水無月と慰めの豆腐丼 中
コンコンコンと硝子戸を叩くと、ほどなくして中から中年の男性が現れた。どうやらこの工場の人事係らしい。文は背筋を伸ばし、頭ひとつ分ほど上にある彼の顔を見据えた。
「お初にお目にかかります。私、ここで女工を募集していると聞き志願に参った者です」
「あぁ、成程。まぁお入り」
人事係に促され、文は事務所の扉をくぐった。事務員が数人、各々の作業から視線を一瞬だけ文にやり、すぐに戻した。電球の明かりが白々しく部屋に広がっている。
「それで、君、夫は有るのかね」
「・・・?」
年季の入った机を挟んで人事係と向かい合っていた文は、しばし目を瞬かせた。
「結婚しているのかと聞いているのだ」
人事係は僅かに眉をひくつかせてから訊き重ねた。
「夫はおりません」
そう答えた文に、人事係はさらに幾つもの質問を始めた。
「何時何の目的で東京へ来た?」
「元より東京で生まれ育ちました」
「ふぅん。今回志願しに来たのは何故だ」
「以前勤めていた工場が潰れ失業したからです」
「まぁそうだろうな。家族構成は?ほかに職を持っている者はいるのか」
「母と兄、妹と弟が二人ずつおります。母は縫物の内職をして、兄は工場に勤めています。妹や弟たちも内職の手伝いをしています」
「父親は無いのか。戸主は」
「はい、昔病をえて逝きました。今は兄が戸主となっております」
(・・・なんで、こんな根掘り葉掘り聞かれなくてはならないんだろう。人事に関係のなさそうなことばかりなのに)
なおも続く質問に答えながら、文はいつの間にか両の拳をぎゅっと握りしめていた。
必要最低限のものが散らばっているる事務所が、妙に殺風景でつめたく思えた。
「・・・・よろしい」
人事係はようやく質問を終えたようだ。採用してもらえるのか。文は生唾を飲み込んだ。
「おまえは背が低いから駄目だ。此処では五尺一寸(約154.5cm)以下の者は絶対に使わない」
「なっ・・・・・・・・!」
文は口をぱくぱくさせた。同時に、何かが胸の中でカッと熱くなるのがわかった。
「女で五尺一寸以下の者を採らせぬといえば、全女子の半分以上はダメですよ。現に私だって五尺に三寸も足りない。それなら何故あの募集の札に一言、そう書いてお置きにならないのですか!」
人事係の蟀谷がひくりと動いた。
「何だと!女工のくせして生意気な理屈言うな!!」
ガタリ、と荒々しく乾いた音がした。目の前の、工場の人事係…一事務員でしかない男が椅子から立ち上がった音だと理解した瞬間。
文は、左の頬に火花が散るような衝撃を感じたー
***
「・・・とまぁ、このような次第です」
文はお茶を一口すすって、赤くなっている左目の下をさすった。
「情けないのか悔しいのか怒ってるのか、自分でもよく分からないんですけど。家族のためにも早く仕事を見つけなきゃならないのに、あんな扱いされて、ぐちゃぐちゃで」
でも、と文は はづきと洋ちゃんを交互に見やった。その口角は、自然に上がってやわらかい微笑をたたえている。
「ここでお昼を食べて、気持ちも落ち着きました。やっぱり自分のために誰かが作ったご飯っていいですね。豆腐丼もお味噌汁もあったかくて美味しくて、癒やされました」
はづきと洋ちゃんは、何も言わずに文を見つめるしかなかった。湿気が増えてきた六月の重い空気が、鬱陶しい。
「うちの料理で元気出してもらえたのは光栄だけど」
洋ちゃんが顔をしかめた。
「その事務員、腹立つな」
はづきも黙って頷いた。はづきも、その人事係のような男性に出くわしたことはある。それが、この世の中では日常茶飯事なのか。
「世の殿方は、女性よりも自分の方がずっと優れていると思い込んでおられるのが多いですからねぇ」
「ひゃっ、アヤさん!?」
急に後ろに大鳥アヤがいたので、はづきは肩をびくっとさせた。アヤは仕事に行く用の、よそゆきの羽織を着て手に風呂敷を持っている。それにしても、出歩くにはちょいとお昼時を過ぎすぎているが。
「アヤさんお仕事は?」
あぁ、と言って、アヤは何か吹っ切れたような清々しい笑みをうかべた。
「先程、上司の顔面に辞表を叩きつけて参りました」
「は!?」
声を上げたのは、はづきや洋ちゃんだけでない。厨房のマサヱと孝男も、口をあんぐりと開けていた。
「アヤさん、あなた結婚しても職業婦人は続けるってあれほど言っていたのに」
「それがね、上司が『女は結婚したら家庭に入って云々』五月蠅くて。今までは耐えてたんだけれど、ついにうちの夫の悪口まで言い始めたから、その場で辞表書いて、これですよ」
アヤは前方の宙に平手打ちをする仕草をした。
「あんな上司のもとで働き続けるくらいなら、辞めて職場の人手を減らしてやった方がスッキリします。幸い、知り合いの伝手で他の就職先のアテもいくつかありますし。
あ、皆さんの話は盗み聞きしてたんじゃなくて聞こえてきたんですよ。お気を悪くしたならごめんなさいね」
「アヤさんって、気ぃ強いとこあるよな・・・」
まぁね、と微笑して、アヤは厨房の方へ声を張り上げた。やっぱりもうお昼は看板ですか、という問いに、マサヱが割烹着で手を拭いつつやって来た。
「折角だから何か食べていきます?お店は看板にするけど」
「そうしていただけるなら有難いです」
「あ、じゃぁあの、私はこれで失礼します。ごちそうさまでした」
文は代金を洋ちゃんに手渡して立ち上がった。べつに気を使わなくても大丈夫だけどと言う洋ちゃんに、母に家のこと任せてきたままですからと断って。
「文さん、でしたっけ?」
扉へ向かうところを呼び止められて、文は振り返った。ちょっと身を固くした彼女の目を、アヤは真っすぐに見ていた。
「もし自分が情けないと思っているのなら、それが何故かを考えてみてください。あなたは悪くない」
二、三度瞬きをしてから、文はこくりと頷いた。その表情に緊張の色は無かった。
店の入り口で文を見送るとき、急に謝られたので、はづきはポカンとした。何故文が自分に謝るか分からない。
「最初にあなたを見たとき、異人さんかと思ってしまいましたから、失礼かなと」
はづきは僅かに眉を上げ、やがて苦笑した。
「べつに気にしないで下さい。よくあることですから」
先程まで白っぽかった雲がだんだんと黒い薄布をかぶせたようになってきている。。雨が降り始めてもおかしくない。文さん丈夫かなとも思ったが、もう彼女の姿は通りの向こうに紛れていた。
からん、と不愛想な音を立てて、扉にかかった札を『準備中』に変えると、マサヱがアヤに訊くのが聞こえた。
「もうお出しできるものは限られてるんですけど。豆腐丼は如何?さっきのお客さんと同じやつ」
「はい、それを頼もうと思ってたところです。
・・・・・・・疲れて、自分を慰めたいときは、まさむね食堂の豆腐丼が食べたくなるから」
間髪いれずにそう答えたアヤの笑顔は、はづきも見たことのないものだった。
泣く直前のような、それでいて、堪忍袋の緒が切れる直前でもあるような。
前回のタイトルに「上」をつけるのを、しれっと忘れている