[9]かなしい村
「海は、お嫌いですか?」
文乃さんからそう言われなければ、自分が険しい表情で遠くに見える夏の水面を睨んでいたことに気が付かなかった。
「いえ、そういうわけではありません」
海が嫌いだと思ったことはない。
「ただ」
思い出すだけだ。
あれから半年が過ぎた今も、僕は海を見るだけで『あの村』での出来事を思い出してしまう。
とても、悲しい事が起きた。
怖いとか、苦しいだとか言うまえに、僕は昨年の冬に体験した思い出を人に語って聞かせる時、必ず泣きそうになるほどの悲しみに、いまだ苛まれるのだ。
「…ここからは、歩きになります」
文乃さんに誘われて踵をかえし、僕はきらきらと光り輝く海から視線を切った。
海沿いの街道にあるコインパーキングに車を停め、そこからは山側へと方向を変えて歩いた。車が入れないような狭い道ではなかったが、近隣住民の事も考え、出来る限り路駐などで迷惑をかけたくないという、文乃さんなりの配慮だった。
文乃さんは夜通し車を走らせ、周囲が白々と開け始めた早朝になって、僕たちは目的地へと到着した。僕と話をしていたおかげで居眠りをせずに済んだと文乃さんは笑って言ったが、その顔にはやはり疲労が浮かんでいたし、決して楽しい話だけをしていたわけでもなかった。
見知らぬ街の、地元民しか通らないような道を、文乃さんの後ろをついて歩いた。
まだ地域全体が眠っているようで、まるで現実味がない。
「内藤さんというご夫婦です」
歩くのが遅い僕を待って、隣に並んだ文乃さんが教えてくれた。
「お付き合いは、長いんですか?」
と聞くと、文乃さんは黒目を一回転させて、相当、と答えた。
海が近いせいか、朝の早い時間のためか、まだ辺りは涼しく家々の間には霧が出ていた。
その家は、僕たちを出迎えるかのように路地の突き当りにこちらを向いて立っていた。家の前は丁字路であり、上辺の片側は公園へと続いていて、住宅地の中にあっても狭苦しい印象はない。
「良い場所ですね」
と言うと、文乃さんも公園へと視線をやり、
「この時期は特に、朝からラジオ体操の声が聞こえてくるそうです。下見に訪れた時、ここで遊んでいる子供たちをみつけて、ああ、いいなあ、と」
「下見からお付き合いされてるんですか」
「まあ、はい」
照れたように笑う文乃さんに感心しきっていると、話声が聞こえたのか、家の中から家主と思われるご高齢の男女が連れ立って現れた。七十歳は回っているだろうか、ともに白髪ながら彫りの深い美男美女の老夫婦だった。彼らは文乃さんの顔を見るなり破顔して両腕を開くと、遠地よりの来訪に感謝を述べつつ彼女を強く抱きしめた。
ご主人は内藤基さんと仰り、今年で七十六歳だそうだ。奥様は名をミーナさんといい、ご主人と同じ七十六歳。失礼ながら、ご高齢の割に可愛らしいお名前だなと思っていると、
「奥様はアメリカのご出身なんですよ。こちら、お友達の新開さんです」
と文乃さんがお二人に僕を紹介してくれた。両手を差し出して名を名乗り、挨拶を交わした時初めて、ミーナさんの目が青く透き通っていることに気が付いた。
家の中に案内されて、思わずぎょっとする。玄関からしてすでに段ボールが積み重なり、廊下から家の奥へとその状態が続いている。その筈だ。ご夫婦は一昨日引っ越してきたばかりなのだ。文乃さんは山積みになっている段ボールを見渡すと、袖を捲る振りをして「よーし」と息巻いて見せた。
「あ、新開さんは休んでいてください。私こう見えて、こういう作業は得意ですから」
僕は呆れて吹き出し、
「何を言ってるんですか。文乃さんはずっと運転しどおしでお疲れなんですから。指示さえいただければ、体を動かすのは僕がやります」
自信はなかったが、ご夫婦と文乃さんを前にして休んでなどいられるはずがなかった。
しかしご主人の内藤基さんは、「そんなことは私達が日をかけてゆっくりやればいいことだから」と言って手伝いを頑なに固辞した。
「それよりも、うちの家内から、話があるんだよ」
そう言われて、僕たちはリビングに通された。基さんの表情が明るいとはい言い難かった為、僕と文乃さんは一瞬お互い見やり、返事は曖昧な頷きを返すのみだった。
どこか家の近くで、アァー、と烏の啼く声が聞こえた。
リビングの中央部分に置かれたテーブルとL字型ソファーの周囲を、段ボールが囲んでいる。
僕はふと、言い知れぬ違和感を抱いて部屋の中を見回した。何かがおかしい。どこか引っかかる。しかし胸騒ぎのような不安の原因をうかがい知ることは出来なかった。文乃さんとミーナさんが並んでソファに腰かけ、お互いの手を握り合っている。
「曾祖母様のことは、残念でしたね」
と、ミーナさんが文乃さんに声を掛けた。僕はどきりとして、不躾けなほど二人を見つめた。
「立っていないで、君もお座りなさい」
基さんに促され、僕は彼と並んでソファーに腰を降ろした。
ミーナさんはおばあさまではなく、ひいおばあさまと口にした。その言葉だけでは父方か母方は分からないが、僕は当然のように玉宮小夜さんを思い出していた。昨年の十二月、関東近郊にある『しもつげむら』という村で僕と玉宮さんは出会った。御年八十歳を超えた彼女は何を隠そう、文乃さんの曾祖母だったのである。しかし玉宮さんは不幸にも、村で起きたとある事件によって命を落とした。僕はその現場に立ち会い、だが曾孫である文乃さんはいなかった。
文乃さんは一言で表現できない複雑な微笑みを浮かべ、ミーナさんの手をぽんぽんと叩いた。
「玉宮さんを、ご存知なんですか?」
尋ねる僕に、ミーナさんは目を丸くした。あなたこそ、そういう顔だった。
「よく知っているよ。私たち夫婦は大昔、あの村に住んでいたことがあるからね」
僕の隣に座る基さんが、代ってそう答えた。
「そうでしたか」
「新開君といったね。君は若いのに、よくあの村の事を知っているんだね」
穏やかな口調で話す基さんに、僕は何故だが褒められたような気になって、頷いた。
「縁がありまして、昨年末にあの村を訪れました。玉宮さんとも、お会いしています。双子のお姉さんである、紅おことさんとも」
「そうだったんだね。年末、ということは例の?」
「はい」
玉宮小夜さん、そして双子の姉である紅おことさんを同時に亡くした痛ましい事件(『しもつげむら』新開水留著、参照)。その惨劇の顛末に僕は居合わせ、ほぼ無関係者の立場ながら全てを目撃した。対する文乃さんは曾孫でありばがら、玉宮さんたちの最後に寄りそうことが出来なかった。玉宮さんの死を伝えたのも、僕だ。
文乃さんが僕を見ながら、言う。
「村にいなかった私は、なんというか、実感がない、といいますか。顔を見る度、ミーナさんはこうして残念だったと声をかけてくださるのですが、やはり、今でもどこか現実味はないんです」
知っている。
そして、驚くべきことに、と言ってしまうのは失礼にあたるのもかもしれないが、僕が文乃さんにあの村での出来事を報告してから今日まで、彼女は一度として涙を見せていない。もちろん彼女なりに、曾祖母である玉宮さんの死を悼んでいる。しかし一度も泣いていないと本人は語り、実際その姿を僕も見ていない。
「私と家内が一緒になった理由のひとつでもあるんだがね」
と、基さんが言った。場の空気を換えようと、その口調はほんのすこし明るかった。
「私と家内はクリスチャンでね。その昔、あの村には布教活動の一環で移り住んだんだ」
…布教。
内藤基さんが牧師や宣教師なのであれば、もちろんおかしな話ではない。しかし。
「しかし、知っての通りあそこには変わった代物があったからね。私たちが望んでいたようには、主の教えは広まらなかったんだ。ただ、村人たちは優しかったよ。この文乃ちゃんがまだ、生まれる前だったけどね」