18-② 麒麟
「お話は済んだかしら?」
あまたの死体が転がり、あちこちで火の手が上がり、爆音が幾度となく耳に届く中、それでもなお、彼女は楚々としてたおやかに、春の花のようにそこに咲き誇っている。大兔に吹っ飛ばされてから、ようやく態勢を立て直し、自らを守るようにはべる青龍の顔を愛しげに撫でながら、彼女はころころと鈴を転がすように笑った。
「ふふ、ふふふ。素敵ですこと。本当に、戯曲のようだわ。罪深き覇王と、市井のキズモノ娘の恋愛譚だなんて。本当に素敵」
こんな局面であるにも関わらず、彼女は穏やかな風情だった。春風に心地よく身を任せるように青い瞳をすがめた青妃様はそうして、にこり、と笑みを深める。
「でもその戯曲は、残念ながら、悲劇として幕を閉じるのです」
その声、その瞳に宿る、あまりにも深く大きな憎悪、悲哀、そして羨望。息を呑むほどに美しく、あらゆる言葉を奪い去るほどに悲しい姿の彼女が、何を思い、どうしてこんな凶行に至ったのか。私は何も知らないし、知ったとしてもきっと、何一つ私がすべきことは変わらないのだろう。それがお互いに解っているからこそ、青妃様は自身を守る最高傑作を最後にもう一度、より一層愛しげにひと撫でした。
「青龍、さあ、私の声に、私の龍氣に、私の想いに、応えなさい」
言葉もなく青龍がそのこうべをもたげ、長い巨体をうねらせる。いよいよ覚悟を決めるときがきたということだ。そう感じたのはもちろん夜昊様も同様らしく、無駄と知りつつも私を庇おうと一歩前に出てくださる。
その背中の、なんて大きなことか。だからこそ彼は、たった独りで何もかもを背負ってしまってきたのだ。このお方には、それが、できてしまったから。それはいっそ泣きたくなるくらい健気で、抱き締めたくなるくらいに悲しい、彼の持って生まれた才覚なのだろう。
「夜昊様」
「うん。ごめんね、宝珠。僕はもう手持ちの神牌は使い果たしている。青龍相手に通用する神牌なんてもちろん……」
「ええ、ですから、こちらをどうぞ」
「え?」
肩越しに振り返ってくる夜昊様の手に、もとは私の裾だった、黄色い布を握らせる。それを開き確認した夜昊様の瞳が、大きく見開かれた。
「これ、は」
呆然、というよりも、唖然、という風情でそれ以上は言葉にせず絶句する彼に、したり顔で頷いてみせる。よしよし、驚いていただけて何よりである。
「こちらに至る道中で描き上げた神牌……と、呼ぶには、あまりにも不出来な仕上がりでございますが。それでも、きっと……いいえ必ず、このお方はあなたに応えてくださいます」
それは予想ではなく確信だった。だってそうだろう。だってこの『神牌』は。
「私、芥宝珠めの、最高傑作にございますゆえ」
「……なるほど、それは心強い!」
軽やかに、鮮やかに、途方もなく美しく、夜昊様は笑った。
とうとう青龍が迫る。夜昊様と私を屠らんと、その牙を剥き、その爪を光らせ、その瞳を深い悲しみに彩って。そんな青龍を真っ向から見つめ返し、夜昊様は私が渡した『神牌』を掲げた。
「――――――――――来来!」
金色の光がほとばしる。どこまでもまばゆく、それでいて決して眼を射ることはない、優しい光。
青龍がその光に呑まれて身を引いて、青妃様が柳眉をひそめる。
…………そうして、夜昊様の声に応えて現れたるは、巨大な獣だ。
鹿に似た身体に、龍に似た面差し。カツン、涼やかな音を鳴らしたるひづめは馬のそれ、優美になびく尾は牛のそれ。その身にまとう黄色のうろこは金色にきらめき、背毛は美しい五色にゆらめている。何よりも目を引くのは、その額から生えたる一本の角。誰かを傷付けるためではなく、誰かを守るために存在する角だ。
皇宮中の喧騒が、そのとき、確かにざあっと音を立てて遠のいた。まさか、と、青妃様の唇がわななく。
「麒麟…………?」
そうして、青妃様は、呆然とした声をぽつんとこぼした。お見事、正解である。
そう。我が養父の最高傑作が、黄龍であると言うならば。
この私、芥宝珠の最高傑作は、輝かしき土の氣をまとう麒麟。
誰よりも何よりも慈悲深き、至高の瑞獣だ。
穏やかで優しく、殺生を嫌う存在が、本来であれば、このような場に顕現するはずがない。こんな戦場に、草木を踏むことすらためらうという存在が、どうして現れてくれようか。
――でも。
それでも、麒麟は、応えてくれた。他の誰でもなく、夜昊様のために。泰平の世、仁のある政を行う、我らが覇王のためにこそ。
麒麟が優しく夜昊様に頷き、そしてそのままその視線を、彼に寄り添う私へと向ける。
――しかたのないむすめだ。
そう心底呆れたように、諦めが大きくにじむ溜息を吐かれてしまった。申し訳ない、ごもっともである。血を嫌う麒麟が、私の血で描かれた神牌もどきによくもまあ応えてくれたものだと改めて思う。それでも応えてくれたのは、やはり繰り返すが、夜昊様のためであるに違いない。さすが覇王サマ、と笑う私の視線の先で、麒麟はまるで肩をすくめるかのような、妙に人間めいた仕草でカツン、カツンと二度ほどひづめを鳴らし、そうしてその金色のまなざしを青龍へと向ける。
そう、たったそれだけだ。たったそれだけで、青龍の身体から、一斉に花が芽吹いた。花、花、花、花。春の花ばかりではなく、四季を問わないありとあらゆる花が青龍から芽吹き、咲き誇る。
「青龍!?」
青妃様が悲鳴のように叫び、青龍に取りすがるが、そんな彼女の声に応えることもできないまま、青龍の巨体は傾ぎ、そのままどう、と倒れ伏す。
「あ、あ、あああ……っ!」
ぼろぼろと涙をこぼし、泣きじゃくり始める青妃様の姿は、今まで目にしてきた彼女の姿からは想像もできないものだった。けれど、もしかしたら、これこそが本来の彼女の姿であるのかもしれない。成長できなかった……いいや、自ら成長を拒んだ、いたいけでか弱い、幼い乙女こそが、春淑蕾というお方なのか。そんな彼女に、全身を花に包まれて、もはや本来の姿など見る影もなくなった青龍が、最後の力を振り絞ってこうべを持ち上げる。そうして青龍は、深い悲しみと、私が知りえない感情を宿した瞳で青妃様を見つめ、彼女の額にそっと口付け、そうして、そのままその姿をかき消した。
「いや、いやぁ、青龍、青龍っ! っあ、ああ、藍霞様、らん、か、さまぁっ!!」
地団駄を踏むように身もだえ、艶やかな藍の髪を掻きむしり、そして、それから、青妃様は、涙にぬれる青の瞳を、こちらへと向けた。そこに宿る光にもはや正気はない。
「淑蕾……」
怒りはなく、ただ悲しみに暮れる声で彼女の名前を呼んだ夜昊様を、壊れた青の瞳が捉える。懐に手を差し入れた彼女は新たな神牌を取り出して、らいらい、と、あえぐようにその唇をわななかせた。次の瞬間、彼女の手に現れたるは、殺意にまみれた匕首だ。それを構えて駆け寄ってくる青妃様を前にしても、夜昊様は動かない。彼女の刃を受け入れるつもりなのだとすぐに気付けた私は偉いし、夜昊様は大馬鹿者である。
――ああああっ! もう!
――この期に及んで、このお方は!!
「夜昊様!」
「っ宝珠!?」
――――――――――斬っ!!
動かない夜昊様を押しのけて前に出た私に向かって、高く振り上げられた青妃様の匕首が振り下ろされ、そのまま大きく私はばっさりと斬り付けられる。それはもうばっさりと、顔から身体にかけて、情けも容赦も一切なく。痛い、と思う間もなく、私は驚いたように固まった青妃様から匕首を奪い取った。顔色を変えて新たな神牌を取り出す彼女に、私は、匕首を向けて、そして。
「……それ、だけは、君にはさせられない」
耳元でささやかれたその声とともに、今度は私の手から匕首が奪われる。その奪われた匕首は、そうしてそのまま、夜昊様の手で、青妃様の左胸……心臓があるに違いない場所を、驚くほど静かに、いっそ優しいとすら言えるまでに容赦なく、刺し貫いた。
こほ、と青妃様の口から鮮やかな赤がこぼれて、二、三歩後ずさった彼女の身体がぐらりと傾ぐ。
私と、私を背後から抱き締める夜昊様が見つめる先で、彼女は。
「あ、あ……藍霞、様……わた、し、今ならば、あなた様と、おなじ、とこ、ろ、へ……」
それが、最後だった。青妃たる春淑蕾様は、そんな言葉を最後に、青い瞳をゆるやかに閉じて、驚くほど穏やかな微笑みを浮かべて、静かに事切れた。
今なおこの場に顕現してくれている麒麟が、悲しみとあわれみを宿した瞳で、青妃様のご遺体を見つめている。そして、私は、震えながら、それこそ縋りつくように私のことを後ろから抱き締めていらっしゃる夜昊様の腕を引きはがし、彼と向かい合う。
――あらまあ、なんて酷いお顔。
一周回って感心してしまうくらいには、夜昊様の顔はそれはそれは酷いものだった。震える手が、私の頬に触れる。とうとう涙でいっぱいになった金色の瞳が、私の顔から身体へと届く真新しい傷をなぞっていく。
「顔に、傷が……いいや、顔だけじゃない、手も、足も、どこもかしこも……っ」
「でも、生きてます」
「っ」
息を呑む夜昊様の、私の頬にあてがわれているその手に、自分の手を重ねる。大丈夫なのだと、心からそう思っているのだ、私は。この手の傷も、顔の傷も、なんてことはない。どれも命に係わるような深い傷ではないのだから。痕は、きっと、残るだろうけれど。でも、それがなんだと言うのだろう?
「生きてさえいれば、未来はあります。あなたと一緒に、生きていけます」
この言葉は、今度こそ夜昊様の心に届くだろうか。いいや、必ず届けてみせる。そう内心で誓いながら、続ける。
「あなただけが背負わなくていいんです」
季家が断絶したことも、親兄弟を皆殺しにしたことも、今こうして青妃様を手にかけたことも。二つ目に関しては、青妃様の遺言を思うと、少々疑わしいものがあるけれど、結局はなんだっていい。私が言いたいことは、伝えたいことはただひとつ。
「あなたが背負うとおっしゃる罪も、罰も、半分こしましょう? 独りでは背負いきれなくても、大丈夫ですよ、私がいるんです。私、これでも、結構力持ちなんですから」
側にいると決めたのだ。独りにしないと誓ったのだ。でも、だからというわけではなくて。ただ私が、心からそうしたいと思っているから、その通りにするだけ。そう、これは私のわがままでしかない。断られたって文句は言えない。けれど、断らせる気なんてこれっぽっちもないのだ。私を『キズモノ』にしてくれたその責任、果たしてもらおうではございませんか。
「夜昊様が私の傷を気にかけてくださるならば、むしろ重畳にございます。この傷に誓って、私はあなたを独りにはしない。あなたとともに、生きて……んむっ!?」
せっかくの決め台詞は、最後まで言わせてはもらえなかった。言葉どころか呼吸すらもすべて、夜昊様に唇ごと奪われてしまう。
ほんの一瞬とも、気が遠くなるような永遠とも思えるような、不思議な不思議な口付けだった。
そうしてようやく解放された末に、私の顔を覗き込んでくる夜昊様の笑顔は、泣き出しそうなそれではなくて、初めて見た時から何一つ変わらない、柔らかで穏やかで、それでいて途方もない歓喜を宿した、心からのそれだった。
「宝珠」
「は、はい」
「やっぱり僕は、君がいい。君じゃなきゃ、駄目なんだ」
その言葉に、私もまた、心からの歓喜を込めて笑い返す。
「光栄にございます、夜昊様」
どちらからともなく額を押し付けあい、笑い合う。それからひとたび、ぎゅ、と私を抱き締めた夜昊様は、どことなく身の置き場に困っていながらもなおこの場にとどまってくれている麒麟へと視線を向けた。
「麒麟よ、力を貸してくれるだろうか」
夜昊様の問いかけに、麒麟はいかにも「仕方ない」と言いたげにひとたび瞑目し、その身を屈めてくれる。それをいいことに、夜昊様は私を抱き上げ、そのまま麒麟の背にまたがった。
「行こう、宝珠。すべてを正しに」
「はい、夜昊様。喜んでおともいたします」
その言葉を皮切りに、麒麟は地を蹴り、宙へ飛んだ。玉座の間を飛び出して、そのまま皇宮中を飛び回り、果ては混乱が伝わっていた城下へと飛び出していく。
麒麟が宙を駆けるたび、四季を問わない花が舞う。争っていた人々は、その降り注ぐ花に触れ、こちらの姿に気付くと、誰もがその手の武器や神牌を取り落とし、自然と膝を折って額づいていく。
ありとあらゆる氣の乱れが、荒ぶっていた龍脈が、今、正しい形に整えられていく。
こちらに向けられる人々の視線はどれもうっとりと見惚れるばかりのもので、それがどうしようもなく誇らしい。ふふ、と思わず笑うと、くつくつと楽しそうに喉を鳴らす声が返ってくる。私を抱え支えていてくれる夜昊様の胸に、私はそおっと身を寄せて、そうしてほうと吐息を吐き出した。
かくして、五星国皇帝夜昊の治世における、初めての内乱は、見事平定されたのだった。




