先生
「何か飲むかい?」
「いえ」
「そう。じゃあそこに座って」
研究室の中央で、田中と先生は向き合って座った。
「まずはソレを見せてもらおうか」
田中はスタンプラリーの紙を出し、先生に渡す。
「ふむ。どうだった?」
「どうだった、というのは」
「話を聞いてきたんだろ? 取り敢えず感想を聞こうかなと思ってね」
田中は押し黙る。訪れる沈黙に、先生は田中の顔を覗き込んだ。
「どうした? そんなに答えづらい質問をしたかな」
「そう、ですね」
歯切れの悪い返事。確かな同意と言うよりは、取り敢えずこぼれたものに聞こえる。
「先生。僕は貴方にどんな答えを返せば良いか、決められずに居ます」
「へぇ、不思議だね。私は君の率直な思いを教えてほしいと思ってるが、君は私の望む答えを出そうとしているのか」
「正直そこまで思ってるわけではないですが」
「自分の考えに自信が持てないのかな」
フッと先生は微笑み、そのままの表情で答えた。
「田中君。それはね、傲慢だよ」
「先生に対して、先生の望む答えに合わせようとしてることがですか」
「私は、君の本音を聞きたいと言っている。素直で真面目なのは君の良いところだと思うよ」
素直だと、そう評価することで何を引き出そうとしているのか。
考えを巡らせるが、田中の思考は一向にまとまらない。或いは考えることで、本心というのはより霞んでいくのかもしれない。
それでも、田中は考えることをやめなかった。
意地もあるのだろう。
「僕はもう1つ、それと同じ紙を持ってます」
「それは……」
「一番最初に話をしてくれた、渡部さんのものです」
田中が机の上に置いた古びて端の擦り切れた紙を、先生は懐かしそうに見た。
「これは彼が君に渡したものか?」
「はい。まだ自分で渡す勇気がないらしいです」
「そうか」
本人は気づいているのかいないのか、先生の口調や声色が新堂に近くなる。
田中の目が鋭く変わった。
「二人目の小倉さんは、僕に学びの価値を問いかけました。
三人目の藤崎さんは、精神の価値を問いかけました。
四人目の末道さんは、僕が気づかないうちにレッテルを張っていると教えてくれました。
五人目の木戸さんは、対等に話をしてくれました。それと、先生からの伝言を。
六人目の新堂さんは、物事の受け取り方は自分次第だと言ってくれました」
柔らかな語り口に対して、田中は先生を鋭く睨んでいる。
笑みの消えた顔で、先生はそれを聞いていた。
「どれも、初対面の人間に話すような内容では無かったと思います。先生の紹介だからこそ、この話を聞けたのだと思います」
「それは、謙遜かな」
「いえ。これから言う言葉はかなり傲慢ですよ」
そこで言葉を切り、意を決するような間があって、田中は続けた。
「先生はあの人達に自分から連絡することができなかった。だから僕を使ったんじゃないんですか?」
「へぇ、木戸さんともお話したんだろう? 君の言うような目的があるなら、普通は木戸さんにお願いするんじゃないかな」
「最初は僕もそう思いました。でも、彼女が私じゃ駄目らしいと言って、それでなんとなくわかりました。
彼女はきっとちゃんと話を聞いてきてくれる。それは木戸さんが優秀で、先生を高く評価しているから。だからこそ、木戸さんは駄目だった。
先生は自分を評価している人間を利用することを嫌った。そういった人間は自分の本性には気づけないと思った」
田中の言葉に、先生はフッと吹き出した。
今までにないどこか自嘲的な笑み。
「私の本性とはなんだ?」
「僕に話をしてくれた方の殆どは自分が原因で先生が距離を取ったと、そんな風に話していました。
教師である小倉さんは自分の先生としての在り方に疑問を持ってましたし、藤崎さんも用事以外で先生と連絡を取っているわけではないと言っていました。
でもそれは、先生がそう仕向けたんじゃないですか? 自分の元から離れていくように」
「酷いことを言うね。でもそんな事をしたら、私は皆に嫌われちゃうだろ?」
「本来はそうですね。でも気づかれないほど、貴方は上手だった。悪いのは自分だと思わせることができた」
田中はジッと先生を見つめ、言葉を続けた。
「僕が話を聞いた中で、貴方を嫌ってるような人間は一人もいませんでしたよ。先生」
合わさっていた4つの瞳のうち2つがやや震えて、泳いだ。
「わざわざ自分を好いている人間を遠ざける理由なんか、ないだろう?」
「一般的にはそうかもしれませんが、貴方は違う」
田中が先生に対して初めて使う強い断定。先生の表情が固まる。
「貴方は人間の悪い部分を見つけてしまう。優秀な部分よりも劣ってる点を探して、明るい話より暗い過去が気になってしまう。
だからこそ、そういった人間から好印象を寄せられたところで薄っぺらく感じる。劣ってる者が優秀な者を評価するのは当然だから。
そこまで傲慢でありながら、しかし先生は傲慢になりきれなかった。自分のことがどうしても好きになれなかった。
自分の悪い部分がどうしようもなく目について、他人の欠点よりも自分の欠点が気になってしまう。
だから他人に好印象を寄せられても肯定できない。それは自分の暗い部分を見ていないだけだから。上辺だけの薄っぺらい評価だ。だから失望する。何も見えていないのに好意を向けるな、と。
先生は何よりそう思ってしまう自分が嫌いだった。好意を素直に受け止められず、他人を忌み嫌う自分を他の誰よりも嫌悪していた。
だから自分の傍に誰も置きたくなかったんじゃないですか?
俺を使ったのも、極論誰でも良かった。自分から離れた人間であれば。最初にダメ人間のスタンプラリーって言ってたのも、ダメ人間は僕を指してるんじゃなくて先生自身を指してたんじゃないですか?」
長い長い語りが終わって、部屋には静寂が降りる。
やがて、弱々しい言葉が沈黙を破った。
「それが、君の感想かな」
「そうですね。ああいや、すみません。今のは僕の考えです。感想はまた別です」
先生が小さく首をかしげる。田中はおもむろに机の上にあった渡部の紙を手にとった。
「先生が僕を……そう、おつかいですね。おつかいに出して、僕は色んな人の話を聞いて、色んな人から想いを託されました。渡部さんのこれが、まさしくそうですね」
田中はそれを手の中で弄び、そして握りつぶした。
あ、と先生が声を漏らして、バツの悪そうに口に手を当てる。
「僕の感想は『こんな事に他人を使うな、他人を巻き込むな』です」
田中が握りこぶしを机に叩きつけた。手を開くと、中からクシャクシャになった紙が転がる。
いくら丁寧に伸ばしても、もう元には戻らないだろう。
「皆さんが先生に伝えたい言葉があるなら、直接伝えるべきだ。先生も皆さんに会いたいのなら、そうするべきだ。そこに僕みたいな他人が介在する余地なんて、本来は無いはずだ」
「それは、どの通りだね。本当に」
ふぅ、と長く息を吐き、先生は立ち上がった。
そのまま棚の影に消えていく。
「随分とハッキリものを言うようになったね」
「僕は先生に伝えたい事を伝えただけです。素直なのは良いことだって言ったのは先生ですよ」
「そう言われると何も言えないな」
先生の声とともにカチャカチャと食器がぶつかるような音が聞こえてきた。
「しかし君も、他人の事はあまり信頼していないんだろう?」
「なんで、そう思うんですか?」
やがて、先生は小洒落たカップと透明な液体が入った瓶を持って、机に戻ってくる。
今淹れたばかりであろう、香ばしく湯気の立つコーヒーだった。
「君は人の淹れた飲み物を飲まないだろう。店が作ったものならともかく、個人が淹れたものは飲もうとしない」
「あまり意識したことはありませんが、そうかもしれません。でもそれは、信頼していないからそうしている訳では無いです」
「どうだろうね。無意識なんだろう? 君も根本で他人から与えられることを拒んでいるんじゃないのか? それは貸しになるし、なにより」
そこで大きく含みを持たせて、先生は瓶の中にある透明な液体をコーヒーに注ぐ。
「大袈裟だが、他人の淹れた飲み物なんてどんな毒が入っているかわからないからね」
「それは……」
「良いさ。そういう君だからこそ、私の本性を疑うことができたんだろうから」
今までにないほど柔らかく微笑んで、先生はカップを手にとった。
「では、いただくよ」
ゆっくりと、先生はカップを口に近づけた。
その縁が唇に触れる前に、田中はカップを奪い取り、そして中身を飲み下す。
思いつめた田中の表情を、驚きに見開いた大きな目が見つめていた。
「思ってたよりも君は馬鹿なんだな」
「柄に無いことを頑張ったつもりなんですが、随分と突き放しますね」
「そういう事をする人だと思ってなかったからね。やるとしても、カップを叩き落とすぐらいだと思ってたんだけど」
田中が眉を強く寄せて、表情を歪ませた。
「……めちゃくちゃ甘いですね。これ」
「そりゃあそうさ。これはガムシロップだからな」
先生が瓶を細かく振る。中の透明な液体がチャポチャポと揺れた。
「先生が毒とか言い出すので」
「甘すぎるのは、体にも毒だろう?」
白々しく答える先生の顔を見ることができずに、田中はただうなだれた。




