4,鬱憤
フィリスはベーグルを食む。しゃりっと多めに挟んだ玉ねぎの苦みと、サーモンの酢漬けに効いた塩加減が絶妙で、かぶせたパンに味もしみこんでいる。食むごとにクリームチーズのまろやかさが混ざり、味わいが変わる。パンに食材を挟んで食べると、何でも食べやすくて美味しく感じるとフィリスは満足する。
兄のローレンスは、オリーブオイルに浸った玉ねぎとサーモンをフォークでつつき口に入れながら、ワインを楽しんでいる。
(酒のつまみ目当てなのよね)
立ったまま行儀悪いと分かっていても、味を占めた兄と妹は、領地に両親が戻っている不在の時だけ、台所での立食を楽しむのだった。としても、ほとんど両親は領地におり、二人の夜遊びをたしなめるものはいない。
しかし、こんな台所遊びをいつまでも続けられるとフィリスは思っていなかった。
「悪い趣味だけど、結婚までだとは自覚しているわ」
半分食べたベーグルを降ろしながらフィリスは呟く。お腹が満ちてくると、急に現実感が強くなる。冷静になってきたともいえる。
沈みかける妹に兄はふっと笑いかける。
「どこでもできる趣味じゃないよな。台所に立つだけで、とんでもないと言われるのが一般的だ」
「そうよね。自覚しているわ。いつまでも続けられないのだから、どこかで潮時を考えないとね」
「やめれるの?」
「……自信ない」
フィリスにとって、魔術も料理も両方が生きがいだった。魔術具作りで行き詰った時に、料理をすると気晴らしになる。料理で遊ぶと、魔道具作りにも精が出た。
二つは、フィリスの中で循環し、生きている感覚を強めてくれる。どちらかを捨てると淀む気がしていた。両方捨てるとなれば、それはもうフィリスではないだろう。
「男だったら良かったのに……」
「なぜ?」
「そしたら、私、次男じゃない。後継ぎでもない、自由奔放にぐうたら魔術師をやってやるわ。長男じゃないから結婚もうるさくないんじゃない。平民に紛れて一人で暮らしてもいいわ。そしたら、魔術師として魔道具も料理も続けられるじゃない」
「はは。それだと困るやつがでそうだな」
「だれも困らないわよ」
何を言っているのとばかりにフィリスが呆れ顔になる。
「いいや。伯爵家のご令嬢を欲しがる成金どもは困る」
「無理よ、それこそ。私が華々しいのが苦手だって知っているでしょ」
おふざけの回答にフィリスはうげっと舌を出して、苦い物でも食べたかのような顔をする。その顔を見て、兄は肩をすくめた。
「婚期が遅れるのは必至だな」
「そもそも、私に縁談なんかきてるの?」
「言っただろ、お飾りの伯爵令嬢様」
「成金息子? 冗談でしょ」
「さあ、どうだろ」
喰えない兄はくすくすと笑う。フィリスはうろんな目を向けた。
「お兄様のそういう食えないところ、嫌ね」
「そう? こういう遊びにつきあえる柔軟な兄と呼んで欲しいよ」
「つまみ目当てが何を言っているの」
「ばれてるか」
「当たり前でしょ」
会話を一区切りさせ、フィリスは手に残っていたベーグルサンドを食べ終えた。兄は玉ねぎと、オリーブを交互に口に含みながら、ワインを楽しんでいる。
フィリスは卵にフォークを刺した。余熱でさっきより卵は若干硬くなっていて、合わせてチーズもとろっとはしなくなっていた。それでも、口に含めば卵独特の甘みが広がる。
卵料理を飲み込んでから、はっとフィリスはため息を吐いた。
「でも、私は本当に男の子になりたいわ」
「さっきの話に戻るんだ」
「悪い」
「いいや」
「男だったら、かわり者の結婚しない、仕事が恋人の魔術師で通りそうじゃない」
「枯れているなあ、その発想」
「身の程を知っていると言ってほしいわ」
しかし、フィリスは知っている。魔術師のお勧めできない薬品の中に、性別転換薬があることを。
兄との立食を終えて、片づけ終えると、フィリスは自室へと戻った。グラス二杯程度飲んだに過ぎないが、体はふわふわしていた。
魔術師の衣装を脱ぎ捨て、柔らかい寝衣に着替える。髪もほどき、ばさっと後ろに流し、頭をふって、手櫛で梳いた。からんでいた髪がほどける。
自室の隣室はフィリスの実験室である。本と魔道具を作る道具類が並べていた。
魔術師が作る道具や薬品には申請を要するものや、使用に制限がかけられているものなどがある。それらを作ること、勝手に使用することは禁じられていた。
性別転換薬は、勝手に使用することに制限がかけられている薬品の一つだった。
フィリスは狭い実験室の棚から、小さな小瓶を取り出した。
(性別転換薬は持っているのよね)
臨床医療を担う魔術師が、医療目的で使用することができるものである。男性性で生まれても、自認する性が女性、女性性で生まれても、自認する性が男性という人がいるために、診断と管理の元で投薬される薬品だ。
小瓶を掲げて、フィリスはくるくると回る。数多の薬草を煮詰めて仕上げられた、どろっとした液体がなかでたぷんと揺れる。
(古くは暗殺用の薬品だったのにね。お前まで一般利用されるようになるとはね)
マリアンヌ姫に差し上げた首輪が元々手錠の魔術具から発想を得ているように、軍事利用されていた魔術具が一般転用されることは、あまたある。
性別転換薬もまたそのような薬品の一つだった。
見目の良い男性を女性に性転換させ、美人局を仕掛ける際によく使われた。暗殺後に逃走しても、疑われるのは女性であり、男性暗殺者は検問をくぐり逃げおおせやすい。薬品の服薬量を調整すれば、暗殺対象者と二人きりになる暗殺履行時に合わせて男性に戻ることもできる。
(好色王の異母子息が複数いたときに開発されたのよね。まったく歴史の闇を物語る薬だわ。それが今じゃ、医薬品扱いだもの)
蓋と底を親指と人差し指で押さえ、手首を数回返しながら、中の液体を撹拌する。液体の沈殿物が溶けきったことを確認して、フィリスは蓋を抑えた。
くいっとひねると、ぴきっとビンの蓋が開いた。
(おまえも数奇な運命ね)
その歴史から、正妃一人に、側室一人、妾一人と制約がかけられている。
仄暗い歴史の裏に、魔術具有り。
(平和の時はそれほど深く考えないくせに、どうして非常時にはこんなオリジナリティあふれる薬品を生み出すんだか。あれよね、きっと、上からの圧力が強かったか、変な好奇心が強いおかしな魔術師が先んじて開発していたものを転用していたかのどちらかよね、きっと)
その後、何回か改良され、副作用が少ない少量利用可能な薬品として認知されるようになり、負の歴史は伏せられるようになった。一部の人を助けている薬品が元は暗殺用の薬品だったなど、後ろ暗くて誰も言えない。
(こういう裏歴史に刻まれる魔術具が多いから、魔術師って日陰なのよね)
酔っていたフィリスは小瓶の本体から蓋を離してしまった。兄と一緒に、男だったら、などと口走っていたことで、遊び半分にも気持ちがゆれた。
手もとにその薬品を保管していたのも悪かった。
フィリス自身、男だったらと思うことはままあり、気休め程度に保管していたに過ぎなかったのに、無自覚な鬱憤が軽率な行動へと結びつく。
(どうせちょっと変わって終わるのよ。一晩の夢よ夢)
酔っ払いの浅ましい考えが先走ったフィリスは、手のひらに数滴の薬を垂らした。クンクンと匂いを嗅ぎながら、ふたを閉めなおす。
青臭い苦みを彷彿とさせる痛覚を刺激するような香りに顔をしかめながら、フィリスは手のひらを舐めた。予想通りの苦みと刺激臭が口内に広がり、げっとフィリスは舌を出す。
「やっぱり、暗殺か薬品としてしか使い道ないわ」
とても好奇心だけで飲めるような味ではなかった。この匂いも味も、命がけでなければ飲めやしない。
お読みいただきありがとうございます。
ブクマとポイントのご好意、心よりありがとうございます。多謝。