皐月の勇気と、さくさくコロッケ 中
ザシャクッ
煎餅を割る時のように歯切れのよい、かろやかな音が夜の空気を震わせた。
サクサクの衣から、ねっとりホックリとした芋と微塵切りの豚肉や玉葱が混ざりあった具が現れる。ちょっぴり胡椒の辛味が舌を包む。衣の香ばしさと具の自然な甘みがとろけあい、口いっぱいに広がる。
勇一は、ホッホッと熱い息を吐きながら、その味と食感に酔いしれた。外で溢れている虫の合唱が、しばし聞こえなくなる。
「どう?」
少しうわずったマサヱの声に引き戻されて、勇一は視線を上げた。
「・・・玉葱をかなり増量したのか。胡椒も利いている」
「ええ」
「じゃがいもが、いつものよりホロホロした感じがするんだが、いつも通りのほうが俺は好きだ」
「なるほど・・・」
何か思案しながら頷くマサヱを前にして、勇一は他の客に目を向けた。同じく新作コロッケの試作品を試食している顔なじみたちが、思い思いの感想を口にした。
「ちょっと辛くないか?」
と、長島京がぐびりと酒を飲むと、
「いや、オレはこのくらい辛いほうが好きだね」
「玉葱が甘いし」
と常連・宮野芳夫、黒二の兄弟が言い返す。
「美味しいな。だが、おやっさん、これ作るの大変じゃないのか?玉葱の微塵切りがたっぷりだぞ?」
体をひねり、厨房の孝男に向けて声を張り上げたのは、寅太。
「ばか、お客は味と値段の心配してろ!こっちのことは、どうとでもするさ」
菜切り包丁を持ったまま、片方の眉を上げて叫ぶように返す孝男は、その大柄さと相まって迫力満点である。
「赤木、それより心配すべきことがあるだろ。おまえの溜め込んだ・・」
勇一が言葉を切ると、その隣には、はづきがいた。白い髪はしっとりと濡れ、ほのかに甘い香りと、湯とぬか袋の匂いがした。
「・・・っ」
いつの間にここに、という言葉が、喉元に引っかかった。茅色の地味な浴衣からすらりと伸びている首。その真っ白な肌が温かく湿り、上気していて、直視するのを躊躇われる。
勇一がまごまごしているのも露知らず、はづきは赤い瞳をキョトキョトと動かして苦笑した。
「ありゃ、勇一さんも皆さんも、もう試食してらしたんですか」
「あ、あぁ」
困ったように眉にしわを寄せ、頬を桜色に染めてそっぽを向く勇一を、芳夫と黒二がにやにやしながら眺めている。二人は勇一と寅太よりひと回り年上で、それぞれ結婚もしているのだが、たまにこうして二人でまさむね食堂にやって来る。芳夫曰く、無愛想で奥手な勇一を、兄貴のような気持ちで時にはからかい、時には見守っているらしい。
「んじゃ、オレたちゃ帰るわ。おばちゃん、お勘定お願い」
はづきと勇一を交互に見やってから、芳夫は羽織を肩にひっかけて唐突に立ち上がった。黒二もそれに続く。
新作コロッケ楽しみにしてるよ、と言い残して、二人は夕立のように町へと消えていった。
はづきが戸惑う暇もなく、今度は長島がいそいそとまさむね食堂を後にしていった。なぜか、はづきに向けて片目を瞑ってみせて。
「・・・なんか、急に静かになったな」
寅太は唖然として、しばし店の入り口を見つめていたが、やがて何か思いついた様子で立ち上がった。
「千崎もさっき言いかけてたけど、俺、仕事をえらく溜め込んじまってるんだ。悪いけど先に帰る」
そして、勇一を見て意味ありげににやっと笑った。
***
はづきは、風にさらわれたのかと言いたくなるほど唐突に皆が帰っていった店内を見つめた。マサヱと孝男も、厨房の奥でコロッケのことでも話し合っているようだ。
部屋から急に大勢が出ていくと、人といっしょに熱気も出ていく。髪がまだ濡れているうえ、薄い生地の浴衣を着ただけで上になにも羽織っていないことを、はづきは少し後悔した。
すぐ隣に座っている恋人の気配だけが、強く肌に伝わってくる。
(みなさん・・・)
けっこう下世話というか、何というか。
肩をすくめて勇一の方を向こうとすると、目が合った。
目が合った、と思うと、勇一はぱっと目を逸らした。ややあって、衣擦れの音。ポスッとくぐもった音がして、はづきは、首筋から腰にかけて柔らかいものが包むのを感じた。
え、と声が漏れるより先に、鐘のような静かな声が耳をついた。
「・・・湯冷めするだろ」
勇一は、頬杖をついてそっぽを向いたままだ。表情が見えない。
「それに、とても見てられんし」
「は!?それどういう意味ですか、失礼な」
頬をふくらして勇一をかるく睨んでから、はづきは肩にかかった柔らかいものに目をやった。
見慣れた布地。勇一がいつも洋服の上にはおっている羽織だ。
「・・・」
いいんですか、と呟いて、その羽織の裾を見つめた。まだ、勇一の体温が残っている。虫の音も家々のさざめきも、一瞬止まったように、はづきは感じた。ただ、そこにぬくもりがある。首から背中から、全身をめぐって、身体以外のところまで染み込んでいく、ぬくもり。
襟を胸元まで引き寄せてすこし顔をうずめると、勇一の匂いがした。
「・・・ここの人たちは、いい人ばかりですね。
こんな日本人離れした容姿の私のことも、・・洋ちゃんのことも、蔑んだりせずに、よくしてくれる」
「好奇の目で見ることはあるがな」
「それはそうでしょう。誰でも、自分の知らない未知のものが目の前に現れたら戸惑うし、好奇心も恐れる気持ちも湧くでしょ。私だってそうです。 重要なのは、それから、ですよ」
「そうか」
「勇一さんも、分かりやすくはないけれど優しいです」
「・・・べつに」
「あ、この羽織、紺色一色だと思ってたけど違うんですね。よく見たら、浅葱色と臙脂色が細い格子模様になってて綺麗です」
「今さら気付いたか」
「だって、すごく細かいんですから。遠目には気付けません」
「ふぅん?ぴったり近くにいたら、気付きそうなもんだがな」
「だから気付かなかったんですよ」
ぽつぽつと屋根を叩く雨のように、静かなやり取りをしていると、はづきは心がほわっとなるのを感じる。そしてそれは勇一も同じなのだということも。
勇一が眉にしわを寄せた。今の言葉はどういう意味だ、といっているのだ。
はづきは、いたずらっぽく口角を上げた。
「だって、ぴったり、と言うほど近く勇一さんに近づいたこと、今までないんですもん」
眉ひとつ動かさずに、そうか、と呟く恋人を眺めて、はづきは微苦笑をうかべた。態度には出していないけれど、彼の心の揺れがよく分かる。
***
高く広く澄み渡った夜空に浮かぶ、無垢な月。あるいは、すべてを温かく撫でる太陽。はづきは、そんな輝きを帯びているようで、触れようと思うたびに手が動かなくなる。こんなに綺麗な人に、俺などが触れていいのだろうか。そんな思いが、いつも勇一の心を鎌鼬のように掠める。
厨房から、湯気の上がる茶を二人ぶん持ってきた はづきを見て、勇一は微妙に目を細めた。熱く香ばしい、胸がすくような茶の匂いが二人の間を漂う。
世間一般から『恋人』と言われる、こういう関係になって一年と半年が経つ。
(・・・だが、いまだに)
はづきを、抱き寄せたことすらないのだ。今さっき、はづきに指摘されたことが、放っておきたくても気になる指のささくれのように勇一の胸を突いた。
勇一の勇は、勇気の勇だから
身体がねじ切れそうになるほど、なつかしいひと。そのひとの声が、耳の奥で響く。
(たしかに俺は、勇敢な奴だと言われてきた)
ほどよく熱い茶を体に染みとおらせながら、勇一は隣にいる恋人を見やり、すぐに目をそらした。
(でも、人間関係に関する勇気は、ほとほと無いようだな)
一月前より暖かくなったはずの夜気が、勇一の肌をつめたく締め付けた。
茅色・・・葺替えたばかりの茅葺屋根のような、わずかに赤みを帯びた、くすんだ黄色