33,後宮襲撃①
林の際にある樹上で止まった猿は、マリアンヌ姫が住まう後宮を一望する。
花壇には朝を待つ花々が植えられ、小さな石畳の小道が縫う。林近くは芝生がしきつめられていた。
樹上を眺めていた猿の視界が下に落ちる。
林から狼が芝生に踏み出した。
(演習どころじゃない! 後宮の方もこんな早急には気づかないわ)
芝生の上を背を低くして、狼が侵入していく。芝生の上に狼が出現し、臭いをかぐようなしぐさを繰り返す。
猿がまた視界をあげた。
ガラス張りのテラス席に小さな明かりが漂う。その光と月光が降りそそぐ手前に白い毛玉があった。
(あの子、マリアンヌ姫の子犬じゃない。なんで外にいるの、危ないわ。あれ……)
マリアンヌ姫に魔力の糸を柱とつないでおくように伝えていたはずなのに、子犬の首から伸びる魔力の糸がない。
(外で遊んで逃げてしまったの? それとも、室内に入れ忘れた? 繋ぎ忘れたの? まさか、後宮にかぎってそんなことあるとは思えない!)
猿の視界を維持したままフィリスは、手の感覚だけでポーチを探る。体に意識を向けると、狼に乗る振動が伝わってきた。ポーチを両手で握り、口を開ける。しっかりと握りしめ、もう片方の手で中を探る。
猿の視界は下方に向けられ、狼を捉える。狼たちは変わらず探るように慎重に背を低くしている。森からわらわらと出てきて、数だけは増えている。
フィリスの手は他より一回り大きい鷹型の小物を掴んだ。それを抜き取り、ポーチの口を閉ざす。
猿の視界が白い犬へ向けられる。白い犬は花壇を乗り越えて、狼たちがいる芝生近くまで近寄ってきていた。
小物を握ったフィリスの手に力がこもり、魔力が揺らぐ。猿の視界を注視しながら、鷹を放つタイミングを見計らう。
猿の視界では、白い犬が芝生に両の前足を踏み入れていた。
(危ない!)
フィリスは魔力を手に注ぎ、開く。魔力をそそがれた小物が膨張し、空へと放たれる。魔力の感触が消えると、手のひらを春風が撫でた。
猿の視界が映す白い犬の体をバチバチと細い稲妻が走る。青白い筋が何本も躍動し、弾けるように光を放つ。
(あの子、なに!)
フィリスの意識は猿の視界に囚われる。猿もまた、子犬の変化から目を離さなかった。
白い子犬が膨張する。背が盛り上がり、手足が伸びる。尾が細長く伸長し、左右に躍る。両耳がピンと立ち、大きな体躯に合わせた、がっしりとした首と頭部をもたげ上げる。毛がうねるように伸び、春の夜風にたなびいた。
月光の下に、凛々しい白虎が現れる。首元の小さな玉が淡く夜の光を照り返した。
(聖獣、白虎? あの白いわんこが!)
首元に添えた魔術具が縦に割れた理由をフィリスは悟る。巨大化した時に首輪部分が引き延ばされて、耐えられなかったからだ。
(左右に首輪部分が引っ張られて、玉が割れたなんて思わないわよ! だからって、この状況はないわ。魔術師長がなにも教えてくれないわけよね!!)
夜中に魔獣たちが林を徘徊し、時に後宮まで入り込んでいたなんて由々しき事だ。公にできることではないだろう。ローレンスやサミュエルが首をつっこむなと言ったのも頷ける。
手を離れた赤い鷹も現場に向かっている、青い狼も現地に向かっている。フィリスが緑の猿の視界を解くために、右目を開いた。
眼前に枝葉が広がる。ぼやける視界が視力を取り戻した刹那、林から狼は躍り出た。
大きな白い月と満点の星を飾る天幕が空を覆う。
闇に浮かび上がる後宮から庭に突き出したテラス席に小さなランタンの明かりが揺らぐ。椅子に人形の飾られていた。頭部が垂れた影が伸びる。
庭の花壇では手入れが行き届いた花々が、ゆらゆらと揺れていた。白虎は後宮を守るように狼に立ちふさがる。
青い狼が身をよじる。向きを変えたことで、フィリスの視界から建物や花壇が外れた。
林側の高い枝葉に緑の猿が隠れていた。林の手前に、狼たちがわらわらと並ぶ。頭部を低くし、今にも飛び掛からんと身構えている。口角を上げ、牙をむき出し、喉を低く鳴らしていた。
白い犬が巨大化した雄々しい白虎が、芝生に全身を踏み入れる。群がる狼に向かって咆哮をぶつければ、ビリビリと大気が振動した。
フィリスは周囲を見回す。人の気配は遠くにも感じられない。
(後宮を守る騎士達はまだ来ないの)
その時、白虎に黒い狼がけしかけた。数匹が同時に地を蹴って走り出し、空を飛んだかと思うと、白虎の頭上へと飛び込んでいく。
空を飛ぶ狼に白虎が気を取られた隙に、狼数匹が走り出す。
素早く跳躍する白虎の足を狙い、低く走り込んでいた後発の狼も地を蹴り上げようとした時だった。斜めに切り裂いてきた赤い光線が、白虎の後ろ足を狙う狼へとぶつかった。空を切った赤い光線がパラパラと崩れ、そこから火の粉が散る。
光線の正体は赤い鷹だ。横倒しされた狼を押えつけ、そのまま大ぶりの片翼を薙ぎ払う。炎の刃が飛び、地上を走る狼を襲った。
慄いた狼は林側へと退避する。
より高く跳躍した白虎は、跳躍し狙ってきた狼を返り討ちに、叩き落す。地に落とされた狼が、悲鳴のような甲高い鳴き声を上げた。
白虎はふわりと地上におり立つ。
赤い鷹も空へと飛び立った。
狼たちが白虎を睨みながら後退する。
フィリスは青い狼に乗り、空から観戦していた。
(あれだけ強い白虎がついているから安心なのね。私が出る幕なんてなかったかも……)
ばたばた、がやがやと人の気配が遠方から響く。護衛たちの足音が近づいてくる。黒い狼の群れが白虎に背を向け、林へと向かい始めた。
(私も逃げなきゃ。見つかったら大変……)
フィリスは林へもぐりこむため、青い狼にしがみついた。
青い狼は緑の猿に向かって走りこむ。緑の猿が飛び跳ね、青い狼の頭部に乗った。木陰に隠れる位置で一旦、青い狼は止まる。空から赤い鷹が飛んできて、頭上の枝にとまった。
フィリスは緑の猿と赤い鷹から魔力を抜き、小物へ戻すとポーチにしまった。
下方から狼の悲鳴が響く。キャン、キャンと弱い犬の泣き声に、フィリスは芝生に目を向けた。
狼たちが林から追い出されていく。花壇側にはまだ白虎が佇み、横からは騎士達が迫ってくるのにだ。林に逃げなければ、逃げ場はないはずなのに、狼たちは林からも追い立てられていた。
(林に逃げられないの。なんで?)
狼たちが芝生に身を寄せ合い円形にまるまっていく。彼らは明らかに追い詰めらた。
林から狼を追い詰めた人物が現れる。その人影が月光に照さらされ、フィリスは目を丸くした。
サミュエルが携えた剣を払えば、青白い光が散った。狼たちは恐れ、さらに半歩後退する。




