緑のカラーコンタクト
老人は色々な物を売っています!
とは言っても、予定がなければ、いつもそのバーに寄っている。会社帰り近くの牛丼屋で一人腹を満たした後、家に帰る前にここに来るのが日課で、その時間に行くと丁度カウンターの隅が空いているので都合がいいのだ。変なもので、自分の席が出来てくると、そこじゃないと嫌になってしまう。まあ、常連客の来る時間帯や、彼らが座る席は暗黙の了解がなされているから、ほとんど同じ場所に陣取る事は出来る。だけど、たまに一見の客が来ると、自分の席に座っていて、非常に腹が立つ事はある。瞬時に、俺様を差し置いて、お前如きがなんで座ってるんだと、感情が沸騰してしまう。年上だろうと、女だろうとそう思うし、機嫌が悪い時なら尚更だ。
だからと言って、そこでその感情が顔に現れる事はまずない。小心者の岩男に、強い自己主張を求めるのは酷なものであるからして、それとなく違う席に腰かけるのだけど、やはりそこには決まった人が座る事が多いから、彼が来てしまうのではないかと思って一向に落ち着かない。マスターの気分が良くて、そこに座っている客によっては、岩男の事を思って声をかけてくれる時もあるが、そんな事はめったにない。別に、この店は岩男を中心に回っている訳では無くて、むしろマスターを中心に回っているのだから、当たり前だ。この店に来たての頃は、自分もよく席をどかされたものだが、それは岩男が彼にとってそう言いやすい客だったからだろう。都合のいい客と言う事だ、今のところ。
まあ、その日は問題なく自分の席に座る事が出来ていて、岩男は肘をつきながらバーボンで喉を痺れさせていた。一人顰め面しながら彼が考えていたのは、その日に会社で上司か大目玉をくらった事、そして、同じフロアーのアイドル、朝比奈楓の事だった。
上司に怒られたのは、完全に岩男のミスである。大事なプレゼンの資料の一部に不備があり、相手と自分達の立場が逆に示された資料を渡されて現場に向かった上司は、相当な恥をかいてその場を終えたらしい。岩男から言わせたらミスはミスだけど、そんなの自分で気がつけとは思ってしまう。けど、もちろん口には出せなかった。全部任せっきりにしてくる上司だから、本当に気を使うし、資料作りは嫌になってしまう。たまに、そんな仕事を振ってくるから、こちらも準備が整える事が出来ないんじゃないか。最近は自分を差し置いて後輩と上司との関係がいいのも、まったく面白くない。だから、同じ課の女の子達の態度も、自分を見くびってくるように感じてしまう。だけど、悲しいかな査定を決めるのは上司である彼なのだし、色々と言いたい事はあるのだけどそれを押し殺して謝っておかなければ後が怖い。サラリーマンの弱いところだ。岩男の会社は組織がでかい分、人間関係がうまくいかないと会社で日の目を見る事はまずない。小さい所よりも、必要とされる割合が分散されてしまうのだ。嫌なら他がいると言う訳だ。
そんな事があった日だったから、酒が進まないわけがない。いつもよりピッチが速いのは否めなかった。マスターもそれに気が付いているだろうが、声をかけてくるほどお人よしでも無いし、むしろ商売、商売、飲んでくれる方が助かるというものだ。岩男としては、うるさい事言ってくるマスターよりも、この店のマスターみたいに黙って出してくれるのは、その時はありがたい。後で、恨みたくなるのだけど。
その時も間を開けずに、バーボンのロックを五杯は飲んだだろうか。たぶん、その四杯目位だと思う。
仕事のミスの代わりに、朝比奈楓が頭に浮かんできた。
彼女は同じフロアーだけど、違う課で働く女性で、年は二十三らしい。容姿端麗、性格冷血、要するに高根の花だ。見た瞬間、自分とは縁のない人間だと分かる、彼女はそんな女であり、他の女子社員とは比べ物にならない存在だ。岩男は課が違う事もあって一緒に仕事をした事も、話した事もなかったが、会社に来れば彼女の事が気にならない事はない。むしろすぐ、自然に目で追ってしまう。明らかに、会社のマドンナであり、アイドル。だけど、それに甘んじなくて、媚びないところがまたそそられる。
岩男以外の男性社員だってそう思っているのだ。彼女は彼らの話題の常連はだし、憧れの的であるのは間違いない。自分に自信のある男達は、妻子がいようが、彼女がいようが、よくアタックを仕掛けているらしい。
ただ、会社内の色っぽい噂には疎い岩男も、彼らのその試みが成功したという話は聞いた事がない。そんな事があれば、すぐに広まってしまうのに、一度も聞いた事がない。それどころか、彼女は付き合っている人がいない、と聞いた事があった。不思議な話だが、そうらしい。
しかし、それがいけない。まったくまずい事だ。要するに、彼女がそんなフリーな状態だからこそ、岩男みたいな男なんかでも、もしかしたらなんて淡い期待を抱いてしまう。傍から見たらバカげた話であったとしても、岩男みたいな男は一パーセントの可能性でもあれば、黒と考えてしまうのだから仕方がない。むしろ、いてくれた方が期待しなくて済むと、そう考えてしまうのが岩男だ。
こんな日みたいにアルコールが回った頭に彼女の姿が浮かぶと、ついつい変な妄想をしてしまう。自分と彼女がつきあって、そして、裸で抱き合うのだ。もちろん、彼女は自分にぞっこんだし、艶っぽい言葉を投げ中てくる。子猫が甘えるように膝の上で転がる彼女を、岩男は余裕の面持ちで撫でるのだ。時々、尻をたたいたりもする。そうすると、彼女は喜ぶのだ。岩男の頭の中では。
そんな感じだから当然気分がいいのだし、酔いが回っているから本人は気がつかないのだろうけど、一人カウンターでニヤニヤしている彼は、気持ちがいいものではない。簡単に言うと、気い持ちが悪い。誰も話しかけやしないのも納得だ。マスターだってそう感じてはいるけど、口にはしない。
だから、岩男も気がつかないけど、そんな事はどうでもいいのだ。ただ、そうやって妄想を浮かべる事が唯一と言っていい楽しみなのだから。どう考えても現実味が無いところが、逆にストーリーを立てやすいのだろうか?岩男が酒に酔っていない時に思い浮かべる妄想は、ドラマ仕立てみたいに筋書きがあったりする。もちろん、主役は自分で、ヒロインは朝比奈楓だ。例えば、偶然エレベーターで乗り合わせた時、後ろからはがいじめるのだが、彼女は嫌がらず、むしろ喜びに顔を歪ませて自分を求めてくるとか、偶然帰りが一緒になって岩男が何気なく食事を誘うと、彼女は当たり前のようにいい返事をして、しかも、会社から離れた所で自分の腕をとって寄り添ってきたりとか、突然訪れる彼女のピンチに自分がさっそうと現れて、スマートに、そうまるで007の様になんなく助けに入るとか、そんなあり得ない話が彼の頭の中では整合性を伴って進められていく。大体、彼女のピンチが何かすら明確ではないし、自分にそれをカバーする実力がない事も分かってはいるのだけど、そう考えるだけでたまらない。
これを恋と言うなら、そう呼ばれても彼は心の中では否定しないだろう。むしろ、そう呼ばれる事を望んでいるかもしれない。ただ、口にする時は強がって否定するに違いなかった。酔っ払っていたらどう答えるか分からないが、そんな時に彼に声をかける人はまずいないだろう。岩男はそんな男なのだ。
その時も、いい加減酔っ払って、妄想の中でも酔っ払いだしたので、泣く泣く重い腰を上げたのだが、マスターに珍しく「大丈夫?飲み過ぎじゃない」と声を掛けられても「れんれん、平気っす!歩けますから」なんて言って、よろよろと前に進むと、つんのめって植木鉢にぶつかりそうになった。あまりに酔っ払っている岩男に、店にいる他の他常連も怪訝な視線を送っている。
マスターはそれ以上何かを言わない人だから、岩男がちゃんと財布を取り出すのを確認すると、仕方ないなと言う顔をしながら入口までつきそってくれた。彼は仕事にそつがない。
千鳥足で手を振ってサヨナラする岩男の視線には、ぼんやりとネオンが感じられ、全ての世界がスローモーションだ。今年の冬は例年よりも厳しい様だけど、そんな冬の寒さも、酔っている体にはそれほどこたえないものだ。岩男は白い息を吐き出しながら、ふらふらと歩きだした。
地下鉄でたった三駅の所にある家までは、歩いてだって帰れない事もないが、終電までには十分な時間がある。なにもこんな寒い日にわざわざ一人で暗い夜道を歩く事はない。岩男の意識は迷わず通い慣れた駅への道をたどっていた。明日も仕事だ、早く帰らないと。
頭がぐらぐらと揺すれながらも、岩男の意識は間違いなくそこに会った。しかし、もうすぐ地下鉄乗り場のある大通りに出ると言う時に、不意にその意識の行き先を遮られてしまった。
路地裏から誰かに声をかけられたのだ。
「ちょっと、そこの人」
岩男は反射的に振りむいた。酔っ払って無かったら、こんな所で声を掛けられても無視するのだけど、アルコールが気分を大きくさせていた。見ると、髭を生やした老人がいる。酔いのせいか、彼の顔は二人にダブって見えるけど、確かに年老いた男がそこにいて、自分の方を見ていた。西洋的なのか、東洋的なのか分からない風貌で、街灯の照らし具合のせいか、元々肌の血色が良くないのか、老人の顔は粘土のような色をしている。岩男には,それがまるで人形の様に見えた。表情もどこか動きが無い。しかし、彼は口を開いた。
「あなた、こっちに来なさい。いいものを見せてあげよう」
白い息を吐きだすその老人は、民族衣装の様なものを羽織っていて、岩男が見ても薄着であまり着こんでいないようだったが、寒さに震えている様子はなかった。身なりは汚くはないけど、あやしい感じは十分するし、だいたい場所と時間帯も考えものだ。それに、いいものを見せると言われて、いいものを見た経験がない。
ただ、その老人の口ぶりは、酔っ払った岩男の好奇心を震わせるのに、また何か面白い事を予感させるに十分ではあった。だから、岩男は導かれるままに老人の後を付いていった。そこで、冷静になれるほど、彼の飲み方は甘くなかったのだろう。岩男は老人に導かれるままに後に続いた。とは言え、付いていったと言ってもほんの五メートルほどである。
老人はアスファルトの路地の隅に、赤ちゃけた布をかぶせた木の机を用意していて、その前に岩男を手招きした。
「ちょっと見てごらんなさい」
老人はそう言うと、徐にスイッチを押して、明かりをつけた。店の軒先らしく、その庇に付けられたむき出しの白熱灯が、岩男の目を照らし出した。すると、眩しさに目を顰めた彼も、徐々に視界を取り戻し、傍らに佇む老人とその机の存在をはっきりと視界にとらえた。そして、思わず声を上げそうになった。
そこには、一対の剥き出しの目玉が、不規則に五組も並べられていたのだ。ケースに入れられた眼球は、明かりに照らし出されて不気味に光っている。岩男は思わず老人を見て顔を引き攣らせるが、老人は笑みを浮かべるだけで意にも返さない様子だ。声も上げられない岩男をよそに、彼はその眼球の入ったケースを一つ手に取り、
「びっくりしなくても、これは作りもの。それよりも、見てほしいのはこの目の部分ですよ」
そう言って、それを岩男に渡してきた。恐る恐る手に取ったそれはなるほどよく出来た作り物で、ちょうど眼球が二つ入るくらいの透明なケースの中に納まっていた。角膜の部分がはっきりとブルーになっている。青い目の眼球と言うところか。
「コンタクトですよ。カラーコンタクト」
老人はそう言って、他のケースも渡してきた。赤、紫、茶色、黄色、緑のカラーコンタクトがはめられた眼球の入ったケースを見ながら、流石に岩男も頭を捻った。なんだこれは?正直そう思ってもおかしくはないだろう。
そんな岩男の顔を見て、老人は鼻から抜けるような笑い声を上げながら、肩を揺らした。
「びっくりしましたか?」
「そりゃあ、こんな気色悪いもの見せられたらな!」
「気色悪い?よく見てごらんなさい、綺麗でしょ?」
老人はそう言って、そのケースを一つ明かりにかざした。釣られて岩男もそれを覗き込む。目と目の間に赤い明かりが照らし出して、岩男は確かに綺麗だと思ってしまった。
「うん、まあ」
岩男がそう言って軽く頷くと、老人は耳元でひそひそと声を出した。老人の声は、岩男の心にスッと染みてきた。
「あなたは、今人生に満たされていませんよね?そうじゃありませんか?」
深く刻まれた横筋の皺を額に浮かべる老人は、岩男の心を見据えるような眼を向けてきた。岩男は自分の待っていたコンタクトを光にかざしながら、老人に横眼を向けた。そして、酔いのせいもあるが、岩男は自然にそれを受け入れると素直に頷いた。