9,酒の力
「どうしてここに?」
「小鳥が飛んでいったから、追いかけただけだ」
サミュエルはフィリスの真横に滑り込んだ。
屋台の立ちの飲み用テーブルスペースは細く狭い。すでに大人が五人立つ空間では、彼の体格では入り切れない。体を真横にして僅かな隙間に立てば、彼女の片腕と彼の胸はぴったりとくっついた。
「騎士のお兄さん、どうぞ」
店主が赤いお酒を注いだグラスを三本の指で軽々と持ち、差し出した。サミュエルはグラスを底から受け取った。手にしたグラスを口元にもっていくと、一気にその一杯を飲み下した。
空になったグラスを、とんとテーブルに置く。
涼しい顔のサミュエルは、小さく差し出した舌先で、唇に残った赤い雫を舐め、さらに親指で口角に残った液体をぬぐった。
フィリスはその飲みっぷりに見入ってしまった。それは彼女だけでなく、その場にいた全員に、ほうとため息をつかせた。
店主がすかさず手を叩いた。
「すごいね、色男だ。さあさ、もう一杯どうだい」
「じゃあ、これを炭酸で割って」
サミュエルは、紫の果実が入った瓶をゆびさした。
「了解、団長!」
店主は調子よく、笑顔で答える。サミュエルのグラスを手を伸ばして持ち上げると、作業台で炭酸と果実酒を割る。
「サミュエル、鳥が飛んできたってどういうこと」
フィリスはひそっと話しかけた。
「そのまんまだ。馬車で帰ろうとしてたら、窓から飛び出すから追いかけた」
「で、私のところまで飛んできたってこと?」
サミュエルが頷く。
「この子、どっちを主人だと思っているのかしらね」
「フィリスだろ」
小鳥がフィリスの頭からサミュエルの肩へと移動する。
「あなたに懐いているのに?」
フィリスは小首をかしぐ。
「ねえ、騎士のお兄さん。そこの魔術師の子とは、お友達?」
二人の女性が、声をかけてきた。
「ああ、幼馴染だ」
「騎士と魔術師さんなんて珍しい組み合わせじゃない」
「魔術師だって、こういうところ来るのに、普通はローブを脱ぐ。こいつは慣れてないから、まんま来ているだけさ」
あらあらと女性たちがほほ笑む。
(さすが、サミュエル。慣れているわ。私とは本当に違うところにいる人ね)
フィリスは目を伏せて、グラスに口をつけた。
「騎士のお兄さん、どうぞ。この果実は珍しいんだ。お目が高いね」
店主はそう言って、サミュエルの前にとんとグラスを置いた。
「そんなちっこい黒だか紫だか分からない果実が珍しいのか」
「ああ、貴重な果実だ」
貴重と言われて、男たちの耳が無言で反応する。
「これは、ある地方でしか取れない上に、持ち運びができない。柔らかい果実だ。持ってくるなら、取りたてを、ジャムや塩漬け、こうやって果実酒に加工しないと味わえない逸品だよ」
「へえ、そんなに珍しいのか」
「そう。珍しいけど、品がないから宣伝はできない」
「そう言われたらなあ、引けないだろ。俺たちにも頼むよ」
「騎士のお兄さんと一緒でいいかい」
「同じで」
店主はちらっと女性陣にも視線を流す。
「この果実は、肌にもいいんだよ。毎日食べていると洗顔後の顔のツッパリ感なんて感じない。ふっくるらとした張りのある肌になる」
「またあ、冗談を」
「いやいや、冗談じゃないさ。これが採れる地域では、この果実を薬のように重宝している。長寿の果物とまで言われているぐらいだ。美容にだってもちろん良い。試しに、次の一杯はこの果実酒でいかがかな」
「うまいわあ。そういわれたら、断りにくいじゃない」
女性たちもけらけらと笑う。
フィリスは上目遣いで軽妙な会話を眺める。ちらりとサミュエルに目をやれば、今度はちびちびとグラスを傾けていた。
「魔術師さん。おまちかねのあてだよ」
店主がフィリスの前に前菜のような盛り合わせを置いた。さっきの茶色い種が入った緑の果肉は、荒いペースト状になっていた。かりっと焼かれた薄くスライスしたパンが添えられており、フィリスはそのパンをちぎると、緑のペーストを撫でつけて食んだ。
レモンの果汁と混ぜられた濃厚なペーストを乾いたパンと咀嚼する。
(味が濃い。酸味もいい。甘いお酒と丁度いいかも……)
「俺にもちょうだい」
サミュエルが横から声をかけてきた。
酔っているフィリスは、小さなことを気にしなくなっていた。いわれたままに、パンをちぎってペーストをのせ、差し出す。
手で受け取るかと思ったら、サミュエルは口を小さく開けた。フィリスは求められるまま、彼の口にパンをひとかけを近づける。
彼は首を少し前に出し、目を閉じてパンを食した。フィリスの指からパンを舌と口で奪う時に、サミュエルは彼女の指をちろっと舐めた。
その感触は一瞬で、フィリスはきょとんとサミュエルを見つめた。
「騎士のお兄さん、魔術師さんと仲いいんですね」
その声にフィリスは前を向く。店主はどこか照れたような、複雑な表情を浮かべていた。向こうに見える女性二人も目を見開いている。
フィリスはかっと頬が熱くなり、さっと血の気も引いた。サミュエルに求められるままに応じたことに軽率だったと後悔する。
サミュエルの腕がフィリスの肩を抱いた。力がこもり、引き寄せられたら、フィリスの頭部がサミュエルの肩口に当たった。
「こいつ、女の子ですから」
サミュエルの一言に、場がしーんと静まり返る。饒舌な店主でさえ、絶句していた。
(なに、なに。これは、なに!?)
「……いやあ」と、申し訳なさそうに店主が頭をかいた。「それは、失礼」
(失礼って何!?)
「うっそお。ちっとも気づかなかったわぁ」
(気づかないって!?)
「うわあ、悪いな。坊ちゃんなんて最初に言って……」
男性二人も、苦笑いを浮かべる。
フィリスは青ざめる。
(いや、確かに、今は、男の子とですけど、男の子ですけど……)
周囲の目を見ていると、フィリスの姿は男にも見えるが、言われてみれば女の子にも見えるという訳だ。
(これって、誤魔化せてたって喜べばいいの! それとも、やっぱり普段から男か女か分からないのねって、嘆いたらいいの~!!)
サミュエルの腕が離れる。フィリスは恨みがましい目を彼にむける。
「どうした」
涼しい顔のサミュエルに、フィリスは口をすぼめて、「なんでもない」と呟いた。
お酒のせいでフィリスは少し陽気になる。あての作り方など、店主と雑談し、昼の店の場所も教えてもらった。カードを一枚手渡される。「御贔屓に」と店主は愛想も忘れない。会計はサミュエルがすませてくれた。
「送っていくから、おいで。フィリス」
店主と客はぬるまゆく見送った。
フィリスとサミュエルは並んで歩く。こうやって二人きりで歩くのはいつぶりかも分からなかった。彼女は彼を上目遣いに盗み見る。彼女の視線に気づいて、彼は彼女の視線を捕まえる。
彼女の足が止まりかけ、背後から歩いてきた人の肩が彼女の肩にぶつかった。
ぐらついた彼女を、彼はそっと支えた。彼の脇に寄り添い、胸に頬が触れる。彼女の腕が彼の背にまわり、その手が衣類を掴んだ。
フィリスは自身が男の子になっていることも忘れて、サミュエルに身を寄せていた。