9-① 香煙牌
そうして、たとえ刺客に狙われた夜を明かそうが、十年前の内乱の真実を知ろうが、それでもなお、今日も今日とて私は絵筆を握って、せっせせっせと神牌を相手取るのである。
属性を問わないあまたの神牌、色とりどりの数えきれない顔料、用途によって異なる絵筆。下町で暮らしていたころでは、どれだけ欲しくても手に入らなかったものが、この後宮にはすべて揃っている。恐れ多い、とおののくのはもうやめた。今となってはもう、ありがたいばかりでございます! と自らを奮い立たせ、理想以上に理想通りの神牌の修繕と制作に携われるのが、たたただ嬉しい。
そう、それはいい、のだけれど。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あの、夜昊様」
「…………ん?」
「それほどまでに何をおっしゃるでもなくただじっと見つめられるばかりでおりますと、流石に私も緊張するのですが」
「………………僕、そんなに君を見てた?」
「少なくとも、夜昊様がこちらにおいでになってからはずっと。半刻やそこらの話ではないかと」
「…………………………そうだっけ?」
「はい」
手を休めず、不敬と解っていながらもそちらをちらりとも見ずに、ただこっくりと頷きを返す。
私が作業場として使わせていただいてる広間にやってきて以来、椅子に座るでもなくただ壁にもたれて立ったまま、終始無言かつ無表情で、じいいいいいいいっと私の作業を見つめていらした夜昊様は、ようやくその不可解極まりご自分の行動をご自覚されたらしかった。
「あれ? ううん? そう……そう、かな?」
そんなつもりはないのだけれど、続けつつ、そのままことりと小首を傾げる気配が伝わってくる。「いや自覚なかったんですか」と突っ込みたくなるのを寸前で堪えて、とうとう私は絵筆を滑らせる手を止めて、覚悟を決めて夜昊様へと視線を向けた。
ばちんっと大きく音を立てて、彼の金色の瞳と視線がかち合った。反射的に目を逸らしたくなるけれど、彼のまなざしはいっそ恐ろしいほど力強く私の視線を絡みとっていて、そのまま私は蛇ににらまれた蛙のように硬直せざるを得ない。
夜昊様はやはり無表情のまま、まじまじとこちらの顔を見つめてくる。別に何の変哲もないはずの私の顔を。いつも通り、額からあごまで走る大きな傷痕は今日もばっちり描かれており、ほんのりほどこした薄化粧は、顔料がついた手で顔をぬぐったりなんなりしていたらあちこち汚れてしまっている。うん、いつも通りの私の顔だ。
――毎日毎日、飽きないのかしら。
――いったいどういうご心境の変化なの?
そう、第二の刺客を撃退した夜以来、どうにもこうにも夜昊様の様子がおかしい。
理由は……まあ、うん、解らないでもない、のだけれど。何せ十年間背負ってきた秘密を明かしてくださったのだ。私はもう何も知らなかった、知ろうともしなかった、ただの女官兼創牌師には戻れない。
てっきり、そんな私を夜昊様は監視するおつもりなのだろうとばかり思っていた。あれ以来、ほとんど毎日、お忙しいであろう政務の隙をついてはこうしてこの宮にやってきて、じっと私のことを見つめている。
彼のまなざしはあまりにも強すぎて、そろそろ胃に穴が開きそうである。普通にとてもとても怖いのだけれど、ご本人にその気がまったくないらしいのがまた困りものだ。
そんなに疑わなくても、別に十年前の内乱について誰かに口外する気はないし、そもそもそんな相手がいないということくらい、夜昊様が一番よく理解していそうなものなのに
――この宮は黄妃宮。
――だからこそ、女官も宦官も誰もいない、後宮におけるがらんどうの宮。
そもそも少し考えてみれば解ることだったのだ。後宮において、警備の兵士すら存在しない宮が、どういう宮であるのかだなんて。
十年前から廃妃とされた黄妃のための宮であるならば当然の話だ。そして、だからこそ夜昊様が、お一人で夜を過ごすにあたって、都合のいい宮でもある。
――私がのびのび神牌と向き合えるのも、そのおかげ。
そう、それはいい……いやその経緯を考えればちっとも何もよくはないが、とにもかくにもこの宮にいるのは基本私と夜昊様だけである。
そしてその夜昊様は、あの夜以来、今日も今日とて彼は私のことばかりを見つめていらっしゃる。
今まで目にしてきた穏やかな笑顔をどこに投げ捨てられたのか、ぞっとするような無表情だ。整いすぎた麗しい美貌がそんな表情を浮かべていると、一流の職人が丹精込めて作り上げた最高傑作のお人形のようにすら見えてくる。そんな彼にじっと見つめられ続けるこの現状。繰り返すが、そろそろ胃に穴が開く。そうでなくても、もう精神的に限界だ。
と、いうわけで、本日ようやくその件について指摘させていただいたのだけれども、まさか本当にご自覚されていらっしゃらなかったとは思わなかった。
だったらなんでまた私などをご覧になっていらっしゃるのか。はて? と首を傾げ返すと、ぱっと夜昊様の白皙のかんばせに、花が咲くように朱が走る。これまたなんてお美しい……と私が見惚れる間もなく、彼は長く濃い睫毛に縁どられた瞳を伏せて、ごほん、と気を取り直すように咳払いをした。
そうして再び開かれた瞳で、彼はもう一度私へと視線を向ける。そのまなざしは柔らかく、口元に浮かぶのはいつも通りの穏やかな笑みであったから、私は内心でほっと安堵の息を吐いた。
「宝珠」
「はい」
「話があるんだ。もっと早くに言おうと思っていたのだけれど……僕がもみ消せるならそうしようと思ってね。まあ結局押し切られてしまったから、こうして君に話さなくてはならなくなってしまった。先に謝っておく。ごめん」
あちこちどころではなく全体的に不穏なご発言である。
えっそれはどういうお話ですか。ここ最近ずっと私をにらみ付け……とは言わないまでも、何やらじっっっっっっっっっと見つめていらしたのは、その件についてだったのか。なるほど、言い出しにくいお話が合って、それを口にする機会をうかがっていたのだとしたら納得がいく。このお方でもそういう躊躇をなさるのだなぁ、となんとなく感動してから、はたと気付いた。ちょっと待った。
「あの」
「ん?」
「そのお話は、つまり、私にとって非常に都合のよろしくないお話ということですか……?」
覇王サマともあろうお方がもみ消すこともできず押し切られ、わざわざ女官兼創牌師ごときでしかない娘に謝罪しなくてはならない案件。嫌な予感しかしない。そしてそういう嫌な予感というものこそ得てして的中するもので、夜昊様は整った眉を下げ、いかにも「困ったね」と言わんばかりの苦笑を浮かべた。その表情を目の当たりにした時点でもうそのお話を聞きたくなくて仕方がなくなってしまったのだけれど、夜昊様は容赦なくその淡く色づく唇を開く。
「君と、妃達で、香煙牌を開くことになった」
「……!」
香煙牌。その単語が私にもたらしたる衝撃たるや、いかほどのものか。ぴっしゃああああああん! と落雷が落ちてきたかのような衝撃である。
嘘でしょう? 冗談でしょう? そうでなかったら空耳ですよね? まさか私ごとき相手にお妃様方がそこまでなさいます?
そう重ねて問いかけたいのに、何一つ言葉にならない。何せ夜昊様の笑顔が、本当に困り切った、ほとほと途方に暮れていらっしゃると言っても過言ではないくらいに……そう、いっそ、私以上に追い詰められてしまっているのではと思えるくらいに、弱り切ったものだったから。
だからこそ逆に私は、すとんっと冷静になってしまったのだ。ああそうか、まあそうなりますよね、むしろ今までそうならなかったことのほうがおかしいですよね。そう内心で呟きつつ、神牌と絵筆を置き、立ち上がって夜昊様の元まで歩み寄る。
「お妃様方からばかりではなく、そのご生家の皆様からも、圧力がかけられた、ということでしょうか?」
「……鋭いね」
「いくら私でもそれくらいは解ります」
香煙牌、とは、皇帝陛下に捧げられる、神牌を用いた御前試合のことだ。
創牌師とその護牌官が対となり、創牌師がその場で作った神牌を護牌官が扱い、どちらがより優れた神牌術であるかを競うのだ。
香煙牌が開かれる機会は、そうそうあるものではない。もっとも代表的な例として挙げられるのが、次代の皇帝陛下を決めるために開かれるそれ。陛下の御子である太子の皆様、そして公主の皆様が、ご自身の神牌のすべ、その龍氣をあますところなく皇帝陛下にご覧に入れ、そしてその優勝者が次代の皇帝陛下となられるのである。
――……夜昊様は、その香煙牌も何もなく、玉座を強奪なさったけれど。
だからこそ彼は覇王と呼ばれる、とは、余談として、とにもかくにも、私はその香煙牌に参加しなくてはならなくなったらしい。しかも、この夜昊様の言いぶり、私一人に対して、四人のお妃様方がそれぞれお相手してくださるようだ。おそらくは、お妃様同士の試合は催されず、私一人が彼女達を相手取ることになるのだろう。
――とんだ無茶ぶりよねぇ……。
ここで私は「無理です!!」と絶叫しても許されるところなのだろうけれど、悲しいかな、その私にとっての『無理』を無理矢理押し通して『道理』になさった方々がいらっしゃる。それがお妃様方であり、彼女達の生家である春家、夏家、秋家、冬家の皆様だ。




