ビルの上の緊張!
美女は我が侭な者です。しかしそれが許される、それが美女なんです!
この展開、もしかしたら、もしかして。手とか繋げちゃったりするんじゃないの!?岩男は一人勝手に盛り上がった。すると、楓が岩男に顔を向けてきた。そして、愛くるしい笑顔で、白い歯をのぞかせると、猫なで声を出してきた。
「あなたが先に行って❤」
そう言って、楓は前に手を掲げた。岩男は一瞬意味が分からなくて彼女と見つめ合ったが、全てを悟ると、頭を掻きながら苦虫をかみつぶしたような表情で、しぶしぶ先に立って歩き出した。
なんだよ、まったく。可愛い顔してるからって。仕方ねぇなぁ。
岩男はスーツの裾を気にしながらも、黒い革靴で足元を踏み固める様にしながら、楓を先行しながら雪の中を進んだ。
案外深いところもあるし、何度か足を取られながらも、二人はしばらく会話も交わさないまま歩いた。すると、視界が徐々に広がりだし、ビルの境目が分かりだしてきたので、岩男は慎重に足を運びだした。スピードが緩まったので、それはすぐに茜にも伝わり、背中越しに彼女が顔をのぞかせているのを感じる。
「そろそろ、気をつけないと」
岩男がそう言って楓の方に向き直ろうとした時、途端に左足が深みにはまって、岩男は情けない叫び声を上げた。一瞬体中に恐怖を伴った電撃が走り、顔も引き攣って体を硬直させた。
「大丈夫?」
楓は軽く声をかけながら、ただ左足を膝下まで埋めてよろけそうになっている岩男の隣を素通りしていった。岩男は「だいじょぶでしゅ」と空気を漏らしたような声を出した後、体中から噴き出してきた冷たい汗を感じて、ゆっくりと足を雪から引き抜いた。
岩男がそうして、楓の後を付いていくと、すぐに雪が切り立っている所に出た。楓は腰に手を当てながら、ただその下の様子を窺っている。岩男も覗いてみると、屋上に三メートルほど積もった雪がかなり急な傾斜を作りながら、ビルと空の境目の先で切れているのが見えた。一歩でも踏み出したら、すぐにビルから転げ落ちてしまいそうである。
二人は並んでそれを見ていたが、恐怖で顔をひきつらせている岩男とは対照的に、楓はすっかり嬉しそうな顔をしていた。
楓は尻が濡れるのもかまわずに一番端の切れ間に腰かけると、岩男も隣に座るように促してきた。
岩男は遠慮がちに少し離れて座ると、少しだけひんやりしたが、スーツにしみ込んでこないのでそれほど冷たいとも感じず、深いにもならなかった。
「綺麗ね」
楓がそう言ったので、岩男も遠くに目線を映した。
いったいどれだけの雪が降り積もったのだろうか?今になって現実的にそう感じてしまう。何しろ、雪は二百メートル以上あるであろうこのビルをすっかり埋め尽くしており周りの他のビルもあらかた飲み込んでいたのだ。二人がいるところと雪原までは、三メートルあるかないかくらいだろうか。岩男達のビルより高い建物の窓に、人が動く気配もするが、屋上にいるのは二人だけしかいないようだ。
岩男は高いところがあまり得意ではないので、そこに座るのが精一杯で、体を声バラして、思わず楓にしがみつきたくなった。しかし、楓が先に口を開いてきたので、岩男は寸でのところでそれをやめた。
「私、雪国の生まれなの」
楓のピンク色の血色のいい唇が、気分よさそうに開いた。
そんな事、初耳だ。大体まともに口きいた事無かったっけ。認識されてなかった位だし。
岩男は必要以上に体を強張らせながらも、それに返答した。
「そ、そうなんだ。知らなかった」
岩男は口に手を当て、わざとらしい咳をすると、何度も瞬きしながら言葉を続けた。
「俺、同じフロアーで働いてる下田、下田岩男。よろしく」
岩男がそう言って手を差し出すと、彼女は手を出す事もしないで遠くに視線を送った。
「子供の頃、よく雪掻きした。屋根にも上ったのよ」
「え?」
岩男は差しだし立ての行方に戸惑いながらも引っ込めると、彼女はそんな岩男を気にも留めないで、自分の世界に入るかのように話を続けた。
「降り始めの雪は、柔らかくてふうわしてるの。こんなにさらさらじゃないけど、似てるかも。結構、豪雪地帯じゃない、うちの田舎って。だから、一階が雪に埋まる事もしばしばなの」
「はぁ」
「それでね、二階に届きそうなくらい雪が積もった時は、そこに飛び降りて遊んだりしてたのよ。でもね、ふかふかしてるから全然痛くないの。あなた、したことある?」
楓はそう言って無邪気な笑顔を見せたが、岩男は無言で首を振った。岩男は彼女の話の展開が、まったくチンプンカンプンだった。大体、岩男の田舎では雪は降らない。
エンヤの曲でもバックで流れそうなロマンティックな景色が広がっているのに、この女は何を話し始めているのだろうか?
そんな、岩男の感傷はよそに、楓は話を続けた。
「私って無鉄砲だから、とんでもない事する事がよくあってね。一度だけ、自分の家の屋根に上って、降り積もった雪の上に落ちてみた事があるの。ふふふ、落ちた後、父親に散々しかられたけど、あれほど楽しかった事は無かったなぁ」
楓は昔を思い出し、懐かしむように口元を緩めた。
なるほど、楽しい子供の頃を思い出していたのか。一瞬嫌な感じがしたのは気のせいだったか。
しかし、美しい。
雪が似合う美女と言うのは、間違いなく彼女の事だろう。
岩男は楓の横顔を見ながら、すっかりとその美しさに見とれていた。心を開いているかのように昔話を始めた彼女を見ていると、表面の美しさからは感じられない親しみも湧いてくる。結構、いい子なんじゃないか、岩男はそう思った。だから、相槌を打とうと口を開きかけると、突然彼女が立ち上がった。
「決めた!」
拳を握りしめながら、決意を固める楓を見上げながら、岩男はびっくりしたように声を出した。
「な、何?」
一瞬嫌な予感が背中を走った。すると、楓は緑色の綺麗な眼を見開きながら、体の前で両方の手を握りしめながら、形のいい唇を動かした。
「飛び込みましょう!」
「え?」
岩男は、楓の言葉が何を意味しているのか、まったく理解できなかった。飛び込む?どこに?
「うずうずしてきた」
楓は興奮したように頬をピンクに染めている。
「え?何しようとしてるの?」
「決まってるじゃない!ここから雪原に飛び込むのよ!昔屋根から飛び降りたみたいに、ここからダイブして見るの。一緒に飛ぼう!絶対気持ちいいって!」
その眼は真剣そのものである。然し、岩男は驚きに口を開けたまま、岩男は恐る恐る下に目線を向けた。
ここから飛び降りる?正気か?三メートル弱はありそうだ。
「マジ?」
「当たり前じゃない!」
嫌な予感は的中したようだ。岩男が明らかに拒否の表情を浮かべると、楓は岩男を、ひいては自分を鼓舞するかのごとく腕をぶんぶん振った。
「だって、最高じゃない!ここまで降り積もった雪に飛び込むのよ?こんなに誰もした事無いわ、絶対!こんな景色から雪に飛び降りるなんて!」
楓は興奮を隠しきれない様子だったが、岩男の体は震えあがっていた。絶対正気の沙汰じゃない!雪が積もってるって言っても、ここはビルの屋上で、しかもその雪は他の人には見えないって言うのに。二人しか見えない雪なのに、何を根拠にそんな大それた事を言い出しているんだ?
もし普通に飛び降りたら、間違いなく命は無い!
なのに、この女は・・・。
「絶対、やめた方がいい!」
岩男は首を激しく横に振り、声を震わせながらそう言った。