終りの後は何故か切なくて
そこに何かを見出したなら、ずっと信じてみよう!
そこに何も無くても、あなたは何かを見つけ出すはず!
そう、あなた自身の何かを!
そして、新しい世界をまた、見つけ出すのだろう!
頑張っていきましょう!
だから、仕方なくケースを開けると、二つ並んだ金色のカラーコンタクトを覗き込むと、ごくりと唾を飲み込んだ。
本当に付けていいのか?
前の緑の奴も話に乗せられて付けたばかりに、今自分はこんな世界に放り込まれてしまったんじゃないか!今度これをつけたら、いったいどうなってしまうか、まったく予想がつかない。
今やすっかり興奮も醒めているので、再び危険をともなう事への不安も無くはない。きっと、楓が自分を受け入れてくれさえしていたら、全然違った展開になっていたかも・・・。
なんて思っていると、すかさず楓の怒号が飛んだ。
「あなた、早くしなよ!」
体を震えさせながらも、さっきは名前で呼んでくれたのになんて思いながら、岩男はしぶしぶコンタクトを付けた。楓はすっかり両目がゴールドになっており、急かすように岩男を睨みつけている。
「どう?」
そう言われて、両目にコンタクトを付けた岩男が辺りを見渡すと、すぐに驚いて尻もちを付いてしまった。
「うわぁぁ!」
楓はよくこんな場所に立ってられる!
岩男の目の前に広がっているのは、白く波打っているは青い海だったのだ。その海が眼下に広がっていて、岩男と楓は二畳ほどの岩場にいる。二人は四十メートルほど切り立った崖の頂点におり、後は見渡す限り、荒れ狂うように波立つ海ばかりだ。
要するに、二人はマッチ棒みたいに海に突き立てられた島の上にいるのだ。
岩男が尻もちをつくのも無理はない。危うく、楓の足に縋りつこうとしたいのを寸でのところでこらえて、ゆっくりと起き上がると、涼しい顔をしている楓に向き直った。
「今度はなんだろ?」
震えた声で岩男がそう口にすると、楓は遠くを見ながら首を振った。吹きつける風で、ライトブラウンの長い髪が靡いている。
「分からないわ。でも・・・」
「でも?」
前に見た顔で、楓は口元をゆるませた。
「なんだかわくわくするわ。私、海好きだし!」
何で嬉しそうなんだ、この女は!岩男は首を振って答えた。
「そう言う問題?」
楓は澄ました顔で、こくりと頷いた。
「また、新しい物語が始まるかも」
やけに嬉しそうにそう答える楓に、岩男は呆れて大きく溜息をついた。一体、これから何が始まるって言うんだよ?こんな断崖絶壁の孤島の上で?呆れてものが言えない。
しかし・・・。風に靡く髪の毛と、白い肌の彼女の横顔はあまりに美しかった。ゴールドに光る瞳が、水平線から昇りかけている日の光に照らされて、眩しく輝いている。
まさに、ビーナスそのものだった。
岩男はゆっくりと、彼女に肩に手を回そうとした。
先の戦闘は、岩男の中に積極性とある種の自信を持たせたようだ。攻撃こそ最大の防御なり。
岩男は今まさに攻撃を仕掛けようとしていた。
しかし、またしても先制攻撃されてしまった。
「あれを見て!」
楓が足元の海を指差した。口を開く切っ掛けを奪われ、伸ばした手もかわされた岩男は、言われるがままに彼女の指先に視線を移した。そして、息を呑んだ。
そこには、直径百メートルはあるであろう大きな渦が、物凄い勢いで波しぶきを立てながら、辺りに爆音を轟かせて回転していたのだ。螺旋状に蠢くその海流の中心は、海面より十メートルほど下がっており、全てを飲み込む口の様にその存在を露わにしていた。怪物そのものだ。
岩男が口を半分開けながら隣にいる楓を窺うと、楓はいつか見た様なキラキラとした目で岩男に微笑返してきた。
そして、無言の訴えをしている。岩男は素早く反応した。
「いやだよ!」
岩男は激しく首を振りながら楓を見たが、彼女はただじっとゴールドの瞳を向けてきた。そして、可愛さをまんべんなく使って、口を開いた。
甘えるような声と共に、岩男の顔に言葉の棘が刺さる。
「怖いの?」
この女にそう言われたら、岩男に断れるわけがない。
岩男は歯を食いしばり、涙目になりながらも、もう一度崖の下に広がる、途方もない大きさの渦に目を向けた。
絶対死ぬ。ただ事ではない。信じられない光景だ。
でも、隣で目を輝かせている人は、そんな事露ほども感じてない様子だ。
「私、小さい頃よく海に飛び込んだのよ!すごい高い所から」
雪国の生まれじゃぁ無かったのか?岩男の疑問は、すぐ楓の言葉にかき消されていった。
「高い所から飛ばれなきゃ、近所の子供達から・・・」
「バカにされんだろ?」
岩男はそう言って、口元を緩めた。
「そう言う事」
楓はそう言って、岩男の手を握った。
「あの時、格好良かったよ」
「え?」
岩男は眼を広げて、楓の横顔を見た。楓は遠くを見ている。
「私を守ってくれたでしょ?最後の最後まで」
この女は・・・やっぱり分かってくれていたのか。岩男は嬉しさと興奮で顔を真っ赤にしながら、楓の手を強く握り返した。そして、空いている方の手で楓の肩を抱き寄せようとした。
「当たり前のことしたまでさ」
歯の浮くようなセリフも、今の岩男にははっきりと言い切る事が出来た。何しろ、自分はやることをやり切ったのだから。眩しい日の光が、岩男の頼りなげな頬を照らした。
「私、本当は最後まであなたがやられちゃうんじゃないかと思ったのよ」
楓が頬を桃色に染めてそう言って来るのを、岩男は無言で受け止めた。確かに途中は危なかった。
「でも、あなたは勝ち残った。私の為、そうでしょ?」
楓はそう言って、岩男の顔を覗き込んできた。陶器の女達よりもきめ細やかな頬と、ぷっくりとした唇が岩男のすぐそばで揺れている。岩男は鼻息を荒げた。
「そうだよ」
自分のことで精いっぱいであったことなど今や昔。とにかく自分は勝ち抜いてきたのだ。自分の恐怖を知る粘土人達ももういない。 すると、楓がその場に坐り、岩男も隣に座る隣に誘った。
「こっちに来て」
岩男は導かれるままに隣に座った。自然と胸が高鳴ってくる。彼女から漂う少し汗交じりの、自然な香りにすっかり心が参ってしまう。そんな岩男に火を注ぐかのように、楓はピッタリと体を寄せてきた。
「私、強い人好き」
岩男は自然と楓の肩に手を廻した。すると、驚く事に楓は拒否しなかった。陶器の女とは違う柔らかい感触を指先に感じて、岩男は恥ずかしさと共に、そこに楓がいる実感を心に刻みつけた。楓の髪の毛がサラサラと鼻先に舞い、岩男は鼻息を荒げた。
「朝比奈さん!」
すると、楓はうっとりとした顔をしながら、岩男を見つめてきた。「楓って呼んで」
それは、もう、とろけるような声である。二人は息を吹きかければ感じるほどの距離でみつめあっており、すでに岩男の両腕は彼女の背中に回っていた。岩男は全ての事を忘れて、ただ楓の事だけを見ていた。聞こえるのはただ、渦が波を切り裂く音だけ。金色に輝く二人の瞳。楓のピンクの唇。二人の荒い息使い。
岩男はたまらず、楓の顔に言葉を吹きかけた。
「楓」
その時である。
あろうことか、尻からガスが噴き出る音がした。
それもとびきりの奴である。
巌は楓の顔を覗き込んだ。緊張が緩んだのだから仕方がない。タイミングを考えないのが閉まりの悪いところだ。
岩男はどうしていいか分からず言葉も出ないが、二人の間を漂うその頭を揺さぶる様な臭気は、おのずと答えを導いてしまったようだ。屁の音が悪いのか、その匂いが悪いのか、あるいはその両方か。
楓は何も言わずに崖に歩きだすと、何か声を掛けたそうな岩男に構わず、岩場の縁まで進んでいった。
むろんその表情は岩男に窺えない。怖くて見れたものではない
そうは言っても、岩男もつられてそこまで進んで行った。
「楓?」
岩男の呼びかけに、彼女は答えなかった。
「あの、その、なんて言うか・・・ごめん」
岩男が情けないような声を出して、彼女に近づこうとすると、彼女は海の方を見たまま、二本の指で岩男を呼び寄せた。
岩男はすぐさま隣に並んだ。直立不動である。
「落ちて」
剣のある楓の声が、岩男の耳に飛び込んできた。
「え?」
「ここから、あの渦に落ちて」
岩男は下を覗き込んだ。とてもじゃないが怖くてどうしようもない。
「俺から?」
楓は頷いた。
「当たり前でしょ!」
岩男は体を縮こまらせて、恐る恐る楓の横顔を窺った。
「そんな、俺・・・」
「うるさい!」
楓は取りつく島がないようだ。おならぐらい誰だってするじゃないか。岩男はそう思ったが、彼女には通じないようだ。どうにも納得できないらしい。
「その、そんな事もあるよ」
巌がそう言うと、楓は真っ赤な顔をしながら、彼を睨みつけてきた。岩男は驚いて顔を引き攣らしたが、おずおずと彼女の傍に歩み寄った。
「誰にも言わないで!」
楓がそう言ってきたので、岩男は頷いた。
「言わないよ。楓が屁をこいたなんて」
岩男がそう言うと、彼女は彼の両腕を掴んで、崖に突き落とそうとした。足元から、小石がじゃらりと音を立てて落ちていった。
「絶対に言わないでね!」
「わ、分かったよ!絶対に言わない!誰にも言わない!約束するから!だから、落さないでくれ!」
岩男が慌ててそう懇願すると、楓は彼を崖のヘリから自分の方に引き寄せた。そして、顔を岩男に近づけると、呟くようにその顔に息を吹きかけた。
「絶対言わない?」
目が真剣だ。岩男は何度も頷いた。
「絶対言わない!」
「約束する?」
その金色の瞳は、岩男のピュアなところまで届いた。
「約束する!」
岩男がそう言うと、彼女は岩男の背中に手を回して、その唇に口づけをしてきた。思いもよらぬ事に岩男はびっくりして体を硬直させたが、楓が止めるつもりがなさそうだと分かると、自分も彼女の背中に手を廻した。激しい接吻である。
二人はお互いに唇を離した。そして、しばらく見つめ合った後、おもむろに楓が口を開いた。
「行くわよ」
行く?どこに?
「え?」
楓は下を見下ろした。
「行くわよ」
楓の言葉を理解した岩男は慌てて口を開いた。
「その、やっぱやめない。これから、その、あれだ。二人の思い出を・・・」
岩男が恐怖と期待の入り混じった顔でそう言うのを遮ると、楓は首を横に振った。
「行くわよ!」
「無理!無理!だって・・・」
岩男が首を振って拒否して、つないでいた手を離すと、彼が話し終わる前に楓は飛び込んで行った。
「うわぁぁぁ!!!」
思わず叫び声をあげて下を覗き込むと、楓は真っ直ぐに渦に中心に落ちている。
岩男は天を仰ぐと「まっ、仕方ねぇや!」と言って、同じように崖から飛び込んで行った。二人はきりもみしながらも、導かれる様に渦の中心に飛び込んで行った。
楓はなにもかも忘れる様な嬉しそうな顔で、眼を見開きながら。
岩男は今までの行いに後悔して、顔を引き攣らせながら。
二人の物語が、今始まろうとしている。
さて、ここから始まる物語は、また二人の退屈を上手に刺激して、満足させるのだろうか?岩男はもう懲りているようだが、楓はどうなのだろうか?すごく知りたいとは思う。現状を当たり前に感じない世界に行くと、現状が異常にすら感じられて、もとの世界には戻れないと言う。異常が正常に、正常が異常に。どちらの世界を行き来するのも、本人の意思次第なのだろう。
楓はそれを選んだ。
では、岩男は?
それを望んだのだろうか?ただ流されただけ?
いや、彼はちゃんと、自分の意志を持っていたと思いたい。
なぜなら、正常の中で自分の異常に気が付き、異常の中で自分の正常に気がついた彼が、一番欲していたものに向かう事が出来たのは、彼の決断に他ならない。
何かを欲すと言うこと自体が、それに対して決断していると言う事なのだから。
人は何かを欲しなくてはならない。
そして、何かを決断するのだろう。
それが何かは、岩男の様に異常に生き、正常に気がつく事で見えてくるのかもしれない。
もしかしたら。
たぶん。
いつの日か。
おしまい