六人目
「ようこそ」
壁にかかった絵や棚に置かれた彫刻。乾いた絵の具が床にこべりついて、木目をべっとりと塗りつぶしている。窓はない。他に目につくものは椅子とキャンバスしか無いにも関わらず、情報量の多い部屋だった。
「何か淹れたら飲むか?」
「いえ、自分は大丈夫です」
「そうか。そこに座り給え」
部屋の中央にある椅子を指されて、田中はそこに座った。部屋の主である女性が、真っ白なキャンバスを持ってきて田中の前に座る。
「私は新堂桜。君の先生の元恋人だ。油絵を描いている」
「元恋人ですか」
「期間はあまり長くなかったがね」
鋭い流し目を一度送ってから、新堂はキャンバスに鉛筆を走らせる。
耳の下あたりで整えられた短い髪。切れ長の瞳とそれを際立たせる線の細い顔。あまり見た目には気を使っていないのだろうが、それを補ってあまりある美形だ。
何を描いているのか、サラサラと鉛筆を動かす新堂に田中はおずおずと問う。
「付き合っていたのは、いつ頃ですか?」
「随分と前だな。彼女が先生になる少し前、私が絵で食っていけるようになる前だ」
一人目の渡部は大学生の頃に付き合っていたと言っていた。詳しい時系列はわからないが、恐らく渡部と別れた、自然消滅してから新堂と付き合い始めたのだろう。
「お互い不安定だったのだと思う。道が定まってからは自然と距離ができたからな」
「今の新堂さんや先生を見てると、不安定だったと言われても想像できませんね」
田中の言葉にピタリと鉛筆を止めて、新堂はじっと瞳を向けた。
沈黙。動かない新堂の眼は、見つめられている田中にすらどこを見ているのかわからない。
やがて、新堂の手が再び動き始めた。
「人は神と獣の間に生まれた存在だという話がある」
「神と獣の間、ですか」
「君に対して絶対者のような振る舞いをする者も、後ろめたい過去、表に出さない暗い感情がある。或いはその絶対者のような振る舞いも、獣の威嚇と大差ないのかもな。
自分の姿を大きく見せようとしているだけなら、吠えているのと変わらない」
敢えて分かりづらい言い回し、言葉を選んでいるのも絶対者としての振る舞いというやつなのだろうか。
中身に対し、新堂の口調から自嘲的な色は見えない。
「新堂さんや先生、今まで話をしてくれた方にも、獣の部分があるということですか?」
「そうだろうな」
ぐっと田中は奥歯を噛んだ。
外に出せないような暗い感情を獣と呼び、それを取り繕い綺麗事で目を覆う事が神の側面だと言うなら、田中はきっと獣寄りなのだろう。
同級生、五人目の木戸に対して、それほど自分は器用になれないと言い放ったのだから。
「彼女はまだ先生を続けてるんだろう?」
「はい。サークルの顧問もやってるみたいで、良い先生と言われてましたよ」
「良い先生か。そうか」
何気ない新堂の呟きに底知れない何かを感じて、田中は眉を寄せる。
「どう出会ったのか思い出せないほど、私と彼女はいつの間にか一緒に居た」
昔話なのだろう。田中は静かに耳を傾けた。
「私は画家という夢を追い続けていたが、当時は全く評価されていなかった。結果の伴わない努力を評価する人間は居ない。それは己自身すらそうだ。自己満足で続けるだけなら夢など捨てて好きに自由に書けばいい。夢というのは目標で、必ず結果がつきまとうのだから。
対して、彼女は自分の結果に納得できずに居たのだと思う。彼女は優秀だった。結果の伴う努力ができていた。ただこのまま自分が教師になったその先に、ある種絶望していたのかもしれない。
私と付き合う前に、彼女は小説家を夢見る男と付き合っていたと言っていた。単なる私の憶測だが、彼女は夢を追う人間の傍に居て自分を重ねたかったんだろう。
少なくとも互いに不安定だったのだと思う。さっき言ったとおりな」
新堂の鉛筆の動きが、キャンパスに擦れる音がより激しくなる。田中はゴクリと喉を鳴らした。
「私達2人は互いの鬱屈とした思いを感じ取って、惹かれ合ったんだと思う。だがしかし、結局それは心の隙間を埋め合うことしかできなかった。互いに踏み込んだ話はしなかった。できなかった。
何故だろうな。怖かったのかもしれない。私が彼女に悩みを打ち明けて、否定されることが。彼女は無謀な夢だと笑う人間ではないことはわかってる。夢を持たない人間への当てつけだと怒るような人間でないこともわかっている。だができなかった。
きっと彼女もそうだろう。私が彼女の望まない答えを言わないことはわかっている。
そうだな。だから、わからなかったのだろう。目を逸らし続けていた望まない答えこそが正しい答えで、間違った答えを選んでしまえば相手をより苦しめることになる。
そんな思いをするぐらいなら、初めからそういった話は避ける。そうしたんだ」
独白を続ける新堂の言葉と、機械のように動き続けていた鉛筆がピタリと止まった。
「互いを尊重したつもりでいたんだろうな。先に自分の悩みを打ち明ければ、相手は救うしかなくなる。自分の悩みを奥底に飲み込んだまま、救う側と救われる側に別れてしまう。
私達は対等でありたかった。正しい在り方はきっと、本心を晒し合うことなのだろうけど。それをやることで上下に別れることを恐れた。
いや、違うかもな。そんな高尚なものではなくて、救われる事を恐れていたんだ。自分の葛藤をわかってくれる相手であるだけに、それに救われる事を許せない。傲慢だ。勝手に自分の姿を重ね、自分自身に救われる事を嫌った。
悩みを打ち明けるのが正しい姿か。言い換えるなら、互いにズルズルと落ちていくだけの関係とも言えるかもな」
新堂の手の中にある鉛筆が、ミシッと小さく音を立てた。
「結局、彼女はそのまま教師になった。私は何も言えなかった。彼女も何も言わなかった。そうして、彼女から余裕がなくなって、自然と距離ができた。私は彼女にぶつけられなかった思いをコレにぶつけることにした。それまでは美しく写実的な絵を描いていた私は、それとは正反対の絵を描くようになった」
手の甲で、新堂はキャンバスを叩いた。空いた手でその縁をギュッと握りしめる。
「私が画家として評価されたのはその後だ」
新堂の体が、キャンバスから田中の方へ向けられた。ジッと田中を見てから、鉛筆を床に放り投げる。
投げ捨てられた鉛筆を見ながら、田中は問いかけた。
「先生には言ったんですか。新堂さんが画家になった事を」
「言えると思うか? 貴方が救われなかったお陰で、私は勝手に救われました、なんて。本心すら打ち明けられなかった私には到底無理じゃないか?」
返す言葉が見つけられず、田中は口を閉じた。
悪かった、と吹き出すように笑って、新堂は椅子に座り直す。
「長く話してすまなかったな。君には、人から言葉を引き出す力がある。姿勢がいいんだろうな」
「別の人には、猫背って笑われましたけどね」
「そういう姿勢じゃない。態度の話だ」
微笑みながら、新堂はキャンバスに描いた鉛筆の跡を消しゴムで消し始めた。
田中が声を出しかけて、それは新堂に遮られる。
「君の事を描いているつもりだった」
「俺、ですか」
「ああ。終わったら見せようかと思っていた。わざわざここに来るような人間には、そうしてる」
「だったら」
なんで消してるんですか、と田中は続けようとして、新堂の流し目で黙った。
「絵というものは結局、私達が見えない何かを見える形に落とし込んでいるに過ぎない」
「それは抽象的な作品がということですか」
「いや、写実的なものもそうだよ。これは私の考えだがね」
打って変わってゴシゴシとキャンバスを擦る消しゴムは、何かを塗りつぶしているようにすら見える。
「それは言葉もそうだ。不完全でありながら、絵や言葉には力がある」
「力というと」
「相手を動かす力だ」
ふぅ、と新堂が息を吐く。作業は終わったらしい。
「その、スタンプラリーというやつを見せてくれ」
促され、田中は胸の内ポケットから紙を取り出した。
それを手に取り、新堂は「ふむ」と呟く。
「私の話を聞いて君は何かしらを感じただろう。私の前の5人からも、君は何かを受け取って感じたはずだ」
「ありがたい事に、そうですね」
「だがな、君がどう感じるか、君がどう受け取るかというのは本来、君の勝手なんだよ」
言葉の真意を掴みかねて、田中が新堂を見つめる。
そこで彼女はニィッと口の端を釣り上げるように笑った。
「君は素直だ。相手が何を伝えたいのか汲み取って、あるがまま受け止めようとする。だがな、君が歪んだ受け取り方を望むならそうしていいんだ。受け取るのは君自身なのだから」
「それは、誠実さに欠ける気がしますが」
「良いんだよ。或いは、受け取ったものをドブに捨てたって良い。余計なものを背負うと身が重たいだろう」
「……なんというか、思ったよりも酷い事を言うんですね」
「私は低俗な方だよ。気取ってるだけで」
会話の最中に新堂は印鑑を押して、スタンプラリーの紙を田中に返す。
6つの穴は全て埋まっていた。
「コレを持って、君は彼女と話をしに行くんだろう」
「そうですね」
「さんざん私が話した手前で悪いのだが」
そこで新堂は、先程まで描いていたキャンバスを田中に向けた。
「君は、君自身の言葉で話せよ」
真っ白く、そう見えるキャンバスには、取り切れなかった鉛筆の黒が薄く残っている。




