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一人目

「ここか……」


 田中はスマホのメモ帳と地図のアプリを切り替えながら、『渡部』の表札がついた目の前の部屋が目的地であることを確認する。

 質素なアパートの一室。壁には長い年月の末にできた黒いシミが浮かび、白かったであろう壁は茶色くくすんでいる。駅からそこそこ歩かされたことを考えると、そこまで家賃は高くないのだろう。

 傍にあるインターホンを押す。クリック感の失われたどこか残念な感触とともに、部屋の中から電子音が聞こえてきた。


『はい。どちら様ですか』

「お電話した田中です」

『ああ、田中くんか。今出るよ』


 やや時間があって扉が開いた。

 中から出てきたのは30代前後の男。覇気のない優しげな顔には無精髭が目立つ。今日が平日の昼過ぎであることを考えると、世間一般的なサラリーマンではないのだろう。

 ちゃんとすれば低くないであろう身長をきつい猫背で曲げ、顔は自然と田中を見上げる形になる。クシャリと表情を崩すように笑って、渡部は扉を開け放った。


「とりあえず入ってよ。コーヒーでも淹れようか」

「いえ、大丈夫です。お構いなく」

「ん、じゃあやめとくよ」


 失礼します、と一言入れてから田中は部屋の中に足を踏み入れる。

 最低限の設備しかない手狭な間取り。しかし第一印象とは違って、中はキレイに片付いていた。細かいところに目を向けても、来客に合わせて急いで片付けたというような様子は見えない。

 あまり人の部屋を観察するのは不躾か、と田中は正面に視線を戻した。


「じゃあここ、座って」


 居間の中央に無造作に置かれているテーブルが指差される。よいしょ、と先に下座を取られたことで田中は上座の方に行かざるを得なくなる。

 田中は若干の気後れを感じながら座るが、渡部にそういった様子はない。そういったことは気にしていないのだろう。或いは、敢えて出口から遠ざけているのか。

 考えすぎだ、と田中は小さく首を振った。

 田中の考えを知ってか知らずか、変わらない口調で渡部は問いかける。


「わざわざこんな所まで大変だったでしょ。君もアイツに振り回された口だね?」


 アイツ、というのは先生のことだろう。

 田中は言葉を選んでから口を開いた。


「振り回されたのかもしれません。自分は、先生はあまりこういった事をしない真面目な人だと思っていたのですが、渡部さんに対しては違うんですか?」

「あまり畏まらないでもいいよ。僕に対しては君の楽なようにしてほしい。まぁ、そうだね。最近は話すことも少ないけど、アイツには色々付き合わされたな」

「……失礼かもしれませんが、渡部さんと先生はどういった関係なんですか?」


 打って変わっての鋭い質問に渡部は少し驚いた顔をしてから、寂しげに微笑んだ。


「俗に言う元カノと元カレってやつだよ。大学生の頃に付き合ってた」

「お二人は同じ大学だったんですか?」

「そうだよ」


 確か先生は相当いいところの大学を出ていたはずだ。

 ほんの一瞬の田中の視線に気づいて、渡部はハハッと笑う。


「いやぁ、今はこんなんだけど昔は結構頑張ってたんだよ」

「いえ……すみません」

「いいよ、気にしてないから」


 やってしまった、と口を閉じる田中に対し、渡部は軽く口に手を当てた。


「確か田中くんは僕に用があったんだよね。教えてくれるかな」

「えっと、これなんですが」


 促された事でようやく田中はスタンプラリーの紙を出した。


「借りるね」


 断りを入れ、渡部はその紙を取る。数秒眺めて、その口から「ああ!」と驚きの声が漏れた。


「これかぁ! はは、懐かしいなぁ」

「知ってるんですか?」

「知ってるも何も、僕もやらされたことがあるよ。スタンプラリーでしょ? これ」


 渡部の反応に田中は目を丸くする。その間にも渡部は楽しそうに言葉を続けた。


「僕の時もいきなりだったんだよなぁ、これ。友達とか先生とか」

「結局、渡部さんの時はどうなったんですか?」

「僕のときはねぇ、全部できなかったんだ。最後のスタンプが彼女の両親だったんだけど、僕に勇気がなくってね」


 両親の印鑑を押して貰うということは、きっとそういう事なのだろう。

 遠くを見るような目で、渡部は部屋の窓へ視線を送る。


「そういう事なら、印鑑ぐらいすぐに押してあげるけど。どうする?」


 ほんの少し考える間があって、田中は答えた。


「多分先生はちゃんと相手の話を聞かなければ駄目だ、と言うと思います。ですから、もう少し話を聞かせて下さい」

「そうか。うん、君は結構素直なんだね」

「それはどういう意味ですか?」

「答えがどちらか考えるにしては、間が短かったからね。多分、どう答えるかはもう直感で決まってて、それに自分が納得できるだけの理由を付ける。そういう時間に見えたけど、どうかな」


 指摘を受けて、田中は自分の思考を振り返り、息を呑む。図星だった。


「はは、あまりこういう意地悪なのは得意じゃないんだけどね。僕自身はあまり考えるのは苦手だけど、人のことはそれなりに見てきたからさ」


 最初、先生と渡部が同じ大学という話をしたときも、渡部はすぐ田中の視線に勘付いた。人のことはそれなりに見てきたという言葉は本当なのだろう。

 そうでありながら意地悪なのが得意じゃない、というのは、渡部にも隠している気苦労があるのかもしれない。


「凄いと思います。僕は、そういう事は苦手ですから」


 田中は己を振り返ってそう答えた。

 この部屋に入ったときもそうだ。細部や相手が隠そうとしているような部分にまで目を向ける卑しい自分がいる。そうやって見つかる他人の暗い部分にも、それを見つけてしまう自分にも嫌気がさして、田中はあまり同級生とも関わろうとしてこなかった。

 或いは、渡部が言うほど田中が素直であったのなら、違ったのかもしれないが。

 卑しい自分を知るからこそ、田中は自分を信じられずにいる。


「人を気遣うことは、必ずしも良いことじゃないと僕は思うけど、うん。そうだね。ありがとう」


 そこで言葉を切って、渡部はまた表情を微笑みに戻した。


「さて、じゃあ話を戻して、僕のことでも話そうか。聞いてくれるかい」

「お願いします」

「ありがとう。それじゃあまぁ、こんな時間に君と話してる時点で察してると思うけど、僕は今フリーターなんだ」


 卒論を受け取ってもらえるかどうかの人間には少々笑えない告白に、田中は乾いた声を漏らした。


「就職できなかったわけじゃないよ。夢が無かったわけでもない。僕はね、小説家になりたかったんだ。頑張って色々書いて、賞に応募したりもした。惜しい所まで行ったりしたんだよ。これでもね」


 ポツポツとこぼれていくような言葉を、田中は真剣に聞いていた。


「アイツのスタンプラリーに付き合わされたのは、僕が社会人として落ち着いてからだった。電話番号に名前が書いてなくてね、最後の一つに電話をしたらアイツのご両親で、心臓が止まると思ったよ」

「それで、どうしたんですか?」

「間違い電話のふりをして切った。すぐに両親ってわかったからね。その後、アイツと話をして」


 そこで、意を決するような一拍があって、渡部は下唇を噛んでから言葉を継いだ。


「僕もね、煮え切らない想いがあったんだ。就職はしたけど小説も書きたくてね。ようやく落ち着いてきたところでスタンプラリーみたいなのに付き合わされて、それで、もう一度書きたいなって気づいたんだ。

 そこからは、僕にしては思い切ったよ。会社にどこかでまとまった有給が取れないかって話をして、半年を目安に自分の中で最高の作品を作ろうとした」


 過去を語る渡部の目に、今までの態度からは考えられない鋭い光が宿る。

 彼の譲れなかった点なのだろう。


「できたんですか、最高の作品は」

「あるよ。今もそこの棚の中に眠ってる」


 言葉に引っかかりを覚えて、田中は渡部の顔を覗き込む。

 痛々しい、自嘲的な笑顔だった。


「作品はできた。その時はこれ以上ないものができたと思っていた。だからこそ僕には、最後の一歩を踏み出すことができなかった」

「それは、つまり」

「どこにも送ってないよ。その原稿は。結局悩んで、腐って、会社も彼女と付き合うのもやめてしまった。そして今ここにいる」


 田中は声を出せずにいた。そこまで他人の根本的な話を聞いたことがなかったから。

 その緊張を解すように、渡部はフッと微笑む。


「でもね。僕は満足してるよ」

「満足、ですか」

「きっと良くない流れのまま、吹き溜まるみたいにここに居着いた、このボロアパートの狭い部屋でも僕は満足だ。それはかつての僕の結果だから。

 仕事を続けていれば、原稿を送っていれば、もしかしてアイツと結婚でもしていれば、もっと違ったのかもしれない。でもそうしなかった」


 できなかった、という表現は決して使わない。そうではないことは、渡部自身が一番わかっていた。


「原稿も、なんならあの時のスタンプラリーの紙だって、僕は捨てれずにいる。こうして君と話してるのも甘えてるのかもしれない。君と僕の接点は、アイツしかないからね」

「それは、でも、僕は渡部さんの話を聞けて嬉しいです」

「ありがとう。でもね、これは僕の話なんだ」


 渡部の声には確固たる何かが宿っていた。


「この部屋、狭いけど物は少ないだろ?」

「ええ、そうですね。片付いてるなと思いました」

「多分心のどこかで嫌がってるんだ。関係のないものを持ち込むのを。必要なものと、腐った夢の残り物だけを、この部屋に置いておきたいんだと思う」


 そのどこか他人事めいた言い方は、自分のことを嘲っているようだ。

 田中の事を素直と評し、笑顔を向けたその真っ直ぐさとは裏腹な歪みが、そこにはある。


「だからね、田中くん。これは僕からの一番のメッセージだ」

「はい」

「目の前の事にちゃんと向き合ってまっすぐ受け止める。難しいけど、そうして欲しい。君がこのスタンプラリーを続けるなら、きっとそうしなきゃいけない。君にはそれができる誠実さが、素直さがある」

「……わかりました」


 渡部の言葉に田中は深く頷く。それを見てから満足そうに笑って、渡部は「よし」と立ち上がった。


「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」


 棚の中から何かを取り出してから、渡部は別の部屋に消える。ややあって、渡部は二枚の紙を手に戻ってきた。

 片方は渡部の印が押されたスタンプラリーの紙。もう片方は同じ大きさの、印鑑が5つ押された紙だ。


「これは」

「俺のやつだよ」


 渡部の笑顔と印鑑の押された紙を田中は交互に見る。


「アイツに返してほしいんだ。まだ僕は、直接会う勇気がないからさ」

「わかりました」


 田中は立ち上がり、両手でその紙を受け取った。渡部が片手を出して、握手を交わす。

 じゃあ、と渡部の案内を受けて、田中は部屋を出た。


「頑張れよ。俺も頑張るから」

「はい、ありがとうございます」

「じゃあね。その番号はいつでも電話していいから」


 別れの挨拶は驚くほど簡素に、部屋の扉が閉められる。

 隠そうとしていただけで、渡部にとっても辛い話だったのだろう。


「ありがとうございます」


 逃げるような、そんな最後だったとしても。渡部は田中に思いの丈を伝えた。

 田中はもう一度深く頭を下げて、扉の前から去った。

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