いい買い物でした
さぁどうなるのでしょうか?
老人は言葉を続けた。
「このコンタクトをつけてごらんなさい。あなたの望む事が起きるはずですよ。満たされてないあなたに、きっと何かが起こるはず」
老人の言葉を受け、岩男は疑いの目を老人にぶつけた後、手の持っていた眼球ケースに視線を向けた。
「嘘だぁ」
思わずそう声を出した。カラーコンタクトをつけて、いったい何が変わると言うんだ。そんな話聞いた事ないし、大体この状況がもうありえない。こんな怪しい言葉に惑わされるなんて、いくら酔っているとは言え引っ掛かるほど馬鹿では無い。なので、岩男は怪しさを感じて、緩やかにだが老人から離れようと体を逸らして、立ち去ろうとしたのだ。
すると、老人が素早く反応した。
「あなたの持っているそれ!」
老人は声を張り上げ、岩男は思わず自分の手を覗き込んだ。彼はケースをしっかり握ったままだったのだ。岩男はすかさず、老人にそれを差し出したが、老人は落ち着いた様子で、顔と同じような血色の悪い色をした細い手で、弱弱しく岩男の持ちケースを指さしてきた。体を固まらせる岩男の耳に、甲高くしゃがれた声が響いた。
「これはヴァイオレットカラー。あなたの希望を導く」
俺の希望を導く?この紫色のコンタクトレンズが?真っ直ぐに自分を見つめてくる老人の言葉が、思いがけず岩男の心に響いた。
すると、老人は畳み掛ける様に、違うケースを岩男に差し出し、持っていた紫色のコンタクトのケースと取り換えた。
「これを見て!ルビーカラー。あなたの欲望導きます!」
岩男は真っ赤な眼球を持たされたかと思うと、導かれるままにそれを眺めた。透明な眼球に、透き通る様な赤いコンタクトがはめられている。これが、俺の欲望を?どうやって・・・。驚きと好奇心で黙ってしまった岩男に、老人は黄色の眼球のケースも、恭しく目の前にかざしてきた。
「これはイエローカラー。あなたの本能を導く。どれもこれもあなたが望む世界を見せてくれるはずです。本当ですよ」
老人の表情はそれほど変わらないが、その言葉には力が込められており、岩男には真実味を帯びているように感じられた。自分の望む世界を見せてくれるだなんて、荒唐無稽ではあるのだけど、老人の顔を見ているとそう信じてしまいそうになる。
しかし、コンタクトをつけるだけで、そんな事起こるか?
当然の疑問が岩男の脳裏をかすめたが、老人の言葉に嘘を感じられないのが不思議であり、その謳い文句には少なからず心が動かされていた。不信感よりも好奇心の方がうわまっていたのだ。これらのコンタクトをつけたら、いったいどんな世界が見えるのだろうか?一つ言えるのは、老人の言っている事は、うっぷんが溜まっている淀んだ心持である岩男が、今一番求めている事であるのは間違いない。だんだんと酔いが増してきた頭の中で、その興味は徐々に膨らんできた。気分が乗ってくる。岩男は口元を歪めながら、老人に座ったような目線を送った。
「それで、じいさんは俺にどうしてほしんだ?」
岩男がもつれた口調でそう言うと、老人は微笑みながらこくりと頷くと、しゃがれた声で岩男の手からケースを取り上げた。
「これ、一対五万円でどうだい?」
岩男は目を丸くして、体を震わせた。五万?何言ってんだ、このじいさんは?頬の熱が一瞬飛んでしまい、俄かに体が震えた。ぼったくりもいいところだ。
岩男は否定を強調させるように、顔の前で手を振った。
「あほか」
そう言って、今度こそ立ち去ろうとすると、老人は岩男の腕を掴み、慌てて声をかけてきた。
「わたしゃ,お客は選んで商売する方なんだ。嘘は言わない、つけてみなさいよ。あんた、今の人生に不満なんだろ?もっと心沸き立つような時間を過ごしたいんだろ?あんたを見てすぐに分かった。これをつけたら、それがかなう。間違いない」
「そんな訳の分からんものに、五万も出すほど馬鹿じゃない!他をあたってくれ」
岩男がそう言って、老人を睨むと、彼は少し考えを巡らすように眼を泳がせた後、何かを思いついたように手を打った。そして、岩男に縋りつくように近寄ると、耳元でゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、試してみたらいい。そうじゃ、好きなのを試しに付けてみて、それで納得したら、後で代金を払ってくれたらいい。そうしたらいい!」
老人はそう言って、納得したようだったが、岩男の方はそうはいかなかった。今になってこの老人にのこのこと付いてきた事を後悔してきていたし、金の話が出た時点で面倒臭い事になりそうな予感はしていた。それに、タダより高いものはない。
ふらふらしている程酔っているとは言え、この頃には岩男も若干の冷静さを持ち合わせていた。
「そんな怖いもん、試す気になれないよ。金もらっても嫌だね」
岩男が顔を顰めながら、ふらふらと老人から体を話すと、酒臭い息をたっぷりと老人に吐き出した。すると、老人はめげる様子もなく、もう一度岩男をテーブルの上に導き、ずらりと色違いのコンタクトの入ったケースを並べると、それらに恭しく手をかざした。
「どれでも好きなのを持って行っていい。あなたにあげよう。一個だけ選んで、付けてみたらいい」
老人は、そう言って岩男の顔色を窺ってきた。彼が自信ありげに体を逸らしているのがなんとなく腹が立つが、綺麗に机に並べられたケースを見ると、やはり気になってしまう。彼が金の話さえ出してこなかったら、何の迷いもなくつけてしまいそうだ。暗がりに照らし出された色とりどりの眼球を眺めると、自分の眼につけなくても、オブジェとして部屋に飾っても御洒落かもしれない。まあ、見せる人なんて誰も思い浮かばないけど、自分で眺めていても面白いかもしれない。きっと、部屋の雰囲気も変わるだろう。
いや、単純に自分の眼につけても、顔の印象が変わるくらいはするだろう。どんな色を付けたって、派手な目の色になるのは間違いはないのだから。仕事に行く時は考えられないとして、休みの日につけてみたら面白いかもしれない。誰も気がつかないだろうけど。
だが、老人の言うような、世界が変わるほどの事が起こるとは想像出来してもいなかった。そんな事信じられないし、いくら大金を積んでもコンタクト如きにそんな力があるはずがない。まあ、くれると言う様なものだから、貰っておくだけ貰っておくのもいいかもしれない。
そんな事を考えながら、岩男が老人の様子を窺っていると、ふと、老人の上着の胸ポケットから透明なケースが出ているのが目にとまった。老人は粘土色の手に白い息を吹きかけながら、自分の自慢の品物を岩男が早く選ばないかと待ち構えているようだ。
岩男はゆっくりと上半身を持ち上げると、うつろな目で老人のポケットからはみ出ているケースを見ながら、手袋をはずしながら口を開いた。
「じいさんのそれ」
「え?」
老人はとぼけたような声を出したが、岩男は構わず言葉を続けた。
「いや、胸ポケットのそれ。それもコンタクトなんだろ?ちょっと見せてよ」
すると、老人はそれをポケットの奥にしまいこもうと、慌てて手を添えるそぶりを見せたが、ゆっくりと顔を上げながら岩男と目を合わせると、口元を歪めながら困ったような顔をした。
「これですか?いや、これは」
老人のしまったという気持ちが、酔いのまわった岩男にも手に取るように分かった。それが、岩男の心を刺激しないわけがない。
「何それ?何、何、何?ちょっと見せるくらいいいでしょ?自分で、俺が好きなの選んでいいって言ったじゃん」
岩男は勝ち誇ったような顔をすると、老人の胸ポケットに指を突き立てた。
「俺はこれが気になる。見せて」
すると、老人は口ごもりながら、小さな声を出した。
「いや、これは、勘弁して下さい。その、ちょっとねぇ」
その様子がなんとも苛立たしい。言いかけた事を途中で「やっぱり言わない」と言われている様なもどかしさで、岩男の気持ちがすっかりそのケースに注がれてしまった。
「いいから見せてよ。別に、見たからってどうにもしないって」
岩男はそう言って、しつこく指を突き立てた。すると、老人は少し考えた後、おずおずとそのケースを胸ポケットから取り出した。そのケースにはやっぱり、眼球が入っているようで、岩男の視線はそれに集中していた。老人の粘土色の手がそれを扱う様子は、他のものを扱う時とは違うように見える。
なんだ、このケースは?コンタクトだろうけど。隠しているだなんて、きっと特別なものに違いない。さてはじいさん、これだけは取られたくないと思って隠していたんだろうな、きっと。
岩男はうっすらと笑みを浮かべながら、何食わぬ顔で老人に手招きした。そして、まだ渡し渋っている老人に、手を差し出した。
「もったいぶるなよ」
老人はそう言われて、渋るように顔を揺らしながら、ゆっくりと岩男の手元にケースを差し出した。
すると、岩男は勢いよくそれをふんだくった。老人は驚いて体を震わせたが、目を丸くして岩男を見ながら、声をかけてきた。
「見るだけですよ。ケースから出したら・・・」
老人がいい終わらないうちに、岩男の手は動いており、しめしめと口元を歪めるや否や、得意な顔をしながらケースを開けてしまった。そして、老人が「あっ!」と声を洩らすのも構わずに、少し老人から距離を取ると、有無も言わさずに片方の目にコンタクトをはめ込んでしまった。
「あぁ、そんな」
老人が力のない声でそう言うのを聞きながら、さっさともう片方の目にもコンタクトをはめ込んでしまうと、岩男は老人に向き直った。
「試すだけ、試すだけ。じいさんの言う様な事が起こったら、金持ってきてやるから。この辺にいるんだろ?」
すると、意外な事が起こった。話を聞かずに勝手な事をした岩男に、老人はコンタクトを取り返そうとも、岩男に抗議をする事もなく、もうその事には興味がない様子で岩男の顔を見ていた。
そして、彼は力無く肩を落としながら岩男にしゃがれて、甲高い声をかけてきた。
「それは、緑のコンタクトです。その・・・、あまりにも特殊だからお勧めしたくなかったけど」
言い含めた様な話しぶりだったが、岩男は有頂天に答えた。
「それって、特別って事だろう?」
「え?ええ、まあ」
老人はそう言って、ため息交じりに頷いた。そんな老人の顔が悔しそうな表情に感じられて、岩男は少しだけ優越感を抱くと、嬉しくなった。特別な物をくれると言うのだから、案外拾いものなんじゃないかと思いながら老人を見ていると、彼の気が変わらないうちに離れた方がいいと思った。時間が経つと、惜しくなって変なこと言ってこないとは限らない。
すると、やっぱり老人が話しかけてきた。
「それはセットになっていて、もうひと・・・」
そら来た!岩男は慌てて老人の言葉を遮ると、有無の言わさず老人の手を取り力強く上下に振った。
「いいから、いいから。分かった、分かった。サンキュ―!ありがとう!」
老人はされるがまま、岩男に腕を乱暴に扱われたが、文句を言う事もなくそれ以上口を開く事はなかった。見た感じ、その顔は無表情だが、肩の荷が下りたように穏やかにも見える。
一方、岩男は老人が煩い事を言ってこないのをいい事に、彼から足早に離れると、振り返りもしないで歩いて行った。老人から顔を背けた途端、いいもの貰っちまったとほくそ笑むのを抑えもしないで、元来た道を帰って行った。
一人その場所に残された老人の表情は窺えないまま、岩男が立ち去ると同時に、その場所を照らしていた明かりは消えた。
コンタクトをタダで手に入れ有頂天に顔を歪ませた岩男は、ふらふらとしながらも駅に向かい、通い慣れている地下鉄に乗りこんだ。終電の近いこの時間帯にしては、やけに空いていてすぐに席に座れた。外の寒さが嘘の様に暖かい車内にいると、自然と瞼が閉じてくる。酔いのせいもある。しばらくしないうちに、岩男はうとうとしだして、気がついたら寝ていた。
目が覚めると、自分の駅を四つも乗り過ごしているではないか。慌ててホームに飛び出ると、真ん中に設置されているベンチに腰かけた。またやってしまった。寒くなると、いつも乗り過ごしてしまう。アルコールと寒さと電車は、岩男にその答えを導いてしまうのだ。三駅と言う中途半端な距離がそうさせているのかもしれない。
気を落ち着かせようとスーツの胸ポケットから煙草を取り出そうとして、その手を止めた。地下鉄のホームで煙草を吸うなんて、何慌ててるんだか。しかし、気を静めるのに、煙草はとても助かるものだが、外に出るまで我慢しておかなければならないだろう。幸い、電車がすぐにやってきたので、今度は寝ないようにと思いながら岩男は乗り込んでいった。