何じゃこりゃ!
燃える海!粘土人間!主人公は混乱気味です!
ジェル状の海が燃えだしたのだ。その炎は風を起こすくらい勢い良く、空気を破裂させるような音をたてた。そして、その炎は見渡す限り瞬く間に広がっていき、海と砂浜の境目をはっきりと映し出した。
海が燃えだすと同時に、岩男の髪が風圧で後ろに靡き、頬にも熱を感じた。岩男は反射的に立ち上がると、予想もしていなかった現象に驚く間もなく、涙交じりの叫び声を上げると、本能のまま必死になって逃げ出した。めり込んでくるさらさらとした砂に足をとられながらも、汗を吹き出しながら必死で足を動かして、燃え盛る炎から逃れるように反対側を目指した。
無我夢中で、とにかく自分が燃えないようにしばらく走っていくと、砂浜から五メートルほど盛り上がった、傾斜のきつい丘陵に差し掛かかった。炎の勢いが増したのだろう、目の前が明るくなり、海に沿って長く横に伸びている丘がはっきりと分かる。自分の影が丘に長く延びる。
岩男は砂丘を上り切ると、反対側に転がってすぐに身を伏せた。とにかく身を隠さなければと思ったのだろう。彼はしばらく頭を抱えながら震えていたのだが、もう特に熱く感じなくなり、自分が炎から逃れたのを確認すると、さっきいた波打ち際を見ようと、肩を震わせながら恐る恐る頭を突き出した。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
見渡す限りの海が、遠く見えなくなるまでオレンジ色の火柱を上げながら、燃え盛っていたのだ。
全てが燃えている。
さっきまで漆黒の世界だと思っていたその場所は、すっかり明るくなり、その世界がよく見渡せた。二メートルほどの炎が海面を余すところなく蹂躙している地球上の海が、全部炎に包まれている様な状態だ。その勢いは強く、燃え尽きる様子はとても感じられない。
それと対照的に、灰色の砂浜が左右に永遠と見えなくなるまで繋がっており、今自分がいる砂丘も海岸から三十メートルほど離れたところに並行して広がっている。
陽と暗の世界。
岩男は思わず立ち上がって、それに見とれてしまい、開けた口をふさぐ事が出来ないまま、体を動かす事ができずにいた。
自分がこの光景を引き起こしたなんて実感出来ない。
一体、なんなんだ!
俺は何をしちまったんだ!
岩男の頭に、その二つの問いが目まぐるしく飛び交い、ぶつかりあって弾けた。普通これだけ燃えていたらこの距離でも熱を感じそうであったが、不思議とそれはなかった。しかし、風圧は感じて髪を揺らしているし、耳元では風が唸っている。
言葉も出ないし、ただ圧倒されてしまう。
美しいとはとても言えないけど、一度も見た事のない光景は壮大であり、岩男は心を掴まれてしまい瞬きさえしなかった。
はっきり言って、楓の事も頭には無かったし、仕事も生活の事もまるで頭から吹き飛んでしまう。
それほどの衝撃であったのだ。
しばらく砂丘の一番高い所で立ち尽くしながら、そんな心理状態であった岩男であったが、自分の後ろから何やら声が聞こえた気がした。空耳だと思っていたが、その声は徐々に大きくなっている。だが、燃える海に意識を向けていた岩男には、そんなの今更どうでもいい事に思えた。これ以上の何が一体何が起こると言うのだ。
しかし、その低い声は迫ってくるように大きくなってきて、岩男も無視出来なくなり、すぐに後ろに振り返った。
そこには、いつからいたのかは分からなのだが、たくさんの人間達がいた。岩男のいるところから五十メートルは離れているだろうか。燃える海の明かりは、やっとのことその人達の所まで届いているので、岩男にもハッキリとその様子が見えた。
その人達は何かを取り囲むように座っていて、中心に向かって何やらお祈りでもしているかのように、腕をあげたり、頭を下げたりしている。目を凝らしてよく見てみると、中心には二メートルほどある大きな水晶の塊のようなものがあり、それが炎の明かりに照らされてオレンジ色に輝いていた。その人達は、それに向かって跪きながら、何かお祈りらしきものを唱えている。百人ほどいるだろうか、皆同じように声を揃えているので、轟くほどのかなりの騒音だ。
岩男はあまりの驚きに尻もちをつきそうになったが、近くに人がいたと言う安心に、無防備にもその集まりに駆け寄っていった。
これで助かるかもしれない、岩男がそう思いながら、その人の輪の一番端までほんの三メートルほどまで来た時、中心の水晶が急に青白く光りだし、地鳴りがしだした。
岩男は思わず立ち止まり、辺りを窺った。
すると、祈りをささげていた人達は、祈りを唱えるのを止め、一様に辺りを窺いだした。水晶は輝きを増し、小刻みだった地響きは、徐々に激しくなり、岩男は立っていられなくなった。近くにいた人達に目をやると、片膝をついて、天を仰いでいた。
すると、岩男とその人達を取り囲むように、砂の中から四本の大きな柱が、まるで植物の芽が生えるように飛び出して来た。柱は頑丈な岩で出来ているのか、灰色の砂とは違う材質の様だ。
岩男は尻もちをつきながらそれを見上げていたが、また、大きな振動が起こり、それと同時に、岩男とは反対側にまた地面から何かがせり出してきた。岩男には、それがはっきりと分かった。
それは、王座であった。
人が座るにはあまりに大きいのだが、風化した石灰岩の様な石で出来たひじ掛けの付いた荒削りの岩椅子が、四本の柱から少し離れた所に、二メートルほどの高さがある舞台を伴って現れたのだ。
大地の震えが止み、一瞬の静寂が訪れると、そこにいた人々は立ち上がり、一様に中心に視線を向けた。その視線の先には、未だ振動を続けている水晶があり、大きく揺れ動くと共に、内部から亀裂が走って、透明だった水晶は全体的に白く網目状になった。
岩男は恐怖のあまり声も出せずに水晶を見ていたが、ゆっくりと立ち上がると無意識にその人の輪に歩いていた。傍にいた人間は、岩男が近づいた事に気がついた様子は無くて、ただ、ひび割れた水晶だけを見ていた。
岩男は何が起こっているか話をしようと、彼らに視線を向けたが、そこで初めてしっかりと、オレンジ色の光に照らし出されていた人々の横顔を見て、思わず声をあげそうになった。
彼らは粘土の様な肌をしたおり、無表情な仏像の様な顔をしていたのだ。
どの人間を見ても、表情が変わらないし、眼も見開いているのかも分からないが、確かに動いているし、一様に中心の水晶に意識が向けられているのは感じる。東洋的なのか、西洋的なのか分からない服装やその顔立ちは、まるで、コンタクトを売ってきた老人の様にも思えるが、岩男の近くにいる人はもっと若々しい感じだ。背も岩男より少し高いし、逞しい体つきをしている。
今気がついたが、そこにいるのは男だけで、女はいないようだ。いったい何人なのだろう、岩男には分からない。
しかし、岩男は気を取り戻すと、恐る恐る一番近くにいたその若い男に話しかけようと、肩を叩こうとした。
その、時だった。
突然、真っ白に細かいひびが入った水晶が青白く輝きだし、氷河が崩れていくような音を立てながら、表面が剥がれ出して、次々と欠片を飛ばしていった。
それと同時に、粘土のような顔をした人たちが、一斉にあの燃えている海の方に顔を向けだし、すぐに一目散に駆け出した。
岩男は突然の事に付いていけなくて、彼らの勢いに押されて尻もちをついてしまった。彼らは岩男を避けながら、迷いもしないで海に向かっており、誰もが岩男を取り残して走り去っていった。そして、彼はその勢いにのまれる様に、その後についていった。
岩男はその粘土色の肌をした人間達の後をついていき、さっき駆け下りてきた丘を戻るにつれ、青白い光が丘の向こうから放たれているのが見えた。
さっきまでオレンジ色の光を放っていたのに、何で青い光になったんだ?
岩男はそう思いながら、粘土の肌をした人達に追いついて頂上まで駆け上がっていくと、先頭にいた人達が丘にそって横に広がりだして、立ち止っていった。
岩男も肩を上下させながら息を吐き出すと、その人々の塊をかき分けて、前の方に進んでいった。
彼らの視線の先には、青い炎が燃えていた。
さっきまでオレンジ色に燃え盛っていたのに、今は炎こそ落ち着いたものの、海一面が青い炎に包まれていて、辺りを青白く照らし出していた。
それは息を飲むほどに、美しい光景だった。
青白い炎に照らし出された粘土の様な顔を見比べながら、岩男はいったいどうしたのだろうと辺りの様子を窺ったが、誰も動く様子も、口をきく様子もなく、ただ燃え盛る海を見ているようだ。
若者や、少し年を取った者、あのコンタクトを売って来たような老人もいて、様々な年齢層の男がいるようだが、誰もが同じような、擦り切れてぼろぼろになったような服を身に付けていた。昔見た事のある、アジアの何とか民族の伝統衣装の様だが、岩男にはついに思い出せなかった。
しかし、女のような体つきの人は見当たらない。
場違いな自分の服装が急に不安になってきたが、他の人はそんな事を気にしている様子もなく、岩男に関わっても来なかった。
すると、突然岩男の隣の若者が、海を見つめながら口を開いた。
「来る!」
彼がそう言って、青く燃えた海に向かって指さすと、周りの人間達がその方向に一斉に視線を向けた。
勢い、岩男もそちらに向く。
よく目を凝らすと、そこには青白く燃える海があるだけだ。
何が来るんだ?
そう心で呟きながら、岩男は不安を押し殺しながらも、首を伸ばして目を見開いた。
しばらくドキドキしながら見ていると、海の彼方から、何かが少しづつ近づいて来るのが目に入った。
それが何なのかはさっぱり分からないが、点ほどの大きさのそれは青い炎の海を割りながら近づいてきて、岩男達の方を目指しているようだ。
船か?しかし、それにしては大きい。
やがて、それははっきりと形を現して来て、岩男の目にも捉える事が出来るようになった。
それは、白い龍だった。
龍は燃える炎をものともせず、悠然と海上を進んでくると、浜辺の近くでその動きを止めた。かなり大きな体をしており、とても長い首を空高くそびえさせていた。それは、青白く燃える海辺から、岩男達がいる砂丘まで届くほどの長さだ。
ただ、龍と言っても、角があったり、鱗があったり、頭を緑の毛でおおわれている訳ではなくて、もっとすっきりとした感じだ。表面はすべすべと凹凸がなく、鼻先には髯が生えているけど、口に牙は無かった。頭の天辺に若干の白い鬣が見え、眼は大きい黒眼であったが、まるで女の子が描いた絵の様な眼である。
そんな龍は、青白い煙を吐き出すと、ゆっくりと岩男達のいる砂丘に首を伸ばしてきた。驚く事に、その頭の上には、一人の色白な女が乗っている。
岩男はもしかしたらと思い、そちらに一歩踏み出してよく目を凝らした。朝比奈楓かと思ったのだ。
しかし、そうではなかった。
龍の頭の上に乗っていたのは、透けるような透明の衣をまとった、白磁のように真っ白い肌をしている、これまた男達と変わらないように無表情な顔をした女だった。彼女は龍の頭の上で、仁王立ちして、龍の頭の上から男達を見下ろしていた。
彼女は一見してとても美人であり、プロポーションも文句が着けようがないほど均整がとれている。しかも、その体はほぼ丸見えであるのだ。へそがあるようには見えなかったが、後の部分は全部岩男の視界にとらえられている。
しかし、岩男は一瞬興奮したものの、どうしても違和感を拭えなかった。それは、その女が、まるで、陶器で出来た人形の様にしか見えないからだ。よく出来た人形である。
ただ、その女は確かに生きているようで、男達の前に来ると大げさな身振りをしながら、衣を払った。そして、龍が動きを止めると、龍の首がさらにゆっくりと伸びて来て、彼女は岩男のすぐ近くまで近づいてきた。
近くで見ると、やっぱり美人だが、どう見ても人形である。
「火を付けたのは誰?」
陶器の女の、透き通るような甲高い声が響いた。
すると、粘土色の肌をした男達は顔を見合せながら、ざわざわと口々に何かを言い合っていた。動揺しているようでもあり、恐れているようでもあり、困っているようでもある。明らかに、その女に敬意を払っているようでもあるし、女もそれを当たり前に感じているようだ。誰もが犯人を探すかのように、お互いの顔を見合っている。女の問いかけが、男達の全ての様だ。
岩男はその様子を感じ取って、これは黙っているほかないと決め込み、そっと、男達の影に隠れようと後ろに移動しようとした。間違いなく、こんな事になったのは自分の責任だ。煙草をあの海に捨てたから、火がついたのだから。