35,婚約の確認
「サミュエルと婚約の話がすすんでいるというのは本当ですか」
真夜中、例のごとく台所で、フィリスはローレンスに問いを投げる。
「本当だよ。演習できいたの?」
「ききました」
「進めてもかまわない?」
「……いいです」
フィリスは答えて黙る。
目の前には、塩を振りフライパンで焼いた鞘に入った豆と魚醤を垂らして焙った小ぶりの骨つき肉を皿に盛っていた。
ローレンスが鞘付きの豆を手にして、焼き目がついた鞘から、緑の小粒な豆を食んで口内にほおりこむ。
フィリスは骨付き肉の端を両手で持ち、かぶりつく。魚醤が絡んだ一本を食べ終え、細い骨を皿の端に置いた。あまじょっぱい茶色に染まった指先を舐める。
「……いつから、そんな話になっていたの」
「そうだなあ。割と前からかな」
「前って? 私がサミュエルに小鳥をあげたくらい?」
「きっかけはそれだ」
フィリスはグラスを傾けて、ワインを舌にのせた。
「きっかけ?」
「前から決まっていたんだ。サミュエルとフィリスのことはね。家同士は二人の関係をゆるく眺めて、タイミングを計っていたんだよ」
「えっ?」
フィリスにとっては寝耳に水だ。目を丸くして、硬直する。
「元々、決まっていたんだ。ただ、二人があまりにも距離をとりすぎて、両家がしばらく様子見していただけさ」
フィリスは意味が分からず絶句する。
「互いに知った仲なのに、挨拶もしない関係で婚約してごらんよ。フィリスは勘違いして遠慮しそうだろ」
「……確かに」
「遠慮されたサミュエルが誤解して、嫌われているのに無理に婚約をすすめたとでも考えだすんだ。そしたら、互いに互いを曲解したまま、確かめもしないで、仮面夫婦に落ちそうだろ」
今までの視線が絡んでも切っていた行動をフィリスは思い出し、否定できずに口を結ぶ。
「フィリスは、魔術や料理で遊んで、婚約なんて二の次。それはまだいいさ。没頭できる、好きなことがあるのは悪くない。
サミュエルが好きな子に挨拶もできないことが大問題なんだよ。せめて、もう少しちゃんとフィリスと接触するまで待っていた。これが内情」
フィリスがキョトンとする。
「私じゃなくて、サミュエルの問題だったの?」
「そういうこと。後ろめたかったんだろうね、フィリスがこっちの学校に行きはじめた頃に、浅はかな自分のせいで問題を大きくしたことがさ」
それを責めたローレンスも若干の後ろめたさが残っていた。事が進み、少しだけ胸が透く。
サミュエルが『ごめん』と囁いた声を脳裏で反芻するフィリスは、視線を斜めに落とす。
(気にすることないのに……)
フィリスだとて、自分の心に蓋をしていた。挨拶をしない彼と変わらない。声をかけにくくしていたフィリスも同罪だろう。互いに背を向け、俯いていただけだったとも言える。
顔をあげて見れば、ちょっと声をかければ、違った。
そんな小さな勇気がなかった。それだけだったのだ。
(小鳥だけじゃない。あの時、男の子になって、ちょっとだけ気持ちが大きくなって。なんとなく、彼と対等な錯覚を得て、それが一滴の勇気になっただけよ。偶然と言えば、全部、偶然だわ)
翌朝、登庁したフィリスは、またも王太子殿下から呼び出しを食らう。
執務室の机には鷹のガラスケースが置かれ、殿下は指先でその縁を撫でる。座る殿下は、肘をつき、手の甲に顎を乗せて笑みながら言った。
「マリアンヌがフィリス嬢に守ってほしいと言っている」
フィリスはめまいを覚えた。明らかに、先日の演習時に、マリアンヌ姫にフィリスは見られていたのだ。姫は魔術具をとかく気に入っている、青い狼も赤い鷹も魔術具であると看破したのかもしれない。
「あの……、どういうことでしょうか」
引きつりながら、フィリスは及び腰になる。
「マリアンヌがフィリスの魔術具に守ってもらいたいと願っているんだよ」
フィリスは真っ白になり、真っ青になり、返す言葉もなく口をぱくぱくと動かした。
広い執務室のなかには、フィリスと殿下の他、涼しい顔のローレンスしかいない。フィリスはローレンスに助けを求める視線を向けるものの、彼は動じず、瞼を閉じていた。
(これって、受けないとならないことよね。受けること前提よね。逃げれないってことよね)
「フィリス。お願いできるね」
「……はい」
フィリスはやむなく腹をくくる。
「日程が決まり次第、魔術師長から連絡するから、よろしくね」
王太子殿下は悪戯心がありそうなほど爽やかに笑む。
フィリスが立ち去り、ローレンスと王太子殿下は二人になる。
「フィリス嬢の魔術具はそれは見事だそうだな。第一魔術師団があわよくばと欲しているぞ」
殿下は知っていながら、軽やかな口調でローレンスを試す。ローレンスはぴくりと片眉を動かしてから、平常な対応で、机の端で書類を整えた。
「殿下、フィリスに荒事は向きません。母とは違うのです」
「価値を知りながら、私に彼女を差し出している者がそれを言うか」
「殿下ならば、その価値の活かし方を間違われません」
殿下は椅子に深く腰を埋め、背もたれに身を任せる。組んだ手を腹に添えて、口角を薄く上げた。
「フィリス嬢の能力は、一人で師団を持つに等しい」
ローレンスが殿下の前に書類を並べていく。午前の仕事を準備する。
殿下は楽し気に語り続ける。
「一人の魔術師で、師団だ。赤い鷹、青い狼、緑の猿、黒い熊、白い鹿。あれだけの土人形に役割を与え、同時に操る。尋常じゃないと気づいていないのは、本人だけだな」
「フィリスは魔術と料理が好きな、ただの女の子ですよ」
「そう願っても、彼女を見る目は払しょくできない。そうだろう、ローレンス」
「否定はできませんね」
「彼女には、この国の安寧のために働いてもらう。結局、私と通じても、彼女を取り巻く大局は変わらないのではないか。なあ、ローレンス」
ローレンスの手がピタリと止まり、殿下を直視する。
「殿下の元でなら、私の手が及びます」
はっきりと言い切った視線は不敬な淀みを尖らせる。殿下は目を閉じて、笑い出しそうになる心を必死で押さえる。
「まるで、妹になにかあれば、俺にさえ反旗を翻すと言いたげだなローレンス」
「そのような可能性は低いと思っておりますが」
「まったく、ローレンスのフィリスへの好意はまるで妹という枠を越えているようじゃないか」
「超えていませんよ。私はいつも兄として、彼女を見守っているだけです」
数日後、フィリスにマリアンヌ姫の護衛として配属される日取りが伝えられた。




