皐月の勇気、さくさくコロッケ 中ノ弐
早朝は、草と土の匂いが濃い。まだ夜の名残を留めた大気を、勇一は深く己が身に取り込んだ。
足元が、乾いた土からごりごりとした砂利とつめたい草の感触へと変わる。
磨き上げたかのように、不思議さを感じるほど滑らかな水面に光を集めて、するすると通り過ぎる川の流れを、勇一はぼんやりと眺めていた。
「よぉ、千崎さんじゃねえか!」
聞き慣れた、よく通る陽気な声のした方を振り返る。勇一は、チャキチャキした素早い動作で近づいてくる洋ちゃんを見て、少し眉間にしわを寄せた。
「・・・店の準備とか、大丈夫なのか?」
「なに寝惚けたこと言ってんだ、今日は定休日だろが」
「え」
「まさか、定休日のこと忘れてたんじゃないだろうな?ふふっ、店がないから、この辺の野草を探索がてら散歩してたんだよ」
にやにやしながら勇一の顔を覗き込む洋ちゃんは、なるほど確かに、いつも働いているときに来ているのとは違う、灰色がかった茶色の質素な作務衣姿だ。
「私立の高等小学校の教師ともあろう方が、行きつけの食堂の定休日を忘れるとな。ちょいと間の抜けたことでございやすねぇ、地理担当の千崎先生」
洋ちゃんは、頭のてっぺんで無造作に束ねた黒髪を揺らし、わざと変な喋り方をした。端整な顔を歪めて、あからさまに眉間へしわを寄せる勇一が、なんとも可笑しく感じられる。そういえば、こういうふうに話すのは初めてだったかもしれない。
「まぁ何にせよ、今日うちは休みだからさ。はーちゃんと、どっか行ってきたら?」
まさむね食堂の定休日は、毎週日曜日と第二水曜日だ。今日は日曜日だから、勇一も仕事が休みなのである。
「ん」
無意識にうなじへ手をやり、勇一は眉間にしわを寄せて、そうだな、と呟いた。昨夜、はづきに羽織を貸したまま帰ってきてしまった。道理で帰り道、肌寒く感じたわけだ。
だが勇一は、昨日の今日で はづきと逢引きするのが何となく気が引けている自分もいることを感じていた。まだ、昨夜心の表面に浮かんできた、もどかしさのような後ろめたさのようなものが残ったままだ。
心が平静でないまま川に石を投げると、水面で跳ねずに沈んでしまう。
下駄を履いた素足に、雑草に吸い集まった朝露がつめたい。
洋ちゃんは、眉間にしわを寄せたまま何やら考え込んでいる様子の勇一を、じっと見た。今まで何度も胸の内で否定してきたが、今の勇一を見ると確信にかわってゆく。
「千崎さんって、なんかさ・・・怖がってんの?はーちゃんとの関係を進展させること」
ぴんと張りつめた朝の風が、土手の草むらをざわりと騒がせた。
勇一は自分の心臓が耳の奥でどくりと鳴るのを聞いた。その切れ長の目が、いつもより僅かばかり大きく見開かれる。
「大切な人を、ほんっとうに大切な、大好きな人だと認めるのが怖い、とか?・・・いや、今のは・・なんでもない」
かるく頭を振って、洋ちゃんは砂利の上にどっかと腰を下ろした。その視線は、勇一ではなく、川の、もっと深いところを見つめていた。
雀が、ちゅんちゅんと鳴いている。
「・・・・・・・僕の名前は、政宗洋子だ。これは知ってるだろ?」
「ああ」
じゃあこれは知ってるか、と洋ちゃんはちらりと勇一を見て、すぐにまた視線を川へ戻した。
「まさむね食堂の二人の娘のうち、父ちゃんと母ちゃん…孝雄とマサヱと血が繋がってないのは、藤田はづき だけじゃないってこと」
眉にしわを寄せるのをやめて、勇一は立ちすくんだ。洋ちゃんは、いつもと変わらない口調で淡々と話し続ける。
「僕は、叔母さん…生みの母親の腹の中にいるときから、父ちゃん母ちゃんのところの養子になるのが決まってたんだってさ。叔母さんとこは子沢山で男の子もいっぱいいるけど、うちの政宗夫妻には子供ができなくて、跡継ぎがいなかったから。そんで、生まれてすぐに養子縁組をして、政宗家の子になった。
今どき珍しいことでもないだろ?どこだって、跡継ぎは必要なんだから。
ただし僕は、食堂で働いてるときは はーちゃんと僕がいて『お姉さん』ってっ呼ばれたら紛らわしいから男装してるけど、女だからさ。家は継げない。・・・生まれる前は、ぜったい男だと思われてたみたいだが」
ははは、と笑って、洋ちゃんは少し間をおいた。
「だから僕は、誰かに婿養子に来て家を継いでもらわなきゃならない。・・・好きでもない野郎と結婚して、子供を産んで、また次の跡継ぎを育てて・・・そういう人生」
そこで振り向いて、洋ちゃんは勇一の目を真っ直ぐに見つめた。
「千崎さんにも、はーちゃんにも、事情があるんだろうけど。でもさ、二人は僕よりは人生を選べる。好きな人と結婚できる。 胸を張って、好きな人のことを好きだと言える。
はーちゃんも千崎さんも、過去に失ったものがあると思う。それを、何やかや美化して言うつもりは毛頭ない。でも、現に今、はーちゃんは自由に恋愛できる立場だし、千崎さんもそうなんだろ?だったらそれは、逃しちゃいけないというか・・勇気が出なくても、もっと、前に進んでほしいと僕は思う。
・・・二人は、好きな人のことを、好きだというのが、許されてるんだから、さ」
がばっと立ち上がって、洋ちゃんは尻をぱんぱんとはたいた。
「すいません、こんな、説教臭く自分の身の上話までしちまってさ」
「いや」
勇一は、ありがとう、と呟き、思いついたように問うた。
「そういえば、食堂で働いてるときは男装をするのならば、べつに定休日まで男装したり男っぽい喋り方をする必要はないのではないのか」
いつの間にか昇りきった朝日が、洋ちゃんの曖昧な微笑みを白く照らしていた。
***
「ありゃぁ〜、何度来ても人がいっぱいですねぇ!」
はづきは、まさむね食堂とは比べ物にならない人の波を前に、赤い瞳をきょときょとさせた。すっかり昇りきった太陽が、窓硝子を、人波を、建物を、まぶしく照らしている。傍らで勇一がこくりと頷く気配がした。
東京・浅草。 日本随一の、娯楽の街。
「何か旗が沢山ひらひらしてるし、モガさんやモボさんが沢山いるし、何回見てもきらきらしてる」
はづきは、街のきらきらに負けず劣らず、赤い瞳をきらきらさせた。この賑やかで華やかでごちゃごちゃしたところに来ると、自分の一等お気に入りの着物も目立たないように思えてならない。
逆に、この黒い大ぶりの蛇目傘がなければ、自分の白い髪や赤い瞳は情けないほど目立ってしまうだろう、とも。
いっぽう勇一は、洋服の上にいつもの羽織という、普段と全く変わらぬ地味な服装であるにもかかわらず、特に娘たちから降り積もる視線を鬱陶しげに受けている。姿も顔立ちも整ったこの青年、どこへどんなに地味な服装で行っても、結局は人目を引いてしまうらしい。雑踏が苦手な性分なのか、あさっての方向を向いて歩いていた。
「活動写真の後に、蕎麦でも食べましょうか」
「日頃から食堂で働いて、休みの日も食堂か」
「見慣れてるところと、そうでないところでは全く違いますよ」
「まぁそうだな」
「久しぶりに天ぷら蕎麦が食べたいです」
「そういえば、はづきさんは天ぷら蕎麦が好物なんだったな。俺は笊蕎麦でも食べるよ」
「あ、ねえねえ勇一さん、あそこで雷おこし買わせてください」
「ああ」
煉瓦造りの建物が並ぶ仲見世を抜けると、六区通りに出る。まさむね食堂などとは比べ物にならない、人、人、人。
人波のなかの一人一人が、笑い、喋り、誰かの手をとり、あるいは独りで、せわしなく動いている。
(私は、この中の一人でしかないんだ)
時が止まってしまいそうな雑踏のなかで、はづきはポツリとそう思った。
サクッ
噛んだ瞬間に、汁に浸かっていた部分の衣から、じゅわぁ〜っと汁が染み出した。鰹と醤油の香りと、なんともいえない香ばしい風味が舌を包む。
「おいひ」
ぷりぷりの海老天をごくりと飲み込んで、はづきは至福の息を吐いた。この蕎麦屋の蕎麦は、丼からはみ出さん勢いの海老天が乗っかった天ぷら蕎麦が人気だ。日曜のお昼どきという時刻もあいまって、まさむね食堂より若干広いぐらいの店内は、なかなかの賑わいようだった。
「はづきさん、まだ目が赤いぞ」
「だってあの活動写真、良かったんですもん」
笊蕎麦にするか天ぷら蕎麦にするか、至極真面目な顔で眉間に深いしわを寄せつつ悩みぬいた末、結局勇一は天ぷら蕎麦を選んだ。ずるずると喉越しのよい蕎麦をすすり、もごもごと話しかけてくる勇一を見て、はづきは頬を緩ませた。
勇一はというと、いまだに丼だけに視線を固定している。
それでも蕎麦は、暖かい。
「あぁ、美味しかった」
熱く満たされた腹をさすり、はづきは蛇目傘から覗く青空を振り仰いだ。絵の具で染めたような、鮮やかで優しい青。
その青に吸い込まれそうな気分で、はづきは隣へ振り向いて苦笑した。
「いつのまにそんなに買ったんですか」
「・・・いやぁ」
いくつものお菓子の袋を羽織の袖の中へしまい、それでもまだ手に雷おこしの袋を持って、勇一はそっぽを向いた。何やらもごもごした声なのは、ごまかしたいだけではないからだろう。
「自分だけ食べてないで、私にもちょっとくださいよ」
「はづきさんだって、さっき買ってたろう」
「もう」
また苦笑して、はづきは勇一の右手へ手を伸ばした。
「じゃぁこの右手からもらいましょうかね」
ふいっ
「・・・」
ちょっと触れ合いかけた手を、はづきには届かない頭上に上げて、勇一はまたそっぽを向いた。
「勇一さん・・・」
急に歩く速度を速めた恋人の背中を追って、はづきは小走りに言葉を繋いだ。
「私は、そんなに目も合わせられないほど醜いですか?!」
とん、と勇一の背中に蛇目傘が当たって、はづきは立ち止まった。
「・・・それとも、まぶしいくらいに綺麗だとでも思ってるんですか」
ぴくり、と勇一の腕が震える。
ちょっと躊躇ってから、はづきは頭ひとつ分上にある勇一の頭を見上げた。溜息のような言葉が、口から洩れた。
「私は勇一さんが思っているほど、綺麗じゃないですよ」
周りは人でごった返し、絶えず音であふれているのに、はづきには、それらが遠く感じられた。
「私は、ここにいる沢山の人たちのなかの一人でしかないです」
「・・・そんなわけ、ない。はづきさんほど綺麗な人は、なかなかいない」
高等小学校→尋常小学校(6年間)を卒業した者が通う学校。当時、二年制。義務教育ではない。そんなところで二十歳やそこらで教師やってるって、勇一や寅太(←同じ職場)は実は結構すごい人たちである。
活動写真→映画のこと。
なんか長くなってきてしまいました。次回には「皐月」の話はひと段落します。なかなか更新できなくてすいません、、、
ちょっと、あらすじを変更しようと思います。あらすじと本編の内容が離れてきているので。
追記
投稿したとき、「活動写真」を「映画」としていましたが間違いだったようです。よって変更いたしました。あぁ、これでまた現時点の全話において(改)がつくことに、、、