ましろき穂綿にくるまれて
秋も深まった月では、蒲の花穂が咲いて白い綿毛が泡のように水辺を囲みます。
時おり、水面を揺らす強い風に、種を抱いた綿毛が吹き飛ばされて、水辺に新たな蒲の茂みを作るのです。
その綿毛は「穂綿」と言います。とても柔らかくて軽いので、紡いで布にしたり、乾燥させて布団に詰めたりします。それだけではなく、焚きしめて虫除けにもなります。
そして月兎たちは、蒲の穂が咲くのを待ち構えて、風に飛ばされる前に穂綿を集めます。
この日は風もなく穏やかで、穂綿を集めるには格好の日和りです。
蒲の茂みの隙間からは、二対の銀色の耳が忙しそうに見え隠れしていました。
「いたっ!」
「銀兎、どうしたの?」
「葉っぱで切っちゃった……」
蒲の葉でつけた傷は、いつまでたってもヒリヒリ痛みます。どんなに気をつけても、蒲の茂みに入ると、一つや二つは傷がつきます。
白兎は銀兎の傷を真水で洗うと、蒲の穂を振り黄色い花粉を腕につけました。そして傷口を、やわらかな穂綿で包みました。
「蒲の花粉はね、蒲黄って傷薬なんだよ」
そう言って、しばらく押さえていると、ヒリヒリした痛みが静まりました。
「はくと、すごいね、もう、痛くないよ!」
ほらっ、と銀兎は腕を振り回して見せました。
「あのね、ススキでケガしても、ヒリヒリ痛かったの。どうしてかな?」
白兎は銀兎が十五夜のススキ苅りで、傷だらけで戻ったときの大騒ぎを思い出して、溜め息まじりに笑いました。
「それはね、ススキと蒲は仲間だからだよ。葉っぱのへりがノコギリになってる」
「わ、ホントだ! ギザギザだ!」
銀兎は穂綿を摘みながら、白兎に「どうして」を繰り返しました。白兎は、それのひとつひとつに、丁寧に易しい言葉を選んで答えてくれました。
「はくとは物知りだね。主様も安心だって言ってたもんね」
「銀兎『おっしゃる』だよ」
「はい「おっしゃってました」! ふふ、ボクもなれるかな、はくとみたいな月兎に、なりたいなぁ」
銀兎の瞳は、憧れ色に染まっていました。
しかし、その素直で真剣な眼差しは、小さな棘となって白兎の心を刺しました。
棘は蒲の葉の傷のように、ヒリヒリと痛みました。
「僕はずっと長く月にいるからだよ。きっと銀兎なら、立派な月兎になれるよ」
いつでも揺らぐこと無く、純粋にツクヨミ様を慕い、真摯に月を愛おしみ、月兎の自分を誇れる。白兎には、そんな銀兎がとても眩しく感じました。
銀兎の肩に手を置いた白兎の視線は、銀兎を通り越して、もっと遠くを彷徨っていました。
「はくと?」
名前を呼ばれてハッとすると、白兎は頭を振って、自分の心に淀む影を払いました。
「さ、カゴ一杯に穂綿を集めるよ」
水辺を渡る風が、蒲の茂みをぎるように過ぎました。その風はとても冷たくて、秋の終わりを告げていました。
そう、もうすぐ月が変わり、十の月です。
八百万の神々が「出雲」に集い、「神議り」が行われる特別な月です。もちろん、ツクヨミ様も「出雲」にお渡りになります。
白兎は主様を見送る度に、体から心が抜け出て、後を追いかけそうになります。
だって「出雲」は、白兎の故郷ですから……
だから、白兎は十の月が苦手でした。
心がソワソワと落ち着かず、出雲に引き寄せられてしまうからです。
「……っつ」
白兎は指先をぺろっとなめて、蒲の花粉をつけました。気がつくと、白兎の両手は傷だらけで、黄色く染まっていました。
せっかくの穂綿集めも、銀兎に教えるどころじゃなくなっていました。一度、囚われた気持ちは、遠い昔の想い出に漂ってしまうのです。
白兎が、まだ「イナバ」と呼ばれていた昔です。
イナバは、出雲の治める小さな島に生まれました。イナバは生まれた時から、特別な存在でした。
毛並みは銀毛、瞳は暗緑色。およそ、ただの島兎には見えませんでした。
仲間の島兎も、両親までもが、イナバに恭しくかしずくのでした。そして長じるにつれ、聡明な言葉を操り始めると、皆がイナバの前で平伏すようになりました。
イナバも自分が特別だと、十分理解していました。そして少しずつ、この小さな島に縛られていることが、不満になったのです。
海で隔てられた出雲は、八百万神が降臨される清浄な地。
イナバは、出雲こそが自分の在るべき場所だと、思い込むようになりました。
大空を渡る鳥だけが、この島と出雲をつなぐ鍵でした。しかし、鳥たちはイナバを運べるほどに大きな翼を持っていませんでした。
イナバは、ついには大海の和邇鮫を欺き出雲の地へ渡りました。しかし、高慢であったイナバは、見返りに大怪我を負い、二度と故郷の島へは戻れませんでした。
「はくと、はくと、カゴがいっぱいだよ!」
銀兎の声は、白兎を過去から呼び戻しました。しかし、白兎はあまりにも深く想い出と繋がっていたので、すぐには返事が出来ませんでした。
白兎の様子がいつもと違うと気づいた銀兎は、心配そうに顔を覗き込みました。
大丈夫だよ、と言おうとした白兎は、だんだんと銀兎の姿が歪んで、滲んで見えなくなりました。
「はくと! どっか、痛い、ケガしたの?」
銀兎が一生懸命、白兎の頬をつたう涙を拭ってくれました。そうされて、初めて自分が泣いていると気づきました。
涙の止まらない白兎を座らせて、銀兎は水筒の月光花茶を飲ませました。そして銀兎は、さっき白兎がしてくれたように、真水を両手ですくってきました。
「はくと、どこケガした?」
傷を洗うようにと、白兎の前に両手を差し出しました。
痛いのは心です。目に見える傷ではないのです。しかし、白兎は銀兎の優しさが自分の中に沁み込むのを感じました。
その時、バサーッと頭の上から蒲の花粉が降ってきました。そして次に、カゴの中の穂綿で白兎の体を包み始めました。
「大丈夫だよ、ボクがいるからね、はくと」
銀兎はにっこりと笑って、穂綿に包まれた白兎を抱きしめました。
望郷の気持ちは失せることはありません。
出雲に、あの故郷の島には、白兎の一部が取り残されているのを知っています。
だから、いつも何か足りない、満たされない気持ちになるんだ、と白兎は言いました。
「僕の心は、十六夜の月みたいに欠けてるんだよ」
「はくと、月がキライ?」
「そうじゃないんよ、……ただ、月の他にも大切なものがあるんだ」
「ボクもね、ボクもそう。月が好き、主様も好き、はくとも大好きだよ」
そう、だから、たくさんの好きがあっていいんだよ、と銀兎は言って、またギュっと白兎を抱きしめました。
銀兎の優しさと温かさが、白兎の欠けた心を満たして、満月よりもまあるく輝きはじめました。