15-① 黄牡丹
さいわいなことに、香煙牌において限界まで酷使された私の身体と龍氣は、皇宮の侍医の皆様のご尽力によって、しっかりばっちり綺麗さっぱい後腐れなく、自分でも驚くほど見事に全快を遂げた。
特に親しくなった侍医の中でも古株であるのだというご年配の男性には、「見上げた根性でいらっしゃる。陛下の熱望通りに回復してくださり、儂らも命拾いしましたわい」と呵々と冗談交じりに笑われた。褒められているのかそうでないのか実に悩ましいところではあったし、『命拾い』という言葉には完全に引きつった笑いを返すことしかできなかった。冗談にしては質が悪すぎてまったく笑えない。
そう、その、陛下――つまりは覇王サマと呼び称され恐れられる皇帝陛下、夜昊様はというと。
「この分じゃ、今日もおいでになられないわね」
身体と龍氣が万全になったならば、私がこの後宮ですべきことは決まっている。もちろん、神牌の修繕と制作だ。さすがに以前と同じ量をいきなりこなすことはできないけれど、それでも最近はそれなり以上の量の修繕と制作をこなせるようになってきたと思う。
日々届けられたるは、使い潰されてずたぼろの神牌と、新たな力を求めるまっさらな神牌。それらを今日も今日とて絵筆を振るって相手取り、一枚一枚確認しつつ、次から次へと新たな神牌を仕上げていく。のは、いいのだけれど。
「…………口付けしたっきりって、あんまりじゃないかしら」
思い出すだけで顔が熱く、そして赤くなるのを感じる。あれからもう何日も経過しているというのに、今なおあのぬくもり、柔らかさ、そこに込められた熱を、まざまざと思い出せてしまう。私が寝ぼけていたのでなければ、確かに私は、あの方に……夜昊様に、口付けを、された。口付けをされた『はず』とさらに続けたくなってしまうくらいにそろそろその事実が疑わしく思えてきているのは、あれ以来、夜昊様の姿をとんと目にしていないからである。
今まではさぞかし忙しいであろう政務の中で、それでも暇を見つけては顔を見せてくださっていたし、加えて、夜は必ず『お渡りになって』、何故か私は彼と毎晩添い寝をする羽目になっていた。
それが今やどうしたことか。まっっっっっっっっっったくと断言しても過言ではないほどに、彼は私の前に現れなくなったのだ。やはりあの、く、口付け、は、私が寝ぼけてそういうとんでもない夢を幻視しただけなのではなかろうか。幾度となくそう考え、だとしたら私はなんてとんでもない夢を見たのかと頭を抱えるしかないのだけれど……そう、だ、け、れども。
「……あら、ごきげんよう、気高き黄の鷹の君」
気付けば窓枠でその翼を休めていた、鮮やかな黄色の鷹に手を伸ばす。一目で神牌に宿る精霊の一種であると知れる彼は、ばさりとはためいて私の手にそっと移動したかと思うと、そのままその凛々しき姿を、大輪の黄色い牡丹へと変えた。なんとも見事な変化……というよりも、先ほどの鷹の本来の姿は、こちらの牡丹のほうなのだろう。彼は、元の姿に戻っただけだ。
「花言葉は、満ちあふれる活気、だったかしら。今日は改めてのお見舞いのつもりなのかしらね」
はっとするほどに美しい、鮮やかな黄色い牡丹だ。わざわざ誰がこんな真似を、なんて、誰かにわざわざ訊かなくたって解る。この後宮で私にこんな真似をしてくれる人なんて、たった一人しかいない。
「花よりも顔料のほうがありがたいのだけれど……」
どれだけ世話をしてもすぐにその花弁を散らしてしまう花一輪よりも、顔料一つ贈ってくださるほうがお互いのためだと思うのに。それなのに、彼は……私の予想、ではなく確信として、あの覇王サマは、あの口付けの一件以来、毎日毎日、飽きることなく私のもとに花を贈ってくださる。
今日は黄色い牡丹だけれど、つい先日は“徳の証”とされる蘭の花だったし、さらにその前は“身体を大切に”という意味合いが込められることが多い躑躅だった。うっかり寝坊した枕元に、“海棠の睡り未だ足らず”という逸話が有名な海棠の花が置かれていたこともあったかと思えば、そのくせ、“愛の拒絶”を意味する白の山茶花が届けられたこともあった。
もっとさかのぼって一番最初は、庚申薔薇だった。花言葉は、“永遠の愛を祈る”である。適当に選んだにしてももう少し誤解を招かない方向性の花を選んでいただきたかったものだ。うっかり私が勘違いしてしまったらどうするつもりなのだろう。
「……どうせ、どうしようもないのよねぇ」
私がどう勘違いしようとも、何かが変わるとは到底思えない。しょせん私は雇われ女官兼創牌師でしかなくて、夜昊様との『賭け』に勝ってこの後宮を出ていくことこそが私の一番の望みなのだ。そうでなくては、いけないのだ。
気付けば季節を問わないさまざまな花で、私が行動する範囲のこの黄妃宮は、なんとも美しく彩られているけれど、この夢のような光景は、文字通りの夢なのだ。どんな花を贈られたとしても、きっとそこに意味はない。そうだとも。そうでなくては、いけないのだ。
「…………でも」
そっと髪に手をあてがう。そこに挿されているのは、以前夜昊様と、彼曰くの『逢引』として城下に出かけた際に、彼から贈られた蝋梅のかんざしだ。これだけは私のための花だと、そう思ってもいいだろうか。そう思うことを、どうか許してほしい。蝋梅は目立たない花だけれど、だからこそ想い人に贈るにふさわしい花であるとして市井では扱われているのだということを、きっと夜昊様は、ご存知ではないに違いないけれど。
――私だけが、知っていればいいんだわ。
どうせ『賭け』が終わるまでの、期間限定の関係なのだから。花を贈られて嬉しいなんて思ってはいけない。本当は花なんていらないから、直接会いに来てほしいだなんて、そんなことは決して願ってはいけないのだ。
うんうん、やはり身の程をわきまえるのは大切だ。手に持ったままだった黄色い牡丹をいったん水差しに挿し、改めて絵筆を手に取って、いざ――――と、そこで、不意に気付く。
ん? と感じた違和感は気のせいではなく、拭い去ることもできずに、そのまま私の胸にどんと居座った。
――そういえば、夜昊様は、どうしてお妃様方を追い出したいのかしら?
彼は最初、なんと言っていたのだったか。これまでを思い返してみて、あ、と思い出す。そうだ。夜昊様に、御子を成す気が一切ないから、だ。
お妃様方の役目は大きく分けて二つ。まず、夫である皇帝陛下、この場合は夜昊様に、彼のための神牌を提供すること。そしてもう一つは、夜昊様の御子をその身に宿すことだ。
一つ目の役目は、今のところ、私がなんとか乗っ取ることに成功したと言っていいだろう。以前夜昊様がおっしゃっていた通りならば、現在彼が扱う神牌のほとんどは、今はもう私の絵筆によるものになっているはずだ。それは日々依頼される神牌の数からも納得できる。
でも、もう一つの役目は?
問題はそこだ。夜昊様は、御子を成す気がないからこそ、お妃様方を後宮から追い出そうとなさっている。あまりにも毎日が目まぐるしくて、その点について深く考えたことがなかったけれど……ちょっと待ってほしい。
――それは、この五星国の存続に関わる問題では?
この国が五行のことわりによって成り立っている、とは、誰もが知る事実である。かつては五大貴族がそれぞれ司る属性を守ることによって、この国は安寧を保っていた。ならば、その一角であった、土の氣を司る季家が絶えた今は?
――夜昊様が……夜昊様だけのお力が、この国の土の氣を支えている?
そう、それほどまでに彼一人の土の龍氣が強すぎるからこそ、季家は断絶に追い込まれた。夜昊様さえいらっしゃれば、この五星国の五行のことわりは調和を保ち、龍脈は平和に流れ続ける。夜昊様は皇帝として龍脈を守護すると同時に、土の氣の龍氣を一手に担っていらっしゃるのだ。だとしたら。
――夜昊様が、いなくなられたら?
彼がいなくなったら。彼の血筋が、絶えたとしたら。そのとき、この国は――――と、そこまで考えた、そのときだ。
――――くるるるっ!
「え?」
耳朶をくすぐった愛らしい鳴き声に、ぱしゃん、と、紙風船が潰されるように思考が停止する。耳慣れないその鳴き声の方向へと視線を向けると、そこにいたのは、一般的なそれよりも一回り小さい、その鳴き声通りに見るからに愛らしい鳩だった。薄紅の翼を持つその鳩は、私と目が合ったかと思うと、そのまま羽ばたいて私の肩へと止まる。
なんて懐っこい鳩なのか、と感心しつつ、すぐにその鳩もまた、神牌の一種であることに気付く。
――――くるるっ!
「あら、何かしら……私宛ての文ってこと?」
鳩の足に、淡い紅色に色づく梅の花とともに結わえられていたのは、細く折り畳まれた文だ。これも夜昊様からだろうか、と一瞬思って、すぐにその考えを否定した。この鳩に宿る龍氣は夜昊様のものではない。灯のように輝くこの火の氣、まさかそんなはずは、と思いつつ、鳩の足から文をほどいてそのまま開く。




