8-② 土竜
来来、と。夜昊様が呟いた次の瞬間、枕元に置いてあった簡易的な結界を張る神牌が発動し、私達を包み込む。その結界に、カカカカッ! と続けざまに鋭い氷のつららがぶつかってきた。
ぱりん、と音を立てて結界が破壊される。その余韻に浸ることなく、陛下は私を抱き上げて寝台から飛び降りた。ひ、ひえ、ひえええええ。うっかり舌を噛みそうになる私を部屋の片隅に追いやって、陛下は再び「来来」と唱える。その手にいつのまにか手にしていたのは、以前やってきた刺客に対して用いた武具の神牌――干将、莫耶と呼ばれる対となる夫婦剣だ。そしてそんな彼の、笑みを湛えながらも底冷えするほどに冷たいまなざしの先にいるのは、いつぞやと同じような黒衣の人物……間違いなく、私を狙った刺客である。
「そろそろだと思っていたよ。ごきげんよう、招かれざるご客人」
夜昊様の穏やかな声掛けに、刺客は答えることはなく、数枚の神牌をその手で取り出した。また黒妃様の手による水属性のそれだろう。ただの神牌の状態でもあふれ出る、すさまじいほどの水の氣。刺客はそれらを、宙へと並べるように、鋭く空気を切って放つ。
「――――来来」
男のそれとも女のそれともつかない、中性的な声が紡ぐ、召喚のことのは。放たれた神牌は三枚。それらから放たれた氷雪のうねりが絡み合い、一つになり、そうして現れたるは、三つ首の狼だ。
――複合神牌……!
こんな場合でもなければ私は、その神牌の質と、それを扱う術者たる刺客の手腕に、心からの拍手を送っていただろう。
複合神牌とはその名の通り、数枚の神牌を、ひとつのそれとして扱う術式だ。複合神牌のための神牌は、一枚一枚細やかな調整が必要とされ、それを扱う術者の龍氣の分配もまた非常に繊細である。
ぶっちゃけてしまえば、採算が取れないそれを作る創牌師なんてほとんどいないし、作ったにしてもそれを扱えるほどの龍氣を持つ術者もまた数少ない。
けれどそれでも、細々とながらも複合神牌の存在が消えないのは、その威力が一般的な神牌と比べて明らかに段違いだからだ。
そんな複合神牌を使ってまで、私の命を狙ってくるだなんて、本当に黒妃様は夜昊様にご執心でいらっしゃるのだろう。女の嫉妬の恐ろしさを想い知らされた気分だった。私と夜昊様の間に、そんな事実なんてこれっぽっちもないと知ったら、黒妃様はどうなさるだろう。……そんなことは関係がない、陛下を独り占めしているだけで極刑ものだ、くらい言われそうである。あんな可憐ではかなげな美少女にそこまで憎まれていると思うと流石に胸が痛いなぁ、なんて現実逃避をし始める私の視線の先で、三つ首の狼が床を蹴った。狙うのはもちろん私だ。身構えて懐の神牌を取り出そうとするけれど、それよりも先に夜昊様が私を背に庇い、その手の剣でやすやすと、絶対零度の吐息をこぼす狼の牙を受け止め、自らの龍氣を高めて夫婦剣にそれを送り、すさまじい勢いで狼を弾き返す。
ギャンッと悲鳴を上げて壁に叩きつけられた狼が、それでもなお諦めずに再び向かってくるが、夜昊様は情けも容赦もなかった。
「すまないね。主に恵まれなかった不運を恨んでおくれ」
月明りに浮かび上がる鋭い刃が翻る。夫婦剣が宙を裂き、そのまま狼の三つ首をたやすく落としてしまった。
――なんて、こと、を。
命を狙われていたのは私で、助けてもらったのも私なのに、ああ、と顔を覆いたくなる自分がいた。目の前で精霊が消滅する、その残酷すぎる光景は、ぶるりと大きく身震いしてもなお、かたかたと震えが止まらない。
部屋の片隅で震える私に、ちらりと金色の瞳が向けられる。そのまなじりが、困ったように細められた。唇に描かれた弧は、いつもと変わらないものであるはずなのに、どうしてだろう、どうしようもなくそれがさびしくてさびしくてどうしようもないもののように見えた。
――夜昊様。
そう、声をかけたかった。けれど私がそう口にするよりも先に、彼はいまだにそこに立つ刺客へへと視線を向ける。
おそらくは自らにとってとっておきであったに違いない複合神牌をあっさりと消失させられてしまったにも関わらず、その男とも女ともつかない黒衣の刺客からは、焦った様子は見受けられなかった。夜昊様も当然そう受け取られたらしく、彼は夫婦剣を持ったまま、ことりと首を傾げた。
「大人しく投降してくれると、手間が省けて楽なんだけれどな」
暗に、「投降しなければ殺す」と告げて、夜昊様は穏やかに微笑む。その笑顔は優しく、甘く、そして何よりも冷酷で恐ろしい。本当に器用に色々な笑い方をされる方だな、なんて、いまだに震える身体を自分で抱き締めた、その次の瞬間。
「――――――――――来来」
刺客が、動いた。
その懐から取り出された神牌から、うなりを上げて巨木の根が伸びあがり、そしてその根はどうどうと大きな音を響き渡らせながら、圧倒的な勢いで部屋を侵食していく。
――木属性の神牌!?
水属性の神牌だけではなく、他の属性の神牌まで用意していたなんて!
神牌の属性は四つあり、多くの人々が、そのうちの一角を特に得手とする属性として、その属性の神牌を普段扱う。けれど、得手とするからこそその属性を扱うだけで、他の属性の神牌が使えないわけではないのだ。目の前の刺客は、高位の水属性の神牌ばかりか、ここまですさまじい木属性の神牌まで扱えるらしい。
予想外、だった。私にとっても、夜昊様にとっても。不意打ちの驚愕はそのまま隙となり、私と夜昊様はそのまま部屋中を覆った木の根に縛られ、捕らえられてしまう。
まずいどころの騒ぎではない。これは、今度こそ詰んだのでは。やっと本格的な危機感を覚え、縛り上げられたまま冷や汗を流す私のもとに、刺客がゆっくりと歩み寄ってくる。足音はない。それがまた現実離れしていて、より恐ろしさを倍増させる。
「っ宝珠!」
らしくもなく夜昊様が叫んだ。初めて聞く、明らかな焦りを宿した声だ。かろうじて動く首をそちらへと向けると、その手から剣を木の根によって奪われて捕らえられている夜昊様が、なんとか解放されようと身をよじりながら、こちらのことを見つめている。
――ああ、なんだ。
驚いたことに、本当に、心配してくださっているのだ。私がこの場で死のうとしていることを、なんとか回避しようと、焦燥に身を焦がしてくださっている。ああ、そんな、そんなにも暴れたら、玉のお肌に傷が……ってもう遅いですね、すごい、乱れた夜着から覗く肌が、木々の荒い表面によってどんどん傷だらけになっていっている。
――そんなの、似合わないのに。
いつも穏やかに悠然と構えていらっしゃる夜昊様の意外な姿に、思わずぷっと噴き出した。その途端、「笑っている場合じゃないでしょう!」とこれまたらしくもない怒声が叩きつけられる。ええ、そうですね。そうですとも。解っておりますよ、そんなことくらい。
気付けばもうすぐ目の前に、刺客は立っていた。その手は腰に提げられている長剣に添えられていて、神牌を用いるまでもなくそれで私を切り捨てるつもりなのだろう。わざわざ夜昊様の目の前で、というところがなんとも悪趣味だ。
動けないまま、顔も何も解らない刺客を見つめる私に対して、その刺客は何も言わない。代わりに、すらりとその剣が引き抜かれる。いよいよ、ということらしい。まるで夜昊様に見せ付けるようにその剣を刺客が高く掲げる。
「……やめろ」
抵抗するあらゆる手段を奪われてもなお、夜昊様は覇王と呼ばれるにふさわしい皇帝陛下だった。金色の瞳をぎらぎらと輝かせて、そのまなざしだけで命を奪わんとするかのように、彼は低くうなる。
「もしそのまま宝珠を手をかけてみるがいい。僕の持てる力すべてをかけて、貴様を自らの血だまりの中、生ける地獄を味わわせてやる……!」
夜昊様のすごいところは、この状況でその台詞が負け惜しみに聞こえないところだろう。うっかり感心してしまった。そして、素直に、嬉しい、と。そう感じてしまった。
刺客にとっては夜昊様の脅しなんて意に介するべきのものでもないらしく、その剣がいよいよ高く持ち上げられる。そう、これが私の終わりか――――――――――それこそ、まさかだ!
「っ来来!」
懐に忍ばせておいた神牌に向かって、私は大きく声を上げた。瞬きを待つまでもなく、ほとんど同時に、もぞりと私の胸元が動く。そして、襟口から顔を覗かせたのは。
「……もぐら、だと?」
初めて感情がにじむ声……そう、明らかな困惑をあらわにして、刺客が呟いた。そう、もぐらである。私が神牌から呼び出した愛らしいもぐらは、ぽてっと地面に零れ落ちるように降り立つと、短い両手をばっと持ち上げた。
――――チュッ!
――――チィーッ!
もぐらの凛々しい号令とともに、木々の根で覆い尽くされた部屋に異変が起きる。土だ。もぐらの声に従って、めこめこめこめこめこっ! と床から土が隆起して、部屋中にはびこる木の根を持ち上げて食らい尽くす。圧倒的な質量を持つ土は、それでも私や夜昊様まで飲み込むことはなく、ただ木々の根だけを駆逐していく。すさまじい勢いだ。あっという間に自由の身になった私と夜昊様の姿に、流石にこれ以上は自らの不利にしかならないことを悟ったらしい刺客は、窓から飛び出し、夜の闇へと吞まれていった。
それをほっと安堵とともに見送って、私は足元で誇らしげに胸を張っているもぐらの前にしゃがみ込む。
「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ。謝謝」
――チュッ!
ぴっと凛々しく敬礼したもぐらは、そのまま私の懐の神牌へと送還された。もちろん、はびこっていた木の根も、それらを食らい尽くした土も、何も残っていない。きれいさっぱり元通り、というわけだ。
改めて安堵の息を吐いてから、私ははっと息を呑み、慌ててその場で立ち竦んでいる夜昊様のもとへと駆け寄った。
「夜昊様、お怪我はございま……」
「どうして」
「え」
「どうして君が、『土』の神牌を持っているんだ!?」
「っ!?」
夜昊様のもとに駆け寄るなり、皆まで言わせてもらえずに両肩を掴まれる。いつもの笑顔なんてかなぐり捨てた、怒りと驚きと、それからなぜか悲しみが入り混じる、あまりにも悲痛な表情を浮かべた美貌に息を呑む。
「や、夜昊様、それは……」
「知っているでしょう、知らないはずがない! 『土』の神牌と、それにまつわる精霊召喚は、十年前の内乱以来、禁術とされている! それなのに、それなのになぜ……っ!」
なぜ、どうして。そう繰り返して、陛下は私の両肩を掴んだまま、ずるずるとその場に座り込んだ。抗うこともできず、当然私もまた、そのままその場に座り込むことになる。そんな私を見ようとはせずに、夜昊様はそのこうべを俯かせた。
私の両肩を掴む両手が、かたかたかと小刻みに震えている。ここで「その禁術のおかげで助かったんだからよかったではないですか」なんて言えるような雰囲気ではないし、そんな台詞をこんな状態の夜昊様にかけられるほど、私は無神経にはなれない。
――十年前の、内乱。
私が血のつながる家族を失い、養父に拾われるきっかけとなった、この五星国を根底から揺るがした大事件だ。当時私はまだ八歳だったけれど、今なおあのときの国の荒れようは、まざまざと脳裏に焼き付いている。
内乱のきっかけは、とある貴族一門が当時の皇帝陛下……夜昊様にとっては父君にあたる先代皇帝に対して反旗を翻したことだった。国は荒れ、人心は乱れ、それでもなお先代皇帝陛下は内乱を平定し、反乱軍とされた貴族一門は一族郎党皆殺しされた。
あの内乱以来、禁術とされたのが、『土』の属性の神牌の制作と使用だ。なぜならば、その皇帝に逆らった貴族こそが、当時は五大貴族と呼ばれた大貴族の一角――――季家と呼ばれる、『土』を司る一派であったのだから。
土の神牌はすべて焼かれ、その制作のすべは禁止され、何もかもが禁呪とされた。現在、土の神牌を作ることができる創牌師は数えるほどにもいないだろうし、たとえ作ることができたにしても、それを実行に移す者はいないだろう。私のような、例外を除いて。
「……先ほどのもぐら……土の精霊の神牌を作ったのは、宝珠、君だね?」
「…………はい」
「ならば問おう。答えなさい。君に、創牌のすべを教えたのは、誰?」
嘘も偽りも決して許さない、無慈悲にすら見えるそのまなざしには、それでも確かに悲しみが宿っていた。だから私は、たとえ罪に問われることになったとしても、彼に、夜昊様に、正直に答えようと思った。
私の神牌のすべて、その起源。それらを私に授けてくれたのは。
「私の、養父です。その姓を芥、名を塵と申します」




