31,夜間演習②
サミュエルはフィリスの背後に伸ばした手を彼女の腰に添えた。指先が触れた瞬間、フィリスの身体が強張った。添えられた彼の手は動かず、徐々に彼女も弛緩する。緊張は落ち着くも、心音はさらに高まった。
彼女の手が彼の身体に触れる。彼の心音もまた早い。手の皮膚感覚を通して、二人の心音が混ざり合う。
(サミュエルも緊張しているの)
フィリスは体温と心音が重なって、浮かぶように心地よい鼓動に振られる。
額を撫でた彼の手が彼女の頭部を撫でた。彼女の額が自然と前のめり、彼の肩口へと落ちていく。
「断らないわ」
呟いた一言に、彼の頭部を撫でていた手が止まる。
しんと静まり変えった世界で、二人の早い心音だけが耳朶を打つ。
彼が身を引き、背を伸ばす。支えが離れて彼女の胸を春風が渡る。ひんやりとした感触と寂しさが混ざり、追うように腕を伸ばした。ポーチの鎖が肩まで落ち、黒いローブの袖もずり下がる。白く細い手首が露になると、彼女の肘は淡くまがり、彼の肩と首筋にもたれかかる。
彼の瞳に灯が灯り、彼女の瞳に泉が湧いた。
頭部を愛でていた彼の指先が耳裏を通り、顎筋を渡り、おとがいに触れる。彼女がくすぐったそうに首を傾ける。
おとがいに触れた手の親指が彼女の口角を撫でて、ためらいながらも彼は彼女の右頬に唇を落とした。
右頬にサミュエルの唇がささやかに触れた時、フィリスは右目を閉じた。彼の胸元をとらえていた左目の視界が変わる。
高い樹上から猿はせせらぎの小石が散らばる水場を見下ろしていた。数人の新人と思しき騎士と魔術師が走りこんでくる。追いかけるように真っ黒い大型の狼が追いかけていた。
浅い水を踏み、水滴が飛び散る。新米の魔術師が振り返り、水を踏む。魔法の杖を振り割けば、宙に浮いた水滴が止まり、追いかける狼へと放たれる。
先陣を切る狼の脳天を刺すも、追う狼の数は数倍。水の刃を受けて、前足で顔をかきむしる狼を乗り越えて、更なる数が空を躍る。
慄く魔術師が逃げ遅れた。
両眼をかっと見開き、フィリスがサミュエルの胸を強く押し返した。腰に触れた腕を支えに、彼女の体が反り返る。
「大変、大きな魔獣が新人を襲っている! 数も多い。先輩の騎士や魔術師も少ない!!」
拒否されたかと誤解しかけたサミュエルがフィリスの言葉に気を引き締める。彼女が右目を閉じ、左目で猿の視界を見たのだと瞬時に察した。
「追うわ。第一と第三と所属する団は違っても、同じ魔術師だもの。助けてあげないと!」
サミュエルの首筋から腕を離したフィリスはポーチに手をかける。ぱちんと開くと、すぐさま二つの小物を取り出した。
一つは青い狼、もう一つは白い鹿だ。
小物を握り、腕を伸ばす。手の中の小物を揉みながら、魔力を通す。手を開けば、放たれた二筋の光が地に落ちて、青い狼と白い鹿を形成する。
彼の腕を押しのけ、立ち上がる。腕をつかむ彼女が彼に目を向ける。
「昔を思い出すね」
強かな眼光を光らせる彼女の一言に、彼は引きずり込まれる。まだ彼女を彼だと思って、一緒に遊んだ頃を。彼女の兄がそうそうにギブアップしても、彼女の作り出す土人形相手に、立ち回り、追い詰められ、蹴散らした爽快感を。
あれは遊びであり、今は実戦だ。サミュエルの胸に、(状況が違う)と懸念がよぎる。
フィリスのポーチを掴む手が開かれ、サミュエルの頬に伸びた。小さな手が片頬を包む。
「大好き」
その一言に、サミュエルは硬直する。
フィリスの手が離れ、駆けだした彼女は青い狼に飛び乗った。彼女を乗せた狼は大きく首と尻尾を振る。青い粒子をまき散らし、柔らかい毛が風に躍る。
「白い鹿は案内役よ、私を追ってくる。乗ってきてもいいし、一緒に走ってもいいわ」
フィリスが跨った狼が、前足を折り曲げる。地面を叩き、前足を高らかとあげると、空中を蹴り出した。
「私は、狼に乗って、先に行くわ」
狼は浮き上がり、空を走り出す。
「空も走れるのか!」
「魔法のほうきと同じ原理じゃない。簡単よ」
驚くサミュエルを置いたまま、狼は足場のない空を縦に走り、樹上へとあっという間に走り抜けた。
唖然とサミュエルが残され、立ちすくむ。
「ローレンスが心配をするのももっともだ」
サミュエルは独り言ち、白い鹿に飛び乗った。白い鹿は翻り、フィリスを追い始める。
樹上へと躍り出た狼は、樹木の頂点を踏み台に飛んでいく。夜空には星と月が輝き、青い狼の毛先を艶めかせる。
「狼さん、猿の後を追いかけて」
フィリスが右目を閉ざすと、猿が見ている視界に切り替わった。
黒い狼の群れが、新米の騎士と魔術師を取り囲んでいる。水刃を飛ばした魔術師は怪我を負っていた。せせらぎの中央で、立ちすくむ彼らに差し伸べる手はまだない。
(経験ある騎士や魔術師はまだなの。経験と評価のため様子見しているの。それとも、ただ気づいていないだけ? 分からないわ)
さっき猿が見ていた視界より黒い狼の数は少なかった。半分、いや、三分の一もいないだろう。
(狼の数がさっきより減っているのは、彼らを狙うのに、そんなに数はいらないと判断したからかしら? 他はどこへ行ったの)
猿の視界が上向く。新人たちが消え、枝葉が生い茂る景色が映りこむ。
(新人を狩る狼を残して、他の狼はどこぞへと消えたのね。他の新人を狙いに行ったの? そもそもこれだけの数がなんでいるの? どこから訳もなくもぐりこむ数かしら。なにか別の目的で迷い込んできたの?)
その時、猿の視界がぶれた。あがいているのか、溺れたようにかき回される腕が視界を過る。首根っこを掴まれたようで、くるり向きを変えられた。
猿の視界に映りこんだのは、魔術師だった。なにかしゃべっているようだが、視界しか共有していないため、意味は分からない。
しかし、その顔には見覚えがあった。サミュエルが入り口で待っていると伝えてくれた、第一魔術師団に所属している同期の男性魔術師である。
(ああ、これなら、耳と口も共有しておけば良かったわ)
もどかしくも、意思疎通が図れない。
フィリスの頬にざわっと何かがすれ、ぱっちりと目を開く。目の前に枝葉がよぎり仰天する。樹上を跳ねていた狼が木々へともぐりこんでいた。
地面まで降りた狼が数歩走り抜けると、再び樹上へと跳ねる。空を蹴り上げ、樹上を渡る。
フィリスの視界に、緑の猿の首根っこを掴む魔術師の姿が現れる。狼は直進し、魔術師の目の前に躍り出た。
猿の首根っこを掴む魔術師は枝に膝をつけ、屈んでいた。頭上に躍り出た、狼に乗るフィリスを見上げる。
「第三魔術師団のフィリスか!」
「ごめんなさい。その子は私の猿なの、放してもらえないかしら」
魔術師の手がぱっと開く、猿は逃げるようにフィリスの傍によった。狼の背にまたがるフィリスに抱きつく。まるで助けが来たことを喜んでいるようである。フィリスはそっと猿を抱き、囁きかける。
「お前は、消えた狼を追ってちょうだい」
命じるなり、猿は頷き、枝葉のなかへと消えていった。




