英雄フォーエバー
街はお祭りムードだった。
これから死地へ向かう者たちへの贐のようで──いや、間違いなく贐だ。
送り出す彼等とは、これが今生の別れになるかも知れない。
──国境で魔物が出た。
およそ三百年前に、全滅したとグレイスは学校で習った。
魔物なんて、はるか昔の御伽噺で一種の宗教のように感じていたのに──まさか、こんなことになるなんて思ってなかった。
ドン、ドン、ドドン、三回連続で花火が上がる。
真っ黒な空に大輪の花が咲いて、消えた。
……消えないでほしい。
彼を連れて行かないでほしい。
心の中で祈った。
グレイスは、祈りを欠かしたことがなかった。
教会には毎週通って祈っていたし、他人には優しく、困っていたら助けることを心掛けてきた。
辛いことがあってもそれに浸ることなく頑張ってきた。
驕らず、真面目に、誠実に、生きてきた。
だから──
でも、祈りは届かなかった。
神なんて所詮、偶像だ。
そんなこと、とっくに知っていたのに。
暗い部屋の中で花火はよく見えた。
隣のリオンの横顔にも、花火の色が落ちて綺麗だった。
綺麗なんて言ったらリオンは怒るから言わなかったけれど。
きっと、この景色をグレイスは忘れることができない。
美しい思い出を残して逝かないでほしい。
そもそも思い出は美化されるものである。
それなのに、きらきら光り過ぎるそれを一生抱えて生きていかなければいけないなんて酷だ。
忘れることを許されていないのに、その思い出には触れることができないなんて、そんなのあんまりだ。
だから優しくしてほしくなんてなかった。
酷くしてくれればよかった。そうしたら、グレイスはリオンを責めることができたのに。
でも、リオンは優しかった。
一つ一つ、全部、確認してからグレイスに触れた。
いちいち聞かなくてもいいことまで聞いてくるので、グレイスは笑ってしまった。
「おい、笑うな」
笑うグレイスをリオンが怒る。
「だって、リオンが……」
こんな風に触れる人だなんて思わなかったから、なんて言ったらもっと怒らせてしまいそうだ。
「なんだよ」
「私が嫌だって言ったら……?」
「我慢するに決まってんだろ」
「できるの?」
「できるできないじゃない、グレイスが嫌だって言うなら……しない」
意地悪を言ったことを反省した。
彼はグレイスが嫌なことはしたくないらしい。
「……嫌なのか」
不安になんて思わなくてもいいのに。
きっと彼になら何をされても許してしまうのだ。
「ううん。……あのね、私の『嫌』は『いいよ』って意味だから、やめなくていいんだよ」
そう言うと、リオンはグレイスに確認することを漸くやめた。
でも、やっぱりすごく優しかった。
「行ってらっしゃい、リオン」
行かないで、喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。
「行ってくる……グレイス」
「何?」
「いや、腹出して寝るなよ」
こんな時でも笑えるなんておかしいと思いながら、笑みが零れる。
彼と話すのが嬉しくて、楽しい。
「お腹出して寝てるのはリオンでしょ? ねえ──」
──気を付けてね。
そんな言葉に意味なんてあるのだろうか。
結局言えないまま、彼は行ってしまった。
他の騎士団員達が手を振る中、リオンは一度もこちらを振り返らなかった。
国の騎士団が魔物の討伐に行くと聞いた時から嫌な予感はしていた。
なんで嫌な予感ほど当たってしまうのだろう。
家族が、死んだ時も嫌な予感がした。
胸騒ぎがして、変な諦めが胸の中をぐるぐる渦巻いた。
あれは、嵐の晩だった。
病気の祖父を評判の医者に診せに連れて行った帰りの出来事である。
翌日、冷たくなった三人と対面したグレイスは、嘆く祖母の横で涙一つ見せなかった。
残された祖母は優しく愛情深い人だったけれど、そのせいか心を病んでしまい、あっと言う間にグレイスは一人になった。
──一人にしないで、皆を返して。
あの時もグレイスは神に祈った。
本気で信じていたわけではない。ただ、縋るものがないと、生きてはいけなかった。
魔物討伐には、資格は要らず誰でも行ける。
それ故に、騎士団が行くことになった。子供や年寄りを行かせるわけにはいかないからだ。
しかし、今回送り出されたのは騎士団の中でも志願者だけである。
リオンのことを男手一つで育て、ついでにグレイスのことも拾って育ててくれた騎士団長が魔物に襲われた人々を守って死んだ──これは弔いなのだ。
だから、グレイスはリオンに「行かないで」とは言えなかった。
十二の頃から三年間、一緒に暮らした家族だとグレイスは思っているが……彼はどうだろう。
多分、認められていない。
一度「お兄ちゃん」と呼んで嫌がられたことが証拠だ。
騎士団の寮に入ってしまってからは月に二、三度顔を合わせるだけになり、よそよそしくなってしまった。
どうやら、グレイスが家に居るから寮に入ったらしいのだ。
リオンの父──グレイスの義父は「仕方のない奴だ」と笑っていたが、グレイスはずっと申し訳なさを感じていた。
グレイスは両親がいる頃から彼がずっと好きだった。
リオンは曲がったことが大嫌いで、正義漢で、情に厚くて、自分に厳しく他人に優しい男だ。
皆、彼が好きだった。憧れていた。
グレイスもその他大勢の中の一人である。
あんな人好きにならない方がおかしい。
リオンは昔から怖いもの知らずだった。
ガキ大将が大人になったみたいな男である。
そんな彼が、打ちあがった花火を見上げながら「怖い」と言った。
身持ちが軽いだの、貞操観念が低いだのと思われても良かった。
自分がたった一時でも、彼の慰みになるならそれでいいと思った。
昼間の空に、花火が上がる。
街はお祝いムードだ。
リオンが生きて帰ってくることは、彼と同じ騎士団にいる者の奥方から聞いた。
筆不精のリオンは、グレイスに一度も手紙をくれたことがない。
リオンは、昔から「いつか大業を成すだろう」と言われていた。
だから、彼が魔物を討伐したと聞いた時は納得した。
同時に寂しさも感じた──彼は英雄になってしまった。
もともと近くにいたわけではない彼が更に遠くへ行ってしまったのだ。
凱旋の中、リオンの隣には可憐な少女がいた。
ああいう子が好きなのか、とぼんやり思った。
自分は過去の女だ。いや、違う、過去に関係をうっかり持った女だ。
それなのに──
だから、グレイスは言わないことにした。
「おかえりなさい、リオン」
半年も見ないうちにまた男ぶりが上がったリオンが眩しくて、グレイスは目を細めた。
「……た、だいま……?」
魔物の討伐を終え、久しぶりに会った四つ年下の幼馴染は妊娠していた。
大ショックである。
『俺、魔物討伐したらグレイスに求婚するんだ』
──あの台詞がダメだったのだろうか。
あれほど仲間達から「言うなよ、言うなよ」と言われていたのに、言ってしまった自分は大馬鹿野郎である。
それよりも、だ。
どこのどいつだ、可愛いグレイスを妊娠させたのは。
大体、この子はまだ十七歳だ……未成年である。そもそも同意の上だったのだろうか。
相手は、次第によっては殺さねばならない。
「で、相手は誰なんだ」
「……リオンの、知らない人」
グレイスは嘘が下手である。
嘘を吐きながら目を合わせられないのだ。
「へえ? じゃあ、挨拶しないとなあ」
リオンの言う『挨拶』は、『ぶっ飛ばす』、もしくは『ぶっ殺す』という意味である。
「……い、いい。そんなの……しなくていい」
グレイスはどんどん声が小さくなって、ついには俯いてしまった。
いつもなら、グレイスの嘘なんて見逃してやるが今回だけは絶対に見逃したりしない。
絶対にだ。
「親父がいない今、俺がグレイスの保護者だ。絶対に会う。これは決定事項だ」
「でも、忙しいから……無理かも……」
「口答えすんな」
「……」
──言い過ぎた。これは、まずい。
リオンが後悔し始めたと同時に、グレイスはしゃくり上げた。
「ご、ごめん! ごめん、言い過ぎたな、うん。俺が悪かった。グレイス、泣くな。頼む、泣くな」
リオンはグレイスの泣き顔に、とんと弱い。弱点と言ってもいい。
昔からこの子が泣いていると、泣いた原因(のいじめっ子)を突き止め解決してきた(ぶっ飛ばしてきた)。
しかし、今、彼女を泣かせているのはリオンだ。
「グレイス、もしかして……相手は、結婚できない男なのか?」
こくんとグレイスが頷く。
「そうか……」
その男はいつか絶対殺すとして、今は『これから』の話をしなければいけない。
グレイスが子供を産むなら家を新しく買う必要がある──魔物の討伐で、リオンは懐に余裕がある。出産にも万全の体制を整えよう。
リオンには、グレイスを養っていく覚悟なんてとっくにあった。当たり前だ、求婚するつもりだったのだから。
──それに彼女の血が半分でも入っている子なら、きっと愛せるはずだ。
「グレイス、安心していい。俺がいるからな」
グレイスが泣く度に言ってきた言葉である。
いじめっ子にいじめられた時、家族がいなくなった時、義父が死んだ時、そして『今』だ。
リオンはグレイスが泣かなくて済む為にこの言葉を使う。
今回は、言葉だけで終わらせるつもりはない。
どうして、こうなったのだろう。
グレイスは大きいお腹を摩りながら考えていた。
いつ産まれてもおかしくない状態のグレイスが住んでいるのは王都の一等地の一角である。
魔物討伐の英雄たる彼が、グレイスと産まれてくる子供の為に購入してくれたのだ。なんと、産まれるまでお手伝いさんまで雇ってくれた。
一人王都を離れてこっそり産んで、ひっそり暮らすつもりだったのに……どうしてこうなった?
『俺が父親代わりになるからな』
グレイスのお腹を撫でたリオンは言ったが、本当に、正真正銘、産みの父親は彼である。
グレイスはリオンとしか、子供ができる行為をしていない。
たった一回だが。
その時だ──「あ……っ!」
グレイスは破水した。
グレイスは、男の子を無事に出産した。
緑がかった黄色の髪に、瞳の色はまだ分からないが、誰がどう見ても──
似ていても、ちっともおかしくない。リオンの子なのだから。でも、こんなに似るとは思わなかった。
まだふにゃふにゃとした『猿のような何か』だがリオンの要素が見える。
ぎゅっと結んだ頑固そうな口元なんて、彼そのものである。
「……この子、俺に似てない?」
騎士団から走ってきたのか汗だくの彼が言うと、産婆がリオンを睨んだ。
その目は『何言ってんだ、お前の子だろうがボケナス』と言っているようである。
「え! も、もしかして……あの時の……!?」
この言葉に、ぶち切れた産婆がリオンの頭をべちんと叩いた(カルテの角で)。
「痛えっ! 何すんの、おばちゃん!」
「お母さんの方が痛かったわよ! ったく、男って本当しょうもないわねえ、もう!!」
リオンが産婆の前で頭を摩りながら、グレイスと産まれたばかりの自分そっくりな子供を見比べている。
「責任取りなさいよ、あんたぁ!」
「もちろん、取る!!!」
産婆の怒鳴り声に、リオンが叫んだ。
「……リオン、いいの。私、別に……」
「大丈夫だ。グレイスもその子も、俺が責任持って、」
「いいってば!!」
責任なんて……言わないでほしい。
そんな言葉は聞きたくなかった。
リオンの言葉を遮るグレイスの声が大きすぎて、腕の中で我が子が「ふにゃあ」と泣き出した。
「泣いてる。ほら、貸して」
危な気なく、子供を抱きかかえるリオンのそれは、グレイスより上手だった。
グレイスが不思議に思っていると耳を赤くした彼が「練習したんだ」と小さく呟いた。
「リオン、リオンは……好きな女の子がいるんじゃないの?」
「ああ、いるけど?」
「……やっぱり……いるんだ」
彼の口から聞くと、分かっていたことでも辛い。
「おいおい、この話の流れだと、グレイスしかいないじゃん。本当に鈍いよなあ」
子供をあやしながら言うリオンの顔が優しい。
グレイスの大好きな笑い方だ。
「嘘、リオンの好きな子は……凱旋の時、隣にいた子でしょ?」
「いや、あれ男だし。まあ遠目から見たら美少女だしな、あいつ」
今度紹介するよ、と言って子供の頬を優しく撫でる。
「俺の家族になってよ、グレイス」
子供ごと、抱き締められてグレイスは我慢していた涙腺の線を開けた。
答えなんて決まっている。
「うん」
──魔物を討伐するより、もっとずっと前から、リオンはグレイスの英雄だった。
そしてこれからも、ずっとリオンはグレイスの英雄だ。
【完】