卯月の恋とライスカレー 下
小さく開いた店の窓から、雨の匂いが入り込んでくる。夜の空気が冷たい。はづきは、浴衣の襟を詰めながら勇一の隣に腰を下ろした。
「まずね、須田さんと大鳥さん、1週間も会ってないんですって」
勇一の隣で、赤木が目を見開いた。あまり物事に動じない勇一でさえ、わずかに眉を上げている。
二人が驚くのもむりはない。須田啓次郎と大鳥アヤは家が近く、さらに職場も近い。仕事の昼休みには、ほとんど毎日のように連れ立ってまさむね食堂にやって来るのだ。だから、あの二人が一週間も会っていないというのは、前代未聞のことだった。
「たしかに、ここ最近見ないと思っていたら・・・」
赤木は、呆然とした様子で青菜の炒め物の最後のひと口を口に運んだ。ごま油の香ばしさが広がり、青菜のシャキッとした歯ごたえが心地よい。
「そうなんです。それだけに、今回のケンカはお二人にとって深刻なようで。ここからが本題ですよ。・・こういうことは、あまり他の方に言うものではないのでしょうけど、お二人・・とくに赤木さんは、須田さんともよく喋ってらっしゃいますし、なにかお力になってあげられると思うので、お話しますね」
ことの発端は、アヤが作った料理を二人で食べたときの啓次郎の反応に、アヤが拗ねたことらしい。啓次郎は「うまい」と言ったのだが、それは、まさむね食堂で食事をするときほどの感動はこもっていなかったのだ。
「まさむね食堂でごはんを食べるときはいつも、あんなに幸せそうな顔をしてるのに、私のではああいう笑顔を見せてくださらないのですね」
「な!?食堂の料理と、アヤさんの料理とはまた違うだろう!」
「じゃあ、私の作ったしょぼい料理なんて食べてないで、ずっとまさむね食堂でごはん食べてればいいじゃないですか!」
「そういう問題じゃないだろう。それなら、アヤさんだって、俺といるときより食堂の常連さんと喋ってるときの方が楽しそうなくせに!」
「そんなことありませんよ!」
「そんなことある!それに、ご両親がいらっしゃるときには、俺といるのが嫌なんだろう?親に言えないのなら、ほk」
「ほかのもっといい男と付き合えばいいじゃないか、でしょう?それはこっちの台詞ですよ!いったいいつまでこの関係のままなんですかッ?!」
啓次郎は今年二十七歳で、アヤはひとつ下の二十六だ。お互い、もうとっくに結婚していてもいい年である。とくに、アヤは『いい年になっても働いてばかりで結婚しない親不孝な娘』として、親類からの風当たりがだんだん強くなっているという。だから、いつまでたっても結婚の話を切り出さない啓次郎に内心やきもきしているし、啓次郎がなかなか切り出さないので、なにか事情があるのではと思って勇気が出ず、自分もそういう話を切り出せずに、微妙な思いを胸に秘めていた。
「・・・あ、このアヤさんの心情のことは、以前、アヤさんが私に愚痴っていたことなんですけどね」
勇一は酒をすこし口にふくみ、赤木は先を促すように小さくうなずいた。
啓次郎の父は、啓次郎が幼いときに彼の縁談を進めた・・つまり啓次郎には許嫁がいることになる。七つ年下の相手。しかし、啓次郎には長いこと知らされず、相手の女の子はただの友人だと思っていたそうだ。彼女が許嫁だと啓次郎が知ったのは7年ほど前・・すでにアヤと交際していた頃だ。アヤと別れたくはないが、許嫁の女性は仲がいい大切な友人だし、なんと彼女の父親が啓次郎の職場の人事部長だと判明して、足蹴にもできず、今までのらりくらりとかわし続けてきたのだが、それにもだいぶ限界が見え、啓次郎も悶々とした思いをかかえていたのだという。
だからなのか、啓次郎もアヤもむきになり、これ以上は「話すのもイヤ」なケンカを繰り広げて、以来会ってもいないという。つまり、料理の反応を皮切りに二人の鬱屈した思いが爆発し、後かたづけができずに嫌な後味を残したまま引きずっている、ということだろう。
しとしとと降り染む雨の音と、いつもよりずいぶん少ないお客たちの青い物音がさざめきとなって、しっとりと響いている。勇一は話を聞き終えるや、端整な顔をゆがめて眉間にしわを寄せた。
「これは俺たちにはどうしようもないのでは」
赤木がため息混じりに口を開くのと、店の戸がカラリと勢いよく開けられるのとが同時だった。
「ありゃ。噂をすれば何とやら」
はづきは呟いた。闇の中、雨とぬれた土の匂いをかすかにまとって入ってきたのは、長島と、長島に引きずられるような体勢の啓次郎だった。長島は赤井の向かいにどっかと座り、啓次郎に座るよう促した。帰り際のほかのお客を見送っているマサヱに、ついでのように小鉢料理を注文する。水を飲んで一段落したのか、長島はおもむろに口を開いた。
「さっき、そこで須田とばったり会ってな。ここしばらく、まさむね食堂に来てなかったうえに、いつもと様子が違うんで訳を尋ねたら、なんだぁ、大鳥さんとケンカして顔もあわせてないだぁ!?許嫁?!須田がもっとハッキリした態度をしめさんと、大鳥さんもどの道を信じたらいいかわからんだろうが!」
怒気をふくんだ声で一息に言った長島に、赤木もはづきも、ぽかんと口を半開きにした。
勇一だけ、我関さずといった顔で、まさむね食堂自慢の品・きゅうりのぬか漬けをぽりぽりとかじっている。
緊張感のない恋人の頭を軽くはたきつつ、はづきは啓次郎の顔を見やった。啓次郎は、普段とちがう長島・・その真剣な目つきに気圧されたのか、こわばった顔をして次の言葉を待っているようだ。
「・・・前に、言ったよな。大鳥さんは、おまえさんには勿体ないくらいの女なんだから、大切にしろって」
「・・・ああ」
長島は唇を湿して、啓次郎の目を真っ直ぐに見た。
「おれは、嫁さんを大切にしてやれなかったんだ。ある日突然、逃げられちまった。娘は、おれのことを過剰に嫌ったりはせんけども、でも、かわいそうなことをしたと思ったよ。 ・・・須田には、ほんとうに大切な人を大切にしてほしい。おまえさんは、どうしたいんだ?」
啓次郎の黒い瞳がゆれるのを、はづきは見ていた。
「・・・俺は」
啓次郎は、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「許嫁も、いい子だから、そりゃ、傷つけたくは、ない。断ったら、仕事に影響が出るかどうかも、不安で。・・・でも」
ゆれていた啓次郎の瞳に、つっと強い光がうかんだ。
「・・・アヤさんを悲しませるのが、いちばん嫌だ。アヤさんが笑顔でいてくれるなら、俺はずっと幸せだ」
啓次郎は、くるしそうに顔を歪めた。
「これが、本音。でも、どうすればいいか、勇気が・・・俺が縁談破棄して結婚しても、アヤさん結局、苦労するだけじゃないかなって」
「それはそうです」
はづきは言った。五人のまわりを包んでいる薄暗い沈黙を突きやぶるようにして。啓次郎たちの視線を一気に受けながら、はづきは続けた。
「そうなったらきっと、須田さんのご両親のアヤさんへの風当たりは、そりゃあもう強いでしょうよ」
はづきは、無意識のうちに膝の上で両の拳をぎゅっと握りしめていた。
「でもね」
言葉を選びながら啓次郎の目を見て、はづきは続けた。
「絶対、それだけじゃないです。アヤさん、須田さんのことが大好きなんですよ。心から須田さんを愛してなさるんです。今まで何回も、のろけ話を聞かされましたから」
頬を薄紅色に染めてのろけ話をするアヤの様子を思い出し、はづきは微笑してから、真面目な顔にもどり、腰を浮かせて身を乗り出した。さっきまで少し肌寒く感じていたのに、今は身体がほてっているように思う。
「だから、四の五の言わずに、まずは仲直りしてください!須田さんの素直な思いを、アヤさんに伝えてください!アヤさんも、意地張っちゃってるんでしょうけど、心の奥では、それを待ってると思います!
・・・お二人の、これからのことを考えて悩むのは、その後からでいいでしょう!」
珍しくはづきが強い語気になったのに驚き、啓次郎は、はづきを見つめた。その濃紺の瞳を見つめ返して、はづきはゆっくりと言った。
「アヤさんと須田さんが一緒になるのは、それなりに苦労も多いでしょうから、第三者の私が気軽に勧めることはできません。でも、もっとアヤさんを信じてあげていいんじゃないでしょうか。アヤさんは、自分で決めたことは最後までやり通す、強いお人です。それは須田さんが一番よく知ってるでしょう?アヤさんは、決して弱くない。 私は、お二人に、本当に幸せになれる道を選んでほしいです。そのためにまず、仲直りして、思いを伝えてください」
「・・・大切な人への大切な想いは、伝えられるうちに伝えといたほうがいいぞ。でないと後悔する」
勇一が、ぼそっと呟いた。
雨足が弱くなってきた。
啓次郎は、はづきを見つめ、ややあって頷いた。その瞳に、強い決心の光がはっきりと宿っている。
静かに深呼吸し、ありがとう、と啓次郎は呟いた。
「俺、今からアヤさんのとこへ言ってくる」
「今から?!」
すっかり夜の闇に覆われている外をちらりと見やって、啓次郎は頷いた。
「今ならちょうど、風呂炊きでもしてる頃だろ。こんな時間に訪ねるのはアレだってことは重々承知の上だ。でも、今すぐじゃないと駄目な気がする」
「いや、雨だし、明日でm」
「あ〜もう知らん知らん、好きにしろ。行くならとっとと行け」
はづきの声を遮って、勇一がめんどくさそうに手をひらひらと振った。
しとしとと降る春雨の中を駆けていく啓次郎の背中を、はづきは店の入り口のわきに立って見送った。雨が降っているというのに、雲はまばらになって、月がおぼろげに顔をちらつかせている。その、夜闇の中の道しるべかのような気高い光が、降り染む雨と、小さくなっていく啓次郎の背中を淡く輝かせていた。
(・・・ライスカレー)
啓次郎の好きなライスカレー。そのルウに包まれれば、たいていの食材は美味しくなってしまう。苦瓜だろうが苦手な野菜だろうが、カレーに入れてしまえば、まあ食べられないこともない。カレーに入れれば、たいていの食材は、それなりに美味しくなるのだ。
この先の苦労も、二人でならそれなりに美味しい、悪くない思い出にできる。そんな幸せを、須田さんとアヤさんが築き上げられればいいな、と、はづきは心の中で祈った。
***
勇一が、おだやかな目をしている。もっとも、相変わらず無表情なのだが。
赤木寅太は、隣に腰かけてぬか漬けをぽりぽりと味わっている友人の端整な横顔を見やって、苦笑いしそうになるのをこらえた・・・いや、ぎりぎり、こらえられなかった。
もう閉店間近で、長島も帰った。客は寅太と勇一しかいない。ひんやりとした、でも穏やかに辺りを漂う空気が心地よい。
「はづきちゃん、(二階の住居に)行っちゃったじゃないか。手首でも掴んで、引き止めればよかったのに」
勇一は答えずに、ゆっくりと寅太の方を向いて、わずかに眉間にしわを寄せた。
「消極的だなお前は。恋人なんだろ?もっと恋人らしくイチャついてもいいんじゃないか」
そこまで言って、厨房から店主=はづきの父でもある政宗孝男の刺すような視線を感じ、寅太は首をすくめた。マサヱは、からかうように微笑んでいる。
「さ、そろそろ帰るか」
お勘定を終えてまさむね食堂を出ると、雨はやみ、家々の明かりが賑やかだった。
しめった地面を踏みしめて、さっさと先を急ぐ勇一の、細身だががっしりと引き締まった背中を見つめて、赤木はまた微苦笑した。
(須田と大鳥さんの恋愛はなんとかなるだろ。でも、こっちの恋愛は、どうなることやら)
辺りを月が照らし、卯月の柔らかい風が吹きぬけた。
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます!
これからは、はづきちゃんと勇一さん、そのまわりの赤木や洋ちゃんなどを思いきり書きたいと思っています。よろしければ、もう少しおつきあいください。
この話はもともと書くつもりがなく、書いてるうちにでき始めました。前書きの通り、自分でもかなり青臭くて粗いと思います。でも私が書いていきたい何かに通ずるとも思います。ご割愛を。