなった。

丘のてっぺんでね。

アルは父から聞いた物語を思い出していた。

確か、あれは、「光の子ジゼル・・」

アルは、思い出せる限り、ノートに書いた。


曙光の中、ジゼルはまた産まれた。瞼の間から涙が一粒、落ちた。

ジゼルは目を覚ました。裸足のまま駆け出した。風をまとい、生まれたままの朝露が足に心地良かった。急にふざけた気分になって、寝ころんで身を転がして、仰向けになって声を上げて笑った。

森の奥からは霧が立ち昇り、空はビロードのように滑らかだった。

ため息を吐いて、伸びをした。朝の空気が鼻を通り、体中が洗われるみたいだった。

森は危険な場所だから近付かなかった。

日の光が強くなった。太陽がもうあんなに高く。ジゼルは手を翳して、憂いを帯びた目でそれを見上げ、うつ伏せになった。

顔に触れてくる伸びた草を手で払った。今、泣きたい気持ちだから。僕はまだ子供なのに。

爪を見ていた。

ジゼルは立ち上がった。足にはいつの間にか鎖が絡まっていた。手脚は伸び、髪は腰まで伸びていた。

黄昏、鎖を引きずり、祈りを呟いて歩いた。日没を追い、時折、倒れながら、歩き続けた。

太陽がどこにも見えなくなった。

「夜よ、まだ来ないで! 光よ! まだ行かないで!」ジゼルは力いっぱい走った。

鎖はちぎれ、足からは鮮血が流れた。暗闇から逃れるように走り続け、そのまま森の中へ入った。

つぶらな瞳で、森の奥へ奥へと光を求めた。果てしなく歩いた頃、光が見えた。初めて見る光だった。でも、懐かしいような気もする。

「光・・」息を切らして歩いた。光に吸い込まれて見えなくなる。

「お帰りなさい。ジゼル」

「ただいま。ママ」母の懐に抱かれて、ジゼルはまた眠りに入った。

「おやすみ」

朝焼け、ジゼルはまた、あの草地に寝ていた。何も覚えていなかった。

太陽を抱くようにして、自分の体を抱き締めた。


どういう意味だったのか。

アルは太陽を仰いで、横になった。ちょうどジゼルがそうしていたように。

何度も書き直した、色々書き込んだ、ノートを胸に抱いて。ペンを握って。

いつもの岩に足を乗せて、アルは目を閉じた。

時を忘れていた。


OWL LIGHT

 オレンジの秋の日。

シセは通りを歩いていた。もうオーバーを着込んでいる人も目立ち始めている。


シセはカフェテラスに着いて、ウェイトレスの制服に着替えた。

水を絞った布巾でテーブルを拭いていると、指先が赤くなった。

「あら、カホン」カホンが立っていた。カホンは微笑して、テラス席に着いた。

シセはせっせとテーブルを拭いていた。

「アルがいなくなってから君は・・、何ていうか・・」

シセは聞かないフリをして、テーブルを拭いた。

「セヌ、絵にも結末があるんだ」シセはカホンを見て、肯いた。

「綺麗な色だけでは綺麗な絵しか描けない。芸術なんだ。綺麗事じゃない」カホンは言って、俯いて、「アルに何て言えばいい?」と言った。

シセは何も言わず、布巾を握って、奥に入った。


ススキが野に揺れている。

市場。

クラシックなウールのコートのポケットに手を入れ、帰り道を歩いていた。

トマトを落として、ふと足元に目をやる。

ロングブーツを履いていた。

「もう、そんな季節か・・」シセは呟いた。息が少し白く残った。

「アル、・・何で、来たの」シセは呟いた。

ウールのコートの肩で風を切って、シセは町を歩いた。落葉を踏みしめて。


束の間の夕焼けに鳥たちが消えていく。シセはそれを窓から見送った。

あの夕日はどこに続くの。

・・思えば、アルだけが私をいっぱいにした・・。

きっと、一人ぼっちで泣いている。

シセは胸に手を当てて祈った。

その時になってみないと分からない。シセは立ち上がった。


真っ黄色なイチョウの並木路を通った。

向こうからレリとレリの恋人が手をつないで歩いて来る。

「どこ行くんだ?」レリが聞いた。

「帰る所があるの」シセは手を振った。

レリとレリの恋人は何も言わず手を振り返した。

シセが手に持っていたのはタイムマシンの鍵。

黄金(たそがれ)

見ていたのは、()(がれ)


FALL

 瀧のような枝垂(しだ)れ桜が、少し花を付けていた。

アルはその細枝に手を触れてみた。

今日、少し雪。

雪は降ったそばから水になった。

予告なしに降り出した小雨みたいに、ちょうど、寂しい。

アルは海に小石を投げた。

生命の誕生って、海にバラバラの椅子の部品があって、それが偶然に組み立てられるくらいの偶然なんだって。昔よく聞いた話だ。

シセが乗っていったあの僕が見つけたタイムマシンだって、もしかしたら海が作り出したのかも知れないね。

アルは誰かに置き去られた海岸の椅子に座って、海を見た。

渚は静かだった。

椅子には背もたれもあって、肘掛けもあって、アルは自分が乗ったタイムマシンを思った。

勝手に生まれたんだよ。

愛し合うことは必然なのかな。

縁。

丘の上では消し忘れた松明がまだ燃えている。

まるで岬に立つ灯台のようだなあ、とアルは思った。

この椅子にだって色が塗られてたはずなのに、今や木肌が剥き出しになっている。

偶然と必然。

「分命、か・・」

立ち止まらなくてはならない。

そして、振り返らなくてはいけない。

そうしないと、何も見つからない。

アルは海岸へと走った。


COME

 声がする。

僕を呼んでいる!

「アル!」

「シセ!」

シセを見つけた。シセもアルを見つけた。

シセは、白い毛布を体に巻いて、裸足ですっぴんだった。

あの変な生き物のぬいぐるみを胸に抱いているだけだった。

旧い物はみんな消えてしまったんだ。

海は、目の覚めるような青だった。

「アル!」

「シセ!」

シセは毛布を手で押さえながら、裸足で駆けて来る。

アルも全力で走り寄る。

二人、相対して向かい合った。

再会。

澄んだ瞳でシセはアルを見上げていた。

林檎みたいな笑顔。

シセの前で、舞台に上がったみたいに、足がガタガタ震えてる。

何か言わなきゃ、と思うんだけど、シセは天使のように空を飛んでいるようで、声を掛けられなかった。

シセを見るのがやっとだった。

「間に合った?」シセが笑って聞いた。

「待ってたよ」アルはやっと言えた。

「驚いた?」シセが笑って、聞いた。

アルは肯いた。

「僕、病気なんだ・・」アルはクシャクシャになった紙片をポケットから取り出して、シセに見せた。

シセはそれを一瞥して、「何だ。ただの心労過多じゃないの」と言った。

「え? 何でそんなこと・・」

「私のお母さん、医者だったの」

アルは安堵で体から力が抜けた。

「安静にね」シセはアルに笑いかけた。

シセがくしゃみをした。

笑いながら泣く羽。


SPRING

 いつもの朝が戻って来た。

数日後、アルとシセは宝石店に来ていた。指輪を選んでいた。

「好きなの選んでいいよ」

「偉そうに」シセは笑った。

「これにしよっと」シセが選んだのは二つおそろいのリングだった。

二人で指輪を交わして、出て行こうとしたその時、盛大に警報音が鳴り響いた。

笑いながら、二人は手に手を取り合って、逃げ出した。

二人でハイウェイを上った。

シセが鼻歌を歌っていた。

「君が歌ってたんだね」

「何を?」

「ううん。全部」アルはそう言って、はにかんだ。

「すぐ赤くなる。シャイなのね」とシセは笑った。

朝日が眩しい。


午後、アルとシセはDNAの研究施設に来ていた。

見慣れない機械やら設備が並んでいた。

「何だろう。これ」シセが真新しい一冊のノートを机から拾い上げた。

「ティコノさんだわ!」

機械を見ていたアルも走り寄った。

表に「希望を残して」と書いてあり、ティコノのサインもしてある。

「これ、見て」

そのノートには科学技術を応用した人類の再生への過程が記されていた。

アルとシセはそれを読んだ。

「今読んでもチンプンカンプンだけど、勉強して、きっと、応えてみせよう」シセは言った。二人ともうっすら涙ぐんでいた。


「ティコノさんは僕達を残して、いなくなったりなんかしないよ・・」アルは空を見て呟いた。

アルとシセは道の真ん中を歩いた。

二人で日の当たる道をいつまでも歩いていたい。

来た道へ。


MEGAMI

 春。

雪融け。

恵み。

芽吹き。

水面(みおも)

つくれないもの。


アルとシセは『灰色の服の女』を見に来た。

「これを見て、来たの」

アルは肯いた。

「運命ね」呟いて、しばらくシセは『灰色の服の女』を見つめていた。

『灰色の服の女』は変わっていた。

初めこの場所で見た時のような、あんな苦しそうな目ではなく、カホンのアトリエで見た、出来たばかりの、あんな張り切った絵でもなかった。

カホンが手を加えたのだろうか、今は自然に絵の中にいて、大きな瞳を少し向こうにやり、柔らかな微笑を向けている。

「変わらないよ」アルは嘘をついた。

「心にある物は変わり様がないわよ」シセは勘違いをして、女神のようにアルに微笑んだ。

アルは見とれた。


「難しいものって本当は難しくないんじゃないかしら。言わなくても分かるもの」

二人はカフェテリアのテラスで、シセの作ったハムエッグを食べていた。ハムを厚く切り過ぎた、とシセは言っていた。

「言葉と言葉の間に違う物が見えるの」ナイフとフォークで切り分けて、頬張りながらシセは言った。

「これから忙しくなるね」

「終わりも始まりもないんだ」シセがコーヒーカップを手で包んで、言った。

「メリーゴーラウンドみたい」シセは呟いた。

地球はまだ夢の中。ピンクと、水色、・・それに少し黄緑。


 ()ころ(こころ)

混沌の光。

精神の羽。

人は想像の鳥。

アルは小説を書いていた。

昇華。

魂は躍る。

水の中で歌う。

命は輝く。

人間の真価。

運命なんて気にしない。

シセはアルの横でアルが小説を書いているのを見ていた。

「キリがない」

シセは微笑んだ。


シセは微睡(まどろ)んでいた。

その間に、アルは小説を書き終えた。

アルは目を閉じた。

ノートを閉じた。

アルは窓の外を見た。

人生は、きっと、待つ時間。

神様は明日を抱いて、降りて来るから。


シセはアルの書いた小説を読んでいた。

微笑んで、読み終えて、ノートを閉じた。

窓から見ると、アルは夕暮れの海を眺めていた。


「どうだった?」帰ってきたアルが聞いた。

シセは微笑んで、「イマイチ」と答えた。

うわの空でアルはタップを踏んでいた。

「トイレ、我慢してるの?」シセは、声を出して笑った。


「誰か読んでくれるかしら?」

「架空の話だと思われるかも知れないね」

汐の音がする。


ORANGE

 アルとシセはタイムマシンにL字型のキーを差した。

シセは、そのキーをアルの小説の上に置いて、机の引き出しに仕舞った。


タイムマシンは未来には行けない。

タイムマシンをまた使う時が来るかも知れない。

その時は、カホンに、パティーに、トモルに、ノワに、レリに、レリの恋人に、会うべき時なんだろう。


夕映え、アルとシセは海岸にいた。

潮騒がする。

「一つ分かった事があるの。ここに座って」シセはベンチの傍らを空けた。アルはそこに座った。

「みんな、天使なのよ。みんな、待っている誰かさんのために使わされた、天使」シセが夕空を見上げて言った。

蜜柑(みかん)のような夕日。

「何とか言ってよ。魔法使いさん」シセが笑って言った。

「だから神様を信じてるんだね」

「そう」

「シセの夢は何だった?」

シセは笑った。

「救世主」

アルは微笑んだ。

「家族になるんだ」アルの肩に、シセは頭をもたれた。

「なんか想像できないね」

未来でも過去でもない今。


アルとシセはそのまま砂の上に横になった。

もう雨はやんだ。

流星。

アルとシセは何も願わなかった。

生きていることが、二人の間に、降り積もった。

そして、いつか空も海も分からない青の世界へ。

二人は河になり、海へ流れた。空を追いかけて、走るジゼルのように。

歌がこぼれた。


SHE SAY

 クリーム色の黎明に少しずつ包まれる。


「ねえ、アル、私、あなたに言わなかった事があるの・・」

「何?」

「あれを見た時、私、タイムマシンだって気付いてた」

「知ってたよ」

「え?」

「とっくに気付いてた」

シセは泣き出した。

「小説には書かないでね」

「らしくない」


海岸に手を重ねて二人はいた。

生まれる。

幻。

導く。

日輪。

許されるかぎり。

愛されていることを忘れるな。

さようなら。

有難う。

もう一度。


「愛って何? 浮気ね」


「題名は?」

「最後の19(ナインティーン)っていうのはどうかな?」

「私はもう決めてあるわ」

「何?」

「あなたからタイムマシン」


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