5,まさか
窓から部屋に差し込む光がフィリスの顔を照らした。瞼越しにも眩しくて、影を求めて身をよじる。
「まだ、寝たいのにぃ……」
もぞもぞと掛布にくるまって、身動きを止めた。
(んっ? 今の声はなに?)
掛布から顔だけを出す。
(私……、昨日、何した!!)
「ええっっと……」
頭の中に響く声音がいつもの響きと違う。フィリスの意識が冷めるなり、さっと顔は青ざめた。
「やっ、ばい……」
呟いてから、口元に手を添えた。声がすっかり低くなっている。喉に触れたら今までにない異物感がある。
がばっと両手で胸に触るも、柔らかな感触がない。そもそも小さかったとはいえ、あるものがあったはずだが!
そして、ないはずのものがある。
フィリスはベッドの上ですったもんだした。膝たちになり、寝衣のスカートをたくし上げた。太ももが半分露になったところで、勇気なく、動きを止めた。
あるはずがない感触が残っている。尿意を催せば、それをどう扱ってすませばいいか、分からない。
(やばい、やばい、やばい。どうしよう。トイレとか、どうしたらいいの!! そんな、レベルじゃない。そんなレベルじゃない。診断もなしに使っていい薬品じゃないのに!)
フィリスは慌てふためきながら、ベッドから飛び起きた。鏡の前に立つなり、更に驚いた。身長や髪色どころか、見た目もあまり変わっていない。手でぺたぺたと顔を触ってみる。鏡に映す人物は自分だと手の動きが示した。
(えっ! あんまりじゃ……、ない?)
女性から男性に変わっている体感覚はあるのに。少年のような面影で、代り映えない自分がいた。
フィリスは慌ててながら、クローゼットを開けた。冬物のローブを避けて、通気性の良い素材でできている夏物のローブを引っ張り出す。昨日までは、春になり冬物のローブを着てても、なかは薄手のシャツに変えていた。だがそれだと首元などが露になり、触れたらぽこっと出ているのどぼとけが目立つ。
フィリスは、冬物のハイネックを取り出した。この季節に着るには暑いが、首元が隠れるのはこれしかない。ハイネックのシャツに、夏物のローブを着た。スカートではなくパンツ姿に靴を履けば、基本的にいつも通りだ。
鏡の前に、転びそうになりながら進み出る。
予想通り、いつもと変わりないフィリスがいた。ごくりと唾を飲み込む。
「一日ぐらいなら誤魔化せそう……」
(風邪をひいたと言って……。そうねマスクでもして、咳き込んでいるふりでもして……。基本的に、しゃべったらだめね)
いつ元に戻るかは分からない。それでもひとなめ程度なら、一日二日しか持たないはずである。
診断を必要とする薬品を、勤め人の魔術師が勝手に使ったとなればそれなりに問題だ。もしかすると謹慎とか、反省文とか、始末書とか、なにか、あるかもしれない。
フェリスは青ざめながら、決意する。
(これは、誤魔化すしかない!!)
さりとて、兄は騙しきれなかった。
使用人に見られないように、ローレンスは自室にフィリスを連れ込んだ。
彼はお気に入りの一人掛けのソファーに腰を下ろす。その下に膝をつき、フィリスは項垂れた。だらだらと嫌な汗が溢れてくる。
眼球だけ上目使いに動かすと、ローレンスはこめかみにあてた指をとんとんと叩いていた。苛立っている様子を感じたフィリスは視線をすぐさま床に落とす。兄の足先から目を離せなくなった。
「……確かになあ。昨日、ふざけてそんな話をしてたよなあ。だからと言って、まさか、本当に、やるとは思わなかったよ」
両目を見開いたフィリスの口角が震えあがる。この期に及んで笑ってごまかそうという精神が頭をもたげる。今顔をあげて、薄ら笑いを見たら、兄は絶対に怒ると、フィリスは身じろぎもできない。
「仮にも魔術師なら、その薬品が簡単に使っていいものではないと分かっているよね」
「はい」
「私的に保有しているまではただの薬だからね。ただ、使用には専門の魔術師の診断と投薬許可がいるって知ってる?」
「はい」
「フィリスは、そういう立場にないよね」
「ないです」
「でっ、今日はそれでどうすると考えていたの?」
「えーっと、私は普段から男の子にしか見えないので、なんとか誤魔化せないかと考えて……、ました」
「誤魔化すねえ。私にばれてて、誤魔化すもあったもんじゃないよねえ」
「ごもっともです」
トントンと肘掛けを叩く音がする。フィリスは怖くて震えていた。とても長い時間そのままかたまっていたように感じる。
「ふっ。あは、ははは、ははは……」
突然、笑い出した兄に驚いて、フィリスは顔をあげる。なんで笑っているのか分からなかった。
「本当に、真面目だねえ。フィリス」
目じりをぬぐいながら、兄のローレンスはいまだ笑いをこらえている。
「本当に、面白い子だねえ。フィリスは、我が妹ながら、滑稽で……」
最後まで言い切らずにお腹を抱えて身をよじり、さらに笑う。
「お兄様、なんで笑っているんですか。笑っているのになんで脅かすんですか。私だって、本当に悪いことをしたって思っていたのに……」
兄のローレンスは手のひらをフィリスに向ける。
「ふふ、笑って悪いけど。フィリスは悪いことはしているよね。しかしだ、その誤魔化しきれそうな風貌。どれだけ日常から色気がなかったか……」
くっくとさらに笑っている。
ひどいことを言われているのに、フィリスはもうそんな内容は耳に入らない。
「じゃあ、今日一日、なんとか誤魔化せそうでしょうか」
「誤魔化せるんじゃないか?」
「本当に」
フィリスはぱっと明るい表情になる。
「私も人の子だ。妹の初回の短慮ぐらい見過ごすよ。ただし、二度目はないよ」
にんまりと兄は笑う。
「ありがとう。お兄様」
「その声で、お兄様と言われてもねえ」
安心すると同時に、フィリスは尿意をもよおした。
「お兄様!」
フィリスはばんと立ち上がる。
「どっ、どうした」
その勢いにローレンスも気圧された。深く椅子に腰かけ驚く兄をフィリスは見下ろす。みるみる頬を紅色させていく妹の様子に兄も呆気にとられる。
涙目のフィリスが真っ赤になって叫んだ。
「トイレはどのようにしたらよいのでしょうか!!」
「はあぁ……」
兄の整った顔は総崩れを起こし、笑い出した。こちらも涙目になった笑いをこらえる。
「……って、私に一生ものの弱みを握らせることになってもいいのか、フィリス!」
「いいです。それどころじゃありません!!」
フィリスにとって、しのご言っていられる状況ではなかった。
フィリスとローレンスは同じ馬車にのり登庁した。いつもなら、別々に行動するのに、さすがに今日は一人で行く気にフィリスもならなかった。
「フィリス。安心するといい、私以外、使用人には誰もばれなかったじゃないか」
「そうですけどね……」
それはそれで色気がないという事実を突きつけられているわけで、今更ながらフィリスも複雑だ。