美女と異世界へ!
その向こうに何が待っているのか?
それはとんでもない世界なのでした。
すると、楓は目を吊り上げて腕を組み、岩男を見据えるように睨みつけてきた。視線が氷の女王そのものだ。
「何?きもやげるなぁ。男なのに。私の田舎じゃ、屋根から飛び降りれて一人前何だからぁ。この、じくなしがぁ!」
早口で、しかも方言交じりで、吐き捨てるようにそう言ってきた楓に、岩男はあっけにとられたが、彼女の目は真剣そのものだ。
「じくなしって?」
「はんかくさ!意気地無って事よ!」
そう言って目を逸らされて初めて、岩男は自分が馬鹿にされた事に気がついた。
「何だと!俺はビビって無いぞ!」
そう言って立ち上がった瞬間に、岩男は目がくらくらして倒れそうになった。それを見て、楓は眼を細くして冷たい視線を送ってきたが、一つ溜息つくと腰に手をあてた。
「とにかく、私はいぐ!」
急に言葉が訛りだしたのは、童心に帰ったからだろうか?
雪がそうさせた?
とにかく、今の楓を引きとめる術は、岩男には皆無に等しかった。ただ、黙ってそれを見ている訳にはいかない。
「じゃ、じゃあ、他の人に声かけてからにしようよ」
岩男の腰ぬけ度百パーセントの言葉には、楓が反応する訳がなく、彼女はただ下を覗き込むだけだった。岩男は居心地悪くなりながらも、下を覗き込むと、恐る恐る口を開いた。
「本当に飛ぶの?」
楓は無言で頷いた。
その眼は恐怖の色に染まっている訳でもなく、逆に嬉しそうな光を止めど無く放っていて、不安のかけらも感じられない。その眼を見ていると、引き込まれてしまい、なんだか自分もその気になってきてしまう。
だんだん、彼女がすべて正しいように感じられて来たのだ。
「君が飛ぶなら俺も飛ぶ!」
岩男は思わずそう口にしていた。楓は優しくほほ笑みながら「そう」と口にすると、もう一度下を見て口を開いた。
「じゃあ、行くわよ!」
「え!?もう?」
岩男は腰を竦ませた。
「当たり前じゃない、行くって決めたんでしょ?」
「だけど・・・その、そんな急になんて。もう少し・・・」
「あぁ、煮え切らない!行くの?行かないの?どっち?」
岩男は恐怖心に体中が震えて、思うように言葉が出てこなかった。命がかかっているから、当然である。
しかし、楓はそんな岩男の迷いを待っているほど気が長くは無かった。彼女は岩男に顔を近づけて、耳元で叫んだ。
「どっち!?」
岩男は体を飛びあげて、泣きそうな顔を楓に向けたが、彼女にはそんな男心は通じていないようで、ただ、眼を吊り上げながら苛立ちを露わにしていた。ただ、それでも岩男がぐずぐずして渋っていたので、楓はついに耐えられなくなった。
「行くわよ!」
「いや、でも・・・」
岩男は顔をひきつらせた。本心は絶対に行きたくない。しかし、それが言葉に出てこなかった。
「あぁ、もう!」
楓はそう声を上げると、岩男の手を握り、有無も言わさず引っ張ると、思いもよらない行動になすがままの彼を傾斜につき落とした。
そして、自分もそれに続いた。
静寂を切り裂くような岩男の悲鳴と、楽しそうな楓の黄色い声が響いた。
岩男が尻をつきながら滑り落ちていく隣を、楓は立って走りながら、すぐに追い抜いて行った。そして、瞬く間にビルの端にたどり着くと、体を大の地に広げて、突き抜けるような歓声を上げながら一足先に飛び降りていった。
一方岩男は、恐怖に顔を引き攣らせながら、悶える事も出来ずに,
為す(な)術もなく傾斜を駆け降りると、今まで見てきた、小さい頃からの記憶が頭の中を駆け巡り、急に周りのものがスローモーションに見えたかと思うと、宙に舞っていた。
瞬間的に自分は死ぬと思った。
体が宙に浮き、その反動で一回転すると、茜と同じように体が大の字に広がった。
次の瞬間、目の前に真っ白な壁が!
そして、すぐに柔らかな衝撃が体を包み込み、それと同時に、自分の意識も薄れていくのを感じた。
岩男が目を覚ました時、一番初めに感じたのは、頬をさらさらと伝う冷たい感触であった。何かサラサラとしたものに倒れているようだ。岩男は反射的に指を曲げると、そのサラサラとしたものを両手で握りしめながら、ゆっくりと顔を上げた。
雪?
岩男は一瞬そう思ったが、すぐにそうではないと気がついた。
それは砂だった。正確には砂だと思う。
何しろ真っ暗であり、何も見えないのだ。しかし、雪とは違うし、岩男の記憶はこの感触から、去年行った砂丘を思い出させた。
辺りを窺っても、まったく視界が取れないし、音も聞こえない。岩男は慌てふためきながら体をまさぐり、安全を確認してみた。幸いな事に、特に痛みも感じないし、体に問題はない様だ。服もちゃんと着ているし、財布も煙草もそのまま身につけている。
自分の身の確認が出来て一応の安心を感じたのだが、その安心はすぐに周りの暗闇に飲み込まれてしまった。
どうする事も出来ない状態に、岩男は困惑と恐怖で体を縮こまらせた。いったい自分はどこにいるんだろう?雪の上に落ちたはずなのに。そこで、岩男はもう一人いるべき存在に気がついた。
そう言えば、彼女はどこかにいるのだろうか?
「おーい!」
岩男は立ち上がると、大声で叫んだ。しかし、声を出した先から、岩男の声は漆黒の闇に吸い込まれる。
「おーい!朝比奈!」
もう一度大声を出して楓を読んでみたが、まったく何の反応もない。すぐ近くにいる気配もしないし、聞こえるのは自分の荒々しい息づかいと、心臓の鼓動だけだ。
いったいどこなんだろう、ここは?
まったく見当がつかないが、地とも目が暗闇になれやしないし、とにかく不安が付きまとってしまう。岩男は肩をとして、力無く首を振りながら尻を砂に着くと、大きく溜息をついた。上を見上げても、星の一つも出ていない。
このままだと、目が見えているのか、いないのかさえ疑ってしまいそうだ。なので、少しでも心を落ち付かせようと、煙草を吸う事にした。火を持っている事が幸いである。
岩男は胸ポケットから煙草を取り出すと、慣れた手つきで一本だけ抜き取り、ポケットを探って使いこまれたジッポを手に取った。
寒くなんてないのに震える指先でやっと口に煙草をくわえると、右手でジッポを持って真鍮のふたを開けた。カチンと音をたててふたが開くと、その瞬間、ライターオイルの匂いが鼻をついた。そのせいか、何故か急に切なさが込み上げてくる。
岩男はそれを振り払うかの様にフリントを擦ると、落ち着かない手で煙草に火を付けた。
とにかく、大きく煙を吸い込む。そして、ゆらめくオレンジ色の火を見ながら煙を吐き出した。少しだけ気持ちが落ち着いてくる。寒くないのに震えていた指先が、少しだけ治まってくる感じだ。
しばらく煙を吹かしていた岩男だったが、ふと思いついたように上体を起こすと、火が付きっぱなしのジッポを片手でかざして、辺りを照らしてみた。何か分かるかと思ったのだ。もっと早く気がつくべきだったと思いながら、遠くに眼を凝らすと、十歩ほど離れたところを砂と違う何かが動いているのが見えた。
何だ?生き物じゃないみたいだけど。
岩男は警戒しながらも煙草をくわえて、四つん這いになってそれに近づいていった。ゆっくりと膝で砂を擦りながら、恐る恐るそれにジッポをかざす。
「何だ、こりゃ?」
目の前に広がる光景に、岩男は思わず声を上げた。
そこには、灰色でジェル状の海が広がっていたのだ。それは波となって、不思議と音も立てなくて砂浜にゆっくりと打ち寄せている。
しかし、ジェル状だからか海の様に深く打ち寄せては来なくて、ぷるぷると震えているみたいだ。近づいても濡れる事もなさそうなので、岩男は立ち上がると触れるところまで進んだ。
岩男がライターを持っていない方の手でその波に触れてみると、髭そりジェルの様な感触が指先に絡みついてきた。鼻先に持ってきて匂いを嗅いだが、特に匂いもしない。しかし、なんか気持ち悪くなって、岩男は慌てて砂に指を擦りつけてこそげ落とした。
なんだか、不快な物質だ。触っているだけで気持ちが悪い。
岩男はそんな事を思いながらも、いい加減ライターが熱くなってきたので、片手でふたを弾いて火を消した。
すると、再びあたりに闇が広がり、ただ一つ、もう短くなった煙草の小さな火が、心細く瞬くだけになってしまった。
波打ち際から少し離れた所に座って、しばらく煙草をふかしながら、何も考えないようにただ煙を吐いていると、途端に心細くなってきた。
なんでこんな事になってしまったんだろう?
いったい何が起こってしまったんだ?
誰か助けてくれ!
そんな震えるような心の叫びは、やがて苛立ちへと変わり、岩男は「くそ!」と吐き捨てると、火のついた煙草を打ち寄せるジェル状の波に投げ込んだ。
すっかり短くなったタバコはクルクルと回りながら、その赤く消えそうな火を灯しながら、波打ち際に落ちていった。
その瞬間、とんでもない事が起こった。