5-① 覇王
せめて着替えだけでも、いやそれでなくても手を洗うくらいは! という私の切実極まりない涙ながらの訴えは、「その顔の傷と比べたら、着替えも手洗いも大した意味はないから安心しなさい」とにこやかに却下された。
慣れているとはいえ、ものすごく失礼なことを言われた。私がこの顔の傷についてトラウマや劣等感を抱いているわけではないからこそ流せたけれど、これをこんな美貌の青年に、普通の年頃のお嬢さんが言われたら、その繊細な乙女心は間違いなくずたずたに切り裂かれていたことだろう。それこそ、彼が扱う神牌のように――――なんて、我ながらうまいことを思ってしまった。はははははは、笑えない。
と、いうわけで、私は麗し恐ろしの覇王サマに、正しく『連行』されて、お妃様方が既に集っているのだという、中庭の東屋へと向かう運びとなった。顔料ですっかり汚れ切った作業着をまとい、手やら足やら顏やらを、これまた顔料であちこち汚した、創牌師としてはともかく、『陛下専属の女官』としてはこれ以上なくふさわしくない出で立ちで。
この後宮にさらわれてきてからこの方、私は貸し与えられている宮以外から出たことはない。正確には、出られない、と言うべきか。あらゆる干渉に対応する数えきれないほどの神牌によって、宮全体に、強固な結界が張られているせいだ。私が自分で陛下の神牌の修復や、新たな神牌を作り出したとしても、それを使って後宮から逃げ出せないのは、その結界が反応してしまうからである。
長期戦を覚悟して、結界の核を担う何枚もの神牌に対して一枚ずつこちらからも神牌を用意すれば、まあなんとか逃げ出せないこともないだろうが、繰り返すが長期戦の覚悟が必要になる。ただでさえどれもこれも私の手に余る高位精霊の力を借りた神牌ばかりだというのに、それが数百……もしかしたら数千枚。何年徹夜すれば結界を打破できるのか解ったものではない。
――陛下が寝泊まりしていらっしゃるくらいだから、当たり前なんだろうけど……。
それにしてもここまでやるかというくらいの徹底した結界だ。
私の一歩先をゆったりとした足取りで進んでいる陛下は、他のお妃様のための宮にお渡りになることもなく、どうやらずっと、私と同じ宮で寝泊まりなさっているらしい。彼が私がいる場所にやってくるとき以外には、彼と顔を合わせたことはないけれど、彼の言動の端々からそれが感じ取れた。
――まさか陛下御自ら見張っていただけるなんて、私も出世したものね。
……なんて、もちろん嫌味だ。宮仕えの創牌師になりたいと思ったことが皆無である、とは言わないけれど、それでも私は下町で細々とはぐれ創牌師としてやっていけたらそれでいいと思っていたのに、ああそれなのに。
現実とはかくも非情であるもので、初めて目にする後宮の新たな姿、その壮麗さに感激している余裕などかけらもない。あと普通にどんな装飾も、目の前を行く陛下がいてこその美しさなんだろうな、なんて普通に思えてしまうし。陛下という佳人の麗しさがあってこその後宮なのだとしたら、そのお妃様方はどれだけお美しい方々なのだろう。
大変今更ながら、ようやくそのあたりのことに対して疑問を覚えた。やっとそこまで考えるだけの余裕ができたということなのかもしれない。一度覚えてしまった疑問は消えることはなく、むくむくと胸の中で大きくなっていく。ううん、気になる。何せ私は、そのさぞかしお美しいであろう方々を、この後宮から追い出さなくてはならないのだ。できることならば円満に解決したい事案である。だが。
――こんな私じゃ、ぜっっっっったいに納得してもらえないと思うんですけど!?
顏の傷といい、作業着といい、あちこちよごれた全身といい、どこをとっても乙女として落第点の私を、陛下は本気でこのままお妃様方の前に連れ出すつもりなのだろうか。つもりなんだなこれ。我が五星国の当代皇帝陛下は覇王と称されるほど何もかもに優れたお方だと聞いていたのだけれど、その辺がここに来て非常に疑わしくなってきた。もしかして目の前のこのお方、頭のほうはあまり……?
「なんだか失礼なことを考えてない?」
まるでこちらの考えを読んだかのように、陛下は歩みを止めないまま肩越しに振り返って微笑んだ。きらきらとまばゆすぎて思わず目を細める。このまぶしさは、ただ彼がこの中庭へと向かうのであろう桟橋で、一身に陽の光を浴びているからだけではないだろう。うう、目が痛い。
「い、いいえ、失礼なことなど、そんなまさか……」
「そう? 僕の頭の心配くらいしてくれていてもいいと思ったんだけどな」
「恐れ多いことにございます」
「恐れ多いなんてこともなく当然じゃない? 今の君をそのまま妃達に連れ出そうとしている僕のことは、普通に考えて頭がおかしいと思うものだよ」
「…………」
いや自覚あったんですかあなた。そう突っ込みそうになったけれどやめた。無駄な発言はお好みでないとは既に事前に言い聞かされているため、沈黙を選ぶ。その沈黙をどう思ったのか、陛下はくつくつと喉を鳴らしながら、再び前方を向いた。歩みは止まらない。
「ねえ宝珠」
「……はい、陛下」
「君のことだから、僕の妃達について何も知らないだろう? だから一応少しは説明しておくね」
「――――はい」
『君のことだから』と言われても反論できない。これまた馬鹿にされているのかもしれないが、おっしゃる通りである。私は目の前の佳人の妻である女性達について、数えるほどしか知らない。しかもその情報はどれも、五星国の住人であれば知っていて当然の常識だ。
陛下が即位されたのは三年前、御年十九歳のみぎりであるとは流石に知っている。そこは流石に、私だって五星国の民なのだから知っているとも。皇帝の血に連なる者は、五星国における貴族や平民が当たり前に持つ姓を持たない。何者にもとらわれず、従わず、自らの意志でもって五星国のまつりごとを治めると同時に、自らの龍氣をもって五星国の大いなる氣の流れ、つまりは龍脈と呼ばれるそれを平定し、国を安寧に導く。それが五星国における皇帝の役目だ。
本来であれば、相応の儀式に従って、皇帝の御子の皆様達の中から、最も次代にふさわしきお方が新しき皇帝として選出される。そう、本来であれば。
――――――――――でも。
こちらをちらりとも振り向かずに前を進む佳人は、父君であらせられた先代皇帝陛下、そして異母兄弟であらせられた他の次代皇帝候補者の皆様すべてをその手で弑逆し、皇帝の座に就かれた。目の前の輝かしきお方が座る椅子は、血塗られた玉座だ。
反発がなかったわけではない。ないほうがおかしい。当たり前だ。けれど陛下の圧倒的な龍氣と才覚の前に、結局誰もが、「遅かれ早かれ、いずれこの方が皇帝になられていたに違いないのだから」と理解した。恐怖政治が始まるかと思いきや、始まったのは穏やかな善政。その上で、陛下が皇帝としてふさわしいと理解はすれども納得をしていない者は、皆、陛下と、彼の前に膝を折った者達によって廃された。
だからこそ彼は、『王道』と『覇道』、どちらの道をも進む『覇王』であると恐れられる。
そうして新たなる皇帝陛下となられた彼は、その戴冠の折に、慣例として、五人――ではなく、当代より四人と定められた、お妃様を娶られた。
四大貴族と呼ばれる、五星国皇帝直下の、陛下にのみ忠誠を誓う最高位貴族。
春家、夏家、秋家、冬家とそれぞれ称する一族から、最も優れた創牌師である年頃の女性が、これまた慣例通りに青妃、朱妃、白妃、黒妃という尊称を得て、皇帝の妃として後宮に入られたのだそうだ。
その婚礼の儀は、それはそれは華やかなものであり、城下でもお祭り騒ぎだったらしい。らしい、というのは、私自身はそのころ城下にいなかったため、のちほど知人から伝え聞いた話だからだ。
その時期はちょうど養父の命日の頃合いであり、ずっと手元に置いていた彼の遺骨を、新皇帝陛下ご即位を折として、以前養父が話していた彼の故郷に還すために城下を離れていた。そんなものだから、陛下ご即位の事実は知れども、それ以上の情報には興味も関心もなく、そのまま城下の下町に戻ってきても、以前通りの生活に戻っただけで、お妃様方がどんな女性かまではこれっぽっちも存じ上げないのである。年頃の女性である、ことは確かだろうけれど、それ以上とまで言われると非常に困る。
一応『後宮の女官』である私に、性別以外何一つ知られていないだなんて、この国で最も高貴なる女性の皆様にとっては、これ以上ない屈辱だろう。ここはぜひともなるべく詳しく、お妃様方について教えていただきたい。