17,悔い
屋台の間を進むフィリスとサミュエルは、手をつないだまま、何も語らなかった。出会ってから十年の時を経て、やっと寄り添う距離に近づいたのに、互いの胸にささった悔いは、二人をいまだに臆病にさせていた。
人通りが多い道で前から歩いて来る人にぶつかりそうになったフィリスがサミュエルの方へと寄る。彼の二の腕にぶつかって、そのまま頬ずりするように見上げてしまう。
サミュエルがフィリスに視線を落とし、目が合うと、フィリスの頬がかっと熱くなった。
「あっ、ごめんね……」
「いや」
フィリスが離れようとすると、繋いでいた手を解いたサミュエルがフィリスの肩を抱いた。フィリスは前回と同じようにサミュエルの肩口に顔がぶつかる。密着したフィリスは全身が火照り、とてもサミュエルの顔を見ることができなくなった。触れあう彼の胸からは駆け足な心音が聞こえる。フィリスの手は自然と彼の背にまわり衣類をぐっとつかんでいた。
耳奥で鳴り響く心音はサミュエルの鼓動以上に早かった。
「いいから、このまま歩こう」
サミュエルが頭上からささやく。恥ずかしさのあまり、フィリスは泣きそうになる。彼の顔を見上げることもできず、寄り添っていた。
「ちゃんと送っていくから。ローレンスも心配するだろ」
そんなサミュエルの声にフィリスはうんうんと頷く。
サミュエルは前を向いた。フィリスがそばにいて、寄り添って歩いている。手が緊張に震えださないか、心配でならなかった。
(こんな日は未来永劫、来ないと思っていたよ)
後宮へ向かう石畳ですれちがうフィリスはサミュエルの視線を嫌うように、顔を背けた。ローレンスの元に顔を出しても、会釈程度の挨拶さえしてくれず、笑ってもくれなくなった。
嫌われているとサミュエルは思っていた。フィリスと一緒に過ごせる時はもう来ないと思っていた。
侯爵家である以上、婚約者も勝手に親が決めてくれるだろうと思っていたのに、サミュエルの周囲は本人に任せるとばかりに我関せずを通していた。
十年の間、内緒でつきあった異性もいた。長くは続かなかった。どこか上の空であり、素っ気ない態度に嫌気をさす女性から、別れを切り出されるのが常だった。
侯爵家の夫人の座を狙っての女性もいたかもしれないが、だいたいが『思っていたより、つまらない男』というレッテルを張って去っていく。去ってくれることにほっとして、誰もサミュエルの胸に残らなかった。
結局、サミュエルは心にいたのは、フィリスだけだった。
間接的であっても、泣かして、傷つけて、背を向けた後ろめたさは、彼女に手を伸ばさなかった後悔とともにじくじくとサミュエルのなかに残っていた。
これが吹っ切れなければ先には進めないと分かっていて、フィリスの婚約でも決まってくれたらと願い、ローレンスに彼女について問うても、彼はいつも『フィリスは仕事熱心だからね。仕事が恋人なんじゃない』と笑うのだ。
吹っ切るための口実を求めていることもローレンスにはばれていただろう。
そんなもやもやした心境を抱えて、サミュエルは渡り廊下を歩いていた。そこに小鳥が飛んできたのだ。
中庭沿いの渡り廊下で小鳥が飛んでこなければ、再びフィリスと向き合うこともなかっただろう。フィリスとの縁は、これが最後のチャンスだとサミュエルは臨んでいた。
(神は二度目のチャンスは用意しない)
小さくなっている彼女はずっとサミュエルに寄り添っている。腕に伝う後頭部のぬくもりに頬を寄せて、彼女の柔らかい頬をくすぐりたかった。サミュエルは我慢する。
(これ以上望んだら、逃げてしまうかもしれない)
手に零れ落ちてきた最愛をもうどこかへ手放す気はなかった。
(俺だって、子どもではないんだ)
正義感に駆られて、状況も理解せず、フィリスを傷つけた原因はサミュエルにある。その後、進路と見習いの仕事に逃げたのはサミュエルだ。
フィリスが、サミュエルが悪いと言えば、それは事実だし、彼女がそう言って泣けば、受け止めなくてはサミュエルだ。
彼は彼女とどう向き合ったらいいのか分からなかった。逃げて、足踏みをしているうちに時間が過ぎた。フィリスとは挨拶もなくなっていた。状況さえ、諦めさせてもくれない中途半端なまま。自己保身で逃げていたと自覚した時には、フィリスとの接点は無くなっていた。
(後悔はもう嫌というほどしているんだ)
「痛っ……」
「フィリス?」
フィリスが顔をあげて、サミュエルを眺める。痛そうに歪んだ顔を見て、サミュエルは手に力が籠ってしまっていたことに気づく。
「ごめん」
さすがにサミュエルの手が退いた。フィリスは肩をさすりながら、眉を歪めてはにかんだ。大丈夫だと伝えたいようだった。
再びサミュエルはいたたまれない気持ちにかられる。
「……ごめん」
「いいよ。なにも気にしないで……」
サミュエルは頭を左右に振った。
「フィリス。ごめん」
「気にしないで。ねえ、サミュエルはお腹空いてない。さっきから良い香りがするのよ。待ってて」
フィリスは背をむけ、身軽にもステップを踏みながら、ある屋台に向かう。そこでは木製の寸胴な鍋のようなものからもくもくとゆげがたっていた。
フィリスは店主と言葉を交わしす。店主は大きな袋に湯気がもくもくとたちのぼっている木製の寸胴鍋の蓋を開けて、白い丸い食べ物をトングで掴んで袋にぽいぽいと入れていく。フィリスは店主と言葉を交わしながら白い食べ物を詰めた袋を受け取り、支払いを済ます。
サミュエルはフィリスの背後に近寄り、立った。
気配に振り向いた彼女が、にっこりと笑う。
「この前のお礼よ。食べながら歩こうよ」
その笑顔はサミュエルの追憶を洗い流す。悔いを洗い流した胸の内を、花咲く喜びが満ち満ちる。
フィリスは店主に礼を言う。店主は、「またどうぞ。お嬢さん」と笑って見送る。
歩き出したフィリスは抱えた袋からがさがさと手のひらに乗る小さな丸い食べ物を差し出した。
「蒸したパンだよ。とってもあたたかくて柔らかいの」
サミュエルはフィリスから蒸しパンを受け取った。思った以上に熱くて、サミュエルは左右の手で「あつっ」と交互に投げながら、熱を逃がす。
フィリスも自身の分を取り出す。初めから熱いと分かっている彼女は指先でつまむように持っていた。口元に寄せ、息を吹きかける。
夜風と吐息で冷まされた蒸しパンを彼女が噛んで、咀嚼する。飲み込んで笑む。
「甘い。あったかくて、柔らかいからかなあ」
冷めた蒸しパンをサミュエルも片手で持つ。
まだ食べていない彼を見上げる彼女が笑った。
「一緒に食べよう」
『一緒に遊ぼう』
十年前、伯爵邸で子供用の黒いローブ姿のフィリスの笑顔を思い出す。
彼女が操る土人形は軽妙で力強く、やんちゃなサミュエルの発散相手に丁度良かった。彼女ほど、サミュエルの心を満たす遊び相手はいなかったのだ。
始まりが友情に近かっただけに、サミュエルは恋情に気づくことに遅れた。そして、手遅れになってしまった。
(もう一度やり直せるなら……)
悔いと願いと共にサミュエルはフィリスからもらった蒸しパンを食んだ。




